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ワルシャワ(その二)<旅日記第37回 Oct to Nov.1995>

ヤツェク青年との出会い

 連載が始まる前の「てらこや新聞」にも一度書いたポーランド人青年ヤツェクとの出会いは、わたしのワルシャワ滞在をとても意味あるものにしてくれた。

寒い午後、駅からたどり着いたらY.Hは閉まっていた。

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 ワルシャワ中央駅を不安な気持ちで降り立ち、向かったユースホステルは夕方のチェックインまでまだかなり時間があり建物の入口にはカギがかかっていた。東欧ポーランドの寒い晩秋(10月30日)の午後、外で待つのはつらい。

そのとき見つけた Irish Pub の緑のネオン

 そのときちらっと目の隅をかすめたのが、緑色で「Irish Pub」と小さく灯すネオン。これはラッキーだ。カウンターとテーブルが少し。若いバーテンダーが一人働いていた。

 ちらっとこちらを見る目線に、東洋人が嫌なのではないかと気になったが、理由はまったくそうではなかった。日本人であるかを確認したかったのだ。英語で「日本人ですか?」と話し掛けてきた。「そうだ」と答えると、その後はすべて日本語だった。

ええっ? 愛知県にいたの?

 かれはしばらく前まで名古屋に留学のため2年間も愛知県一宮市に住んでいたのだ。わたしは、数か月前に日本を出国するまでは、一宮市にほど近い春日井市に住む新聞記者だった。なんと奇遇な出会いだろう。まったくふつうの日本語で話が弾む。旅の困りごとやわたしがしていた仕事のことなど込み入った話もばっちりオーケーだった。

 わたしが冗談半分に、クラカフの両替屋に騙されて掴まされた旧ポーランド紙幣を見せると、真顔で「どうしてこんな紙幣持っているの?」と聞かれた。 

 いきさつを話すと「だからポーランドは良くないんだ」と真剣に怒った。デノミ前の紙幣だということはそのときにわかった。ワルシャワ駅で見かけた物乞いの母子の話をすると、「ルーマニアからの難民だ。けれど、あいつら、政府からお金もらっているんだ」。近づいていた大統領選への関心も強く、政治や社会をしっかりと見つめる正義感と熱さがあった。

夜、再び、アイリッシュ・パブへ

 夜、再び店に出掛けると、店はワルシャワ在住の、西側の国々の人々でにぎやかだった。ここでの“公用語”は英語だ。西側に門戸を開放したばかりのポーランドでは若い人たちの英語習得熱が高く、英語を話したい地元の若い男女がやってくる。ヤツェクは若い女の子にモテモテだ。

 翌朝、近くのマックで朝食をしていると、前夜見かけた人たちもいて、挨拶を交わし合う。バルト海沿岸の北の港湾都市グダニスクに向かうときは、わたしの大荷物は無料で店で預かってくれた。ヤツェクが通っているワルシャワ大学の日本語のクラスにも顔を出したいと話した。ワルシャワの闇の名物市「ロシア市場」に出掛けようとしたときは、スリ被害防止のため、「財布や貴重品は持っていくな」と忠告をしてくれた。

「それだけあればポーランド人は1か月暮らせる」

 グダニスクへの小旅行から帰り、手持ちの現金が底をつきかけて、銀行でキャッシュを出金するためドイツに行かなければならず、約束の日本語クラスにゲスト参加はできないと伝えたとき、寂しそうな顔をしたヤツェク。「いくら持っているの?」と聞かれ、2万円ぐらいだと答えると、「それだけあればポーランド人は1か月暮らせるよ」と言われてしまった。罪悪感を持った。ただ、キャッシュを手に入れることが可能な銀行が当時のポーランドにはなかったことへの心配がまさったのだ。

 夜11時発のベルリン行きの夜行列車に乗り込むところまで、わたしの荷物を担いで見送りにきてくれた。列車内までついてきてくれ、周囲の乗客の顔ぶれを見て、「ここだったら安全だ」と席を選んでくれた。少し前、ヤツェクの友人が夜行列車で乗り合わせた人に飲み物を勧められ、飲んだところ睡眠薬が入っていたらしく、寝てしまい、気がつくと大事なものはすべて盗まれていたのだという。そのような被害に遭わないようにするための配慮だ。

 「もう一度、日本に行きたい。今度は名古屋より面白い大阪に住みたい」。

 その願いはかなったかどうかわからない。世話になったお礼にいくばくかのお金を渡そうとしたが、断られた。

 「その代わり、一つだけ、頼んでいい?」。

 一宮駅に近い大型ショッピングセンターのすぐ近くにある「バイエルン」というドイツ料理の店のマスターによろしく言ってくれということだった。そのくらいのことなら是非引き受けたいと思った。

 一宮にいるあいだ、バイトをしていた店ということだ。帰国は半年後になったが、その約束は守った。

 マスターに「日本に来たいと言っていました」と伝えると、「それは無理だろうな」。経済格差の問題だと思った。

(1995年10月30日~11月4日)

「てらこや新聞」120-121号合併号 2015年 04月 28日

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