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[130th海城祭 文芸部] 『海路』

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はじめに

こんにちは!海城高校文芸部部長の尾崎貫太と申します。今年はさまざまな行事が中止・延期になり、文化祭も内部開催となってしまいましたが、こうやってオンラインで繋がることができることに感謝いたします。さて、今年は部誌をネット上で公開するという新しい試みを行いました。そのため、希望する部員は名前をイニシャルにさせていただきました。また、散文班の活動が停滞していることなどを踏まえ、今年は「海路」一本のみの公表とさせていただきました。その代わりと言ってはなんですが、自由作文は面白いものばかりですので、ぜひ最後までご覧ください!本書は、部員紹介、自推十句、自由作文の三章構成となっています。部員紹介では、部長であるこの私が、部員一人一人を独断と偏見を交えつつ皆様に紹介いたします。次に自推十句。これは、部員一人一人が過去につくった句の中でよかったと思う十句を、それぞれ並べたものです。句の順番などにもご注目ください。最後に自由作文。その名の通り、部員に自由に書いてもらいました。自分の趣味から、俳句について語っていたり、多種多様な文章が並んでいます。ほとんど原文ママですので、多少の誤字脱字はご容赦ください。この部誌を一人でも多くの方に閲覧していただき、一人でも多くの方に楽しんでいただけたら幸いです。それでは、「海路」をお楽しみください!

                             尾崎 貫太

部員紹介(五十音順)

高二 尾崎 貫太

ラクロス部所属。文芸部部長。俳号は匠。俳句を始めたのは中2の3学期。俳句やっている歴が一番長いので部長 になったのだが、忘れやすく頼りない。言語能力が低く、人に何かを伝えるのが苦手。正直すごく周りに助けられ ている。どっちかというと句作よりディベートが得意で、いつもウンウン言いながら句を作っている。 

高二 関 友之介

吹奏楽団所属で、指揮をしているらしい。文芸部のおしゃれ番長で、めっちゃ多才。心に残る俳句をよく詠み、「お ーめちゃいい!」ってなる句が多い。俳句甲子園で優秀賞ももらっている。最近句集や歌集をよく買っていて、話 が合うことも多い。

高二 田村 龍太郎

古典芸能部部長、陸上部所属。よく喋る。とにかく喋る。多分田村が黙ることはないと思う。持ち前の明るさで人 脈も広く、いつも何かの中心にいる。俳句では、前回の俳句甲子園で最優秀賞を取るほどの実力者。伝統的な言葉 使いから挑戦的な句まで、多彩な詠み方をする。 

高二 東口 怜弘

尾崎の次に文芸部に入部。ずっと一人でやっていたので、入ってきてくれた時はすごく嬉しかった。独特の感性を もち、句会ではいつも驚かされる。特にワードセンスが抜群で、言葉が遊んでいるように見えて的確に情景を捉えて いる。実はちょっと抜けてるところもあったりも。 

高二 深見 啓太

鉄道研究部部長。最近入ってくれて、人数が足りなくて頼んだら快く引き受けてくれた。俳句歴は短いものの、日 常のものへの視点が素晴らしいと思う。普段はあまり喋らないが、喋るとすごく面白い。スタバが好きだという一 面も。

高二 三内 洸

ラクロス部部長。俳句甲子園ではサブメンバーとしてついてきてくれたが、コーチみたいな立ち位置でサポートし てくれた。試合前の時の声がけはすごく力になった。以前はあんまり部活に来ずにサッとうまい句を作っていたが、俳句甲子園後は積極的に活動に参加してくれている。

高二南 幸佑

吹奏楽団所属。俳句の知識は部内で一番で、すぐに例句が出てくるのは本当にすごい。アドバイスをもらったりす ることもあり、たまに南が部長の方がいいんじゃないかと思ったりすらする。本当に上手な句を作り、句会で南の 句に点が集中することもよくある。 

高一 S.H. 

吹奏楽団所属。この前の俳句甲子園では入ったばかりだったのにAチームで活躍してくれた。すごく堅実でいい句 を詠む。体感、身近なものを詠むのが多い気がする。 

高一 S.T.

山岳部所属。サブメンバーとして松山についてきてくれた。ディベートの部分で助けられたことも多い。すごく 頭がいい(と、勝手に思っている)。独創的な句も詠み、これから作風がどのように変化していくのか楽しみ。 

高一 H.N.

吹奏楽団所属。SHとともにAチームで頑張ってくれた。どちらかというと言葉遣いに特徴があり、普通の人と少 し変わった視点から物事を切り取るのが面白い。 

高一 H.K.

吹奏楽団所属。手堅い句から言葉遊び的な句まで作れちゃうオールラウンダー。俳句のことについても知識を増や しているみたいで、自分としてはとても嬉しい。 

高一 M.R.

地学部所属。一回公式戦に一緒に出たことがあり、その時は初出場ながら堂々とディベートをしていた。手堅い句 を書くが、たまに遊んでくるところがうまいなーと思う。

自推十句

笑ひ声   尾崎 貫太

籠に茄子放り入れけりよく跳ねる

浅草の雨に音なし牽牛花

交番に笑ひ声ある九月かな

小春日や帯のごとくに隅田川

あかあかと雪を踏みをる鳩の足

腿に張るジーンズ春の泥跨ぐ

囀に数珠さらさらとさすりをり

百箇日修し鴨川をどりかな

五人乗れば落ちる吊り橋青嵐

兜虫死して兜の重さかな

舟のある暮らし   関 友之介

八朔の鋳物蛇口のまろやかに

出るときも入店音や秋暑し

立ちこぎは畑の馬追のはやさ

ふとももをはしる大痣いわし雲

台風来このたばこ屋は開いてゐる

山襞を迫れる舟や竜田姫

夜食とる背に自画像の未完成

夭折といふ称もがな梨齧る

海をさびしく虫をさみしく未来かな

蟷螂のゐる部屋舟のある暮らし

塵の降り頃   田村 龍太郎

金蠅や机をどんと手が叩き

夏風邪の空が途方もなく深い

太陽に近き嘴蚯蚓を垂れ

天の川ラクダの鳴くに目が覚めて

日の当たる小屋の白塗り葡萄狩り

鰯雲その始まりのなかりけり

衛星やなほ流感の重き脳

風花に煙一縷の登りをり

宇宙より塵の降り頃水温む

木の芽雨コインランドリーまで歩く

恋愛俳句、はじめました。  東口 怜弘

東京タワーの下にも人が愛の秋

すりごまの塊浮いてゐる夜食

チューリップ星座早見を回す昼

パラシュートうららか探査機の帰還

寝不足や春泥の真ん中凹む

迷子だといふ緑陰に連れてゆく

金融の覇者なる人や冷奴

蠛蠓や朝の天ぷら料理店

ささくれの剝けて不覚や岩清水

片蔭が均質な朱になつてゐる

足跡   深見 啓太

元日やコンビニの旗光の中

読まれけり1ミリに舞う桜並木

囀や詰襟未だ大きくて

歳時記にひらりと小鳥太平洋

短夜の机の角に朱鷺の光

耳元を走る蜜蜂帰り道

地下道の蜘蛛の巣越しの人波や

戦争の中でも蝉はただなくの

空蝉や机寂びゆく校舎裏

鰯雲マーク欄染む手の止まり

うつむいて   三内 洸

福音を唱ふ教徒やヒヤシンス

春泥に百円玉や照り返す

一服の煙ふちどる春の風

百日紅祝ひ目出度に手一本

夜店の灯りに連れ歩く足急ぐ足

捥ぎ取りてぎしぎし洗ふ茄子かな

秋蝉や「ただの世界遺産ですよ」

うつむいて一日暮れたり雪下ろし

夙に出づ峰よきかたち初比叡

数の子の塩気の残る昼の月

たはぶれに   南 幸佑

給食の西瓜の種を植ゑにけり

傘さして子供びしよ濡れ墓参

防犯カメラは枯木道のみ映し

過去問のことを考えつつ雑煮

一人上がれば双六の紙薄き

長閑さや遊覧船のかたき席

蝌蚪の尾を透け流れゆく塵芥

卒業子大き袋を抱へけり

春泥や雲たはぶれに日を隠し

雲中のしづけさにして芽吹くかな

九月の、二十日余り四日の日より    S.H. 

夏祭りあふれる人と動かぬ木

秋の蝉寝すごし降りた駅の端

夕風の色を吸い込む金魚玉

古井戸の底ぱちぱちと星流る

虎落笛風の果てを求めて鳴る

早朝に蕎麦立ち食ふや秋の川

双六の駒進みても富士見かな

水温む湖心や手巻き時計巻く

春泥の古道を行き美術館

霧雲の溜まるたをりや山清水

ペダル   S.T. 

夕されば潮の香りや木の芽風

新しきサンプルの店風薫る

蚊柱や映画鑑賞後は無敵

すり傷に染みて光れり岩清水

片蔭のなき道端を歩きけり

空蝉の世界狭きと言ふこそ狭し

自販機に小銭取りこぼして残暑

あ、いわし雲 蜩の青天は瓶底にあり

夜食食ふのをためらひて水を飲む

賜暇   H.N.

照らされしスノードームの雪溶けて

フルートの音高らかに氷柱かな

冬畑は破れし障子より見ゆる

風の吹く仏間の見ゆる夏座敷

春雨にうたれし靴に心あり

離れけり二度と戻れぬ夜店の灯

白蝶の留まる猫の背昼の二時

賀正分け一行書かれし手書きの字

落つまじと網戸に凝る蝉の殻

山肌の今も顕や木の芽風

志学   H.K. 

泣き虫に片陰はまだ続いてゐる

囀の窓辺闘病日記なり

空蝉や灯籠の火の弾けたる

注連縄の粗く解れて山清水

信楽のたぬきのヘソや春の泥

春風や世界の地図に水光る

ピアスの傍ら探してゐる日永

母の日に母が視界にずっとゐる

車窓からポインセチアを池に投げ

万緑に虫取り網を忘れけり

チュートリアル   M.R.

ダイドーの「あったか~い」や雪照らす

薄氷のまた重なれり手水鉢

待ちわびて雪掻く音に目を覚ます

囀や空き教室のプロジェクター

筆洗器に色の濃くなる木の芽風

横切る鳥に片蔭の濃くなりぬ

長茄子の十五入り組む籠の中

稲妻や瞬きの間に光去る

とんぼうや東尋坊に腰をかけ

瓶コーラの気抜けにけり天の川

自由作文

俳句甲子園                        尾崎 貫太

改めましてこんにちは。部長の尾崎貫太と申します。 本当は自由作文で、「ここで一句」が俳句をやっている人にいかに嫌われているかを書くつもりだったのですが、あまりにも愚痴が多すぎたのでやめました。その代わり、他の部員があまり俳句甲子園について語っていなかったので、俳句甲子園で僕が思ったことなどを、時系列順に語っていきたいと思います。

まずは初日、羽田空港に集合し、飛行機で松山へ。そのまま市内のホテルに行って、ホテル内の共有スペースで最終確認を行いました。

最終調整は昼過ぎから夜までみっちり行いました。Bチームのメンバーと、サブメンバー2人&講師の方々でディベート練習をし、そのフィードバックをします。その最終調整で繰り返された言葉は「景を立てる」「無理に攻めすぎない」ということです。

知らない方向けに説明しますと、「景」とは、俳句を読んだ時に思い起こされる情景のことです。たとえば有名な 

古池や蛙飛びこむ水の音   芭蕉

の句を読むと、静寂な古池がまず頭の中に出てきて、一匹の蛙が池に飛び込み、その余韻が空間全体に広がるような情景が頭に浮かびます。

こんな感じで、景を立てる、すなわち句の情景を魅力的に伝えることが大事だということです。これは守りの時だけでなく、攻めの時にもあてはまります。相手の句の情景を立ち上げた上で、疑問に思った所を質問する。簡単なことかもしれませんが、初見の句を瞬時にみて判断するのは本当に難しかったです。

二つ目の「無理に攻めすぎない」は、この難しさから繋がっています。特に最初の質問は、瞬時に句を見て判断するのが難しいです。ここで無理に攻めようとすると支離滅裂な言葉使いになってしまい、いいディベートとは言えなくなってしまいます。そういう場合は無理して攻めずに、相手の句をよく鑑賞してあげることが大切だと自分たちは考えました。

そんな感じで初日は終了しました。その日の夜はなかなか寝付けなかった…訳でもなく、意外に早く寝れました。

次の日。俳句甲子園当日。ホテルで朝ごはんを食べてから、そのまま会場へ。 自分は開会式で選手宣誓をしなければいけなかったのですが、実を言うとあの言葉はほとんどアドリブです。

と言うのも、大まかに何を言うかは決めていたのですが、壇上に上がった瞬間に頭が真っ白になってしまって…決めていたことが全部吹き飛んでしまいました。ただ、緊張をほぐすために大声を出そうと決めていたので、とにかく「宣誓」と大きな声で言ったら、自然と言葉が出てきました。結果的にチームメートにも褒められたので良かったです。

選手宣誓をした後は第一試合を少しだけ見て、裏で作戦会議をし、特に守りを重点的に固めてました。

そして第二試合、海城対開成Bの対戦。正直、チームメイトみんなアガっていました。特に、前日の最中調整で言われていた「無理に攻めない」というところが徹底できておらず、厳しい言葉使いになっていた時もありました。誠実なディベートとは言えず、今でも反省していることが多いです。

その後の昼食休憩では、落胆からかあまり食べることが出来ませんでした。ただ、あまり焦ったりはしませんでしたし、むしろ自分は冷静でした。自分の中で、前の試合のよくなかったところが分析し、共有できたのでそこは良かったです。

その後の三位決定戦は、負けてしまったはものの全体的に修正ができていい試合ができたと思います。相手の句を鑑賞し、自分の句を立てる。基本的なことが一番大事なんだなと改めて気づきました。

試合が終わった後、チームメイトは泣いていましたが、自分は全く泣きませんでした。なんというか、他の人が泣いてくれたから自分は泣かなくて良かったというか…結局東京に帰ってからも一滴も泣きませんでした。

最終日は、近くの海辺に吟行に行き、その後空港で句会をしました。コロナ禍後久々の海で気持ちよかったです。その後東京に帰りました。

結果的に全敗という不甲斐ない結果に終わってしまいましたが、得るものは確かにありました。修正する力が実践で身についたのは相当大きいと思っています。また、自分たちの足りない点がわかり、それを今後どういう風に補って行くかも話し合うことができたので、今後に繋げていきたいです。

「相手の句を鑑賞し、無理に攻めない」ディベートは、これからも継続していくつもりです。来年もあのステージに立って、涙を流せるように、これからも頑張っていきたいと思います。 

戦争を見ていない「戦争の俳句」              関 友之介 

濛濛と数万の蝶見つつ斃る      佐藤鬼房
我を撃つ敵と劫暑を倶にせる     片山桃史
鶏頭のやうな手をあげ戦死んでゆけり 富沢赤黄男
戦争が廊下の奥に立つてゐた     渡辺白泉
そらを撃ち野砲砲身あとずさる    三橋敏雄
機関銃熱キ蛇腹ヲ震ハスル      西東三鬼

「戦争」というのは文学のなかでひとつの大きなモティーフであった。俳句についても例外ではない。山口誓子の問いかけをきっかけとして、新興無季俳句の戦場の即物的写生の流れが生じた。前掲の前半三句、後半三句は前線俳句、銃後俳句(戦火想望俳句)という点で異なる性格を持つものの、日中戦争開戦後の数年に詠まれたものである。戦争を主題におく俳句は、太平洋戦争、そして戦後も作られていく。 この中で、白泉の句について鑑賞をしてみる。

この句(、更にいえば銃後俳句)の主題は「戦争の空気感」である。この句が詠まれた昭和一四、日中戦争の最中で、歴史的に見ると日本がさらに大きな戦争に歩を進めようとしている頃である。当時の人達はそれを感じていなかったのかもしれないが、作者の白泉は大戦の予感をひしひしと感じていた。だんだんと濃くなっていく戦争の空気を肌で感じ、自宅の廊下の奥にまで、迫りくる大戦を見出したのだ。修辞という点では、「立つてゐた」という口語表現が、迫り来る大戦の空気を前にしても自分には何もできないという無力感のようなものを引き立てる。まさしく、「日常に溶けた戦争」を表現しているのだ。

さて、前述のように、戦争俳句は新興無季俳句の流れからきている。白泉に限らず、戦争俳句は無季、或いは超季的なものが多い。その善し悪し―「季語のない俳句は俳句なのか」という問題は賛否分かれるものだと思うが、殊に戦争俳句、更にいえば銃後俳句については無季でも成り立つような気がする。庶民の生活する地では、戦争に季節はないと思う。確かに、戦争中も四季は存在するが、それは戦争の雰囲気を帯びるものではなく、戦争は全季であり無季であるような気がする。そういった戦争での生活、或いは銃後より前線を想像して即物的に切り取るのに、季語はむしろ色づけされすぎてしまうのではないか。

と、ここまで戦争を体験していない高校生が戦争俳句を簡単に考察してきたが、それこそが本稿の主題である。表題のように、本稿で語りたいのは、戦争を経験していない世代による戦争あるいは紛争についての俳句である。当事者でない人間が詠む戦争、紛争俳句の持つ意味とは何なのだろうか。

水晶の夜映寫機は碎けたか
熒熒と蒲公英あり地雷原
判然と虻の翅音や避難壕
ひややかに砲塔囘るわれに向く
少年少女焚火す銃を組立てつつ  堀田季何

『人類の午後』より。本来ならば旧字であるところを、出力の問題で新字となってしまっているところはご了承ください。季何は昭和五〇年生。この句集のはじめ、『前奏』は戦争を主題とする句で編まれた連作。時代背景はまちまちだが、どの句においても少なくとも季何は「完全な当事者」ではない。戦争を見てはいない。

戦争を生きてきた人の戦争俳句の意味は、言わずもがな戦争そのものの生々しい写生だろう。どんな「戦争は悲惨だったんだよ」などの言葉より〈水あれば飲み敵あれば射ち戦死せり〉(鈴木六林男)といった句の方が戦争の生々しさを伝えてくれる。ある種の平和教育としての戦争俳句、といった一面がある。

一方「当事者」ではない人間が詠む戦争に関する俳句の意味、それは「当事者」が存在したことの証のように私は思われる。我々、戦争を経験していない人間が七五年以上前の戦争、或いは何千マイルも離れた土地での紛争を想像し調べて俳句という形に残すことで、その時その場で生きている「当事者」たちがその状況に相対した、という証となる。「当事者」たちが生きるその時間空間に言葉で向き合う、ということに俳句という文芸の意味があると思う。向き合った上で、それをどうするのか、というのは作者、読者次第だろう。

とは言え、この文章も「当事者」ではない浅学の高校生が、ある種の自己肯定のように持論を述べただけにすぎない。だが、「「当事者」たちが生きるその時間空間に言葉で向き合う」という考えは、間違いなく今の筆者の一部を成している。更なる「当事者」を生まないためにも、戦争を詠み読むことを絶やしてはならないと思う。 

繋がりと縁                       田村 龍太郎

 世の中は「縁」で回っている。そのことを強く実感する機会が最近増えた。

 この縁たるものがなければ僕は海城に入学することも文芸部に入部することもなかったし、俳句甲子園で結果を残すこともなかっただろう。それぐらい縁というのは大きなものである。

縁の話をしていると、今年の夏句碑の除幕式で椿神社の宮司さんが「縁っていうのは不思議なもので、どこで誰と繋がってるかわからないもんです。ですから大事にしなきゃいけませんよ。何事もおかげさまですから。」とおっしゃっていたことが思い出される。

そもそも僕が文芸部に入ったのは現部長である尾崎に一度来てみないかと誘われてたからで、尾崎がいなければそもそもこの部活に興味をもつことすらなかったと思う。この部活に入ったことは縁があったとしか思えない。

この夏僕たちはチームで松山に行き俳句甲子園を戦ったわけだが、このチームというのも各々自分の趣味だったり個性だったりがあって、正直俳句がなければチームになることなんて想像もできないメンバーである。また、この俳句甲子園において強い味方となってくださったコーチの方々との出会いも縁だとしか思えない。

そしてこの夏もう一つ人との繋がりについて考えさせられた時があった。先程軽く触れた句碑の除幕式だが、この句碑というのが昨年度僕が俳句甲子園で最優秀賞をいただいたことで作られるもので、その句碑の除幕式が俳句甲子園の2日前に松山の椿神社で行われた。僕はその式に参列するためにチームのみんなより2日早く松山入りした。そんな2日目のビジネスホテルでのことである。早入りすることは事前に決まっていたことで、東京にいる時は一人になれると、この日を楽しみにしていた。だが実際ホテルの部屋に一人になってみると、そこに待っていたのは無限の「退屈」だった。とりあえず、昼寝したりなどと時間を潰していたが、こんな状況下で外へも出れず退屈なのである。いや、退屈というより寂しい。いや、寂しいというよりも怖い。部屋には一人で、周りは誰がいるかわからない、そんな環境が怖い。どうにかこの怖さを紛らわせようと色々考えた結果、僕は「そうだ、誰かと電話しよう。」という結論に達した。

海外の友人、夜遅くまで起きていそうな友人、一応家族、挙句顧問まで、いろんな人に電話をかけた。(チームは次の日が早いだろうと思いかけなかった。今思うと顧問も引率するのだから次の日は早いのに…その時は全く気にしてなかった)。その電話では本当に本当に他愛ない会話をした。その本当に、本当に他愛ない会話に胸が熱くなってしまった。恥ずかしい話だが、僕は孤独には極度に弱く、たくさんの人に支えられ(ある種依存して)生きていたのである。

そのようなことを考えると僕たちは縁で出会ったたくさんの人たちに日々支えられているのだなと実感する。

少し話は変わるが、僕にとっての俳句とはなんだろうか。僕はこの夏そう聞かれた際に「青春」と答えた。この話を部員にしたら散々からかわれたが、僕は俳句は青春であると信じている。 

今年の俳句甲子園はコロナの影響もあり地方予選、準々決勝まで投句審査となっていた。僕たちはこの投句審査に向けて日々の句作や部活での句作に加えて、コーチの方々にオンラインでの指導もしていただいた。その結果うれしいことに上位4チームに入ることができたのだが、それ以降は想像していなかったほどの活動量だった。朝10時に集まって16時まで句作。それを四日連続で行う。舐めていたわけではなかったが、句の提出が終わって3日間ほどは正直俳句を書くことはおろか文字を見ることにすら億劫になったほどである。それからは週3回程度ディベートの練習があり、俳句甲子園前日も昼ごはんを食べてから夜寝るまで練習をした。

そして迎えた俳句甲子園当日、準決勝で開成Bチームと当たり敗北、三位決定戦では開成Aチームと当たり大将戦まで持ち込むが惜しくも敗北、結果は4位となった。どっちの試合後も泣いてしまったのだが、 後悔したのかと聞かれるとそうでもない。最大限頑張ってきたがそれが一歩及ばなかった悔しさだったのだと思う。でもこのチームで松山に行って戦えたこと。たくさんの素晴らしい方々と句に出会えたことは貴重な経験だったと思う。そしてこの夏を俳句にかけてよかったなとも思った。だが、このような貴重な経験ができたのは、現部長である尾崎で本当に感謝している。

重ねて今回、僕たちの俳句甲子園を支えてくださったすべての方々にも感謝を伝えたい。

最後になるが、コロナで人とのつながりで物理的に難しくなり何事も画面越しになる日々が続いている。そんな中だからこそ、より身近な人とのつながりや縁を大事にしてしてみてはいかがだろうか。

早くこの先の見えない闇から抜け出し、再びいろんな人と句会やディベートができるようになることを心から祈っている。

Dogecoin is money                                                                                  東口 怜弘

Youtubeなどで動画の中にミーム(典型的なユーモラスな性質を持つ画像、動画、文章などで、インターネットユーザーによってコピーされ、わずかな変化を伴って急速に広まるもの)のようなものがが挿入されているのを見た事があるかもしれない。私は“Never gonna give you up”の冒頭部分がそこで流れた時にかなり驚いた。最近になって気になり、MVの全体を見て、感銘を受けた。元々この動画は4chanなどの釣り動画として有名であるらしい。ミュージックビデオを見ていただけると分かるが、最初にRick Astleyが首を左右に振るところがまず映り、その後タップダンスのように足を動かすところが映る。これが1秒以内に起こるのだが、とても秀逸だと思う。そのあと手が映り、Rick Astley全体の景に移る。私が見たのはこの1,2秒だ。ところで、この曲はイギリスの歌手Rick Astleyのデビュー曲。1987年7月に発売され、8月から5週連続全英1位、翌年3月に2週連続全米1位を記録するなど世界的に大ヒットした。作詞・作曲は音楽クリエーターチームのStock Aitken Waterman(略称SAW)。 今回は私が個人的に好きなインターネットミームを紹介したい。

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(1)Success kid Success kid

(「I hate sandcastle」とも呼ばれる)は、2008年頃、ビーチでドヤ顔をしている赤ちゃんの写 真が、主に個人のプロフィール写真として、ソーシャルメディア上のウェブ全体で使用され、人気を博した。 その後、この写真はフォトショップで加工され、動物のアドバイス風になったり、砂の城が嫌いだということ を言及した何千種類ものミームになった。

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(2) Ermahgerd girl

2012年、「Just a book owner's smile..」.というタイトルの投稿がRedditに投稿され、その直後に、「Ermahgerd Girl」が誕生した。オタク的な興奮に包まれた少女が、グースバンプスの本を3冊持っている写真は、すぐに「oh my God」レベルの興奮の代名詞となった。この「oh my God」を「ermahgerd」と誤記したのは、10代の歯列 矯正をしながら話すことの難しさを表現したものだとも言われる。その結果、このミームに添えられたテキスト も同じように誤記されることが多い。「Ermahgerd」には、おやつやおいしい食べ物に目を輝かせる様々な動物 たちの姿が描かれたスピンオフ・ミームが数多く存在する。

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(3) Disaster girl

2004年、燃え盛る家の前で悪魔のような笑みを浮かべた少女の写真がネット上に登場した。その4年後に Buzzfeedに取り上げられ、すぐにネット上で注目され、あちこちに投稿された。それ以来、第二次世界大戦から 現代の陥没事故や自然災害まで、さまざまな災害シーンに加工されている。

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(4)Exit 12

高速道路を高速で抜ける車を撮影した、実にシンプルなミーム。 ここで、写真の「Using Tide Pods As Fine Cuisine」とは何か気になったかもしれない。2017年、10秒の名声を得る ために、洗濯用洗剤を食べる動画を撮影し、その結果をYouTubeにアップロードするという動きがあった。このトレン ドはすぐに、そうすることの愚かさをめぐるさまざまなミームの大群を生み出した。

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(5)Philosoraptor

Philosoraptorは、新しいTシャツのデザインを作成して著作権を取得した後に生まれた、ミームの中では珍しいもの。2007年には、ジュラシック・パークに登場するヴェロキラプトルがプラトンの本を持っているフォトショップで加工された画像が4Chanに投稿された。それ以来、「Philosoraptor」Tシャツの画像は多くのミームの題材となっており、知的な恐竜が考えそうな様々な哲学的な質問が添えられている。

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(6) Ain't nobody got time for that

2012年、Kimberly Wilkins(通称Sweet Brown)は、火事になったアパートから避難した後、オクラホマ シティの地元ニュース局のインタビューを受けた。彼女のインタビューは次のように終わった。 「….I said 'Oh Lord Jesus, it's a fire', then I ran out, I didn't grab no shoes or nothin' Jesus! I ran for my life. Then the smoke got me. I got bronchitis. Ain't nobody got time for that!」 これがインターネット上でオートチューンされ、波紋を呼んだ。時間がないかもしれないことに簡単に使え るミームになった。

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(7) Nokia331

古典的な携帯電話であるNokia 3310は、長年にわたって伝説的な地位を築いてきた。2000年に発売された この携帯電話は、現在の壊れやすい携帯電話に比べて、頑丈で長持ちする、頑丈なデバイスであった。その結 果、3310は神のように不滅であると称する面白いミームが数多く生まれた。

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(8) Be like Bill

ウェブの世界では、キーボード・ウォリアーや無礼な人々があふれている。「Be like Bill 」は、そのような荒らし に対抗するため、"Bill "というシンプルな棒人間を使って常識的なメッセージを送ることを目的としている。

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(9) Stuck in the Suez Canal

かなり最近の話題。Ever Givenの船長が、巨大な貨物船をスエズ運河で立ち往生させ、他の多くの船舶の通行を 妨げたことで、ネット上ではさまざまなミームが生まれた。かなり壮大な規模の事故ではあったが、この出来事は 世界中の多くの人々を笑わせることができた。

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(10)Doge

このミームは、2010年の終わり頃に、柴犬の写真がきっかけで生まれた。個人のブログに投稿された写真は、「Kabosu」と名付けられた犬が、カメラを横目で見ながら何気なくソファでくつろいでいる様子が写っている。このミームが産んだ仮想通貨としてDogecoinが有名。Coinmarketcapによると、このミームコインの時価総額は$35,454,902,242。これの急騰で億万長者になった人がいることは良く知られている。私はその内の一人にはなれなかったが、最近はCoinMarketCapとPancakeSwapで仮想通貨のチャートを見るのにハマっている。

〈出典〉

 (1) https://www.theverge.com/2020/1/28/21111805/iowa-republican-meme-lawsuit-success-kid-mom-steve-king 

(2) https://knowyourmeme.com/memes/ermahgerd 

(3) https://knowyourmeme.com/photos/1329063-left-exit-12-off-ramp 

(4) https://www.bbc.com/news/world-us-canada-56948514 

(5) https://knowyourmeme.com/memes/philosoraptor 

(6) https://medium.com/@dmuing/a-tragic-satire-aint-nobody-got-time-for-that-ec8a038ede15 

(7)https://ja-jp.facebook.com/nokia/photos/just-a-little-nokia-3310-meme-to-entertain-you-this-sunday/10151408169762397/ 

(8) https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Be_like_Bill_Fix_Wikipedia.png 

(9) https://twitter.com/cravenshane_/status/1376161765348667395 

(10) https://en.wikipedia.org/wiki/File:Original_Doge_meme.jpg

私と御散歩                        深見 啓太

久々に「部誌」というものを書く機会を得た。好きな作家さん等について書くべきな気もするが、素人並みの知識しかない僕が書いてもかえってよくないだろうし、だからと言って好きなアーティストさんについてとか、アイラブスタバな件とか書いても男子校ではウケが悪いのは重々承知だし、でもこの夏に思いついたダジャレ特集なんてしたら冗談抜きで紙面が凍りそう….、と悩んだ結果、中3の冬頃から趣味に加わった「御散歩」についてでも書いていくことにした。 散歩というと、ふらっと近所を30分ぐらい歩くみたいのをイメージする人が多いと思うが、僕の「御散歩」とはそんな生半可なものではない。気が済むまで3時間でも8時間 でも歩き続けるのだ(だから他の散歩と差別化を図るため「御」という文字をつけてカッコつけている) とは言っても、ただダラダラ歩いているだけで、全然「御」という文字に見合うような高貴なものではないので、それについて書いたこの記事も同様にとてもつまらないものな気がする。こんなことしてる人もいるんだ~と暖かい気持ちでこの記事に目を通して 下さる方がいらっしゃれば、それに勝る喜びはない。 

印象に残った御散歩

1徒歩で埼玉に到達した旅(2020.01.26)

僕のお散歩趣味の原点となった旅。 この日は確か英検があった日なのだがその後なんかちょっと嫌なことがあって(英検が出来なかったわけではない)、ストレス発散的な気持ちから、17時過ぎぐらいに板橋区の自宅からひたすら北に歩き始めた。気付いたら北区の赤羽の近くまで来ていて、このままずっと行ったらどうなるのかなって思って歩き続けたら、県境を超えて、20時ごろ埼玉県の戸田公園という駅まで辿り着いたのだ。 僕は絶望的に走るのが苦手なので(体力はないこともないのだが、どうやらフォームが絶望的に悪いらしい)、ただ歩くだけなら自分でも出来るんだというのが嬉しかったし、ましてやそんな自分が遥か遠くだと思ってた埼玉県まで歩いて行けるんだというのが驚きだった。この日から、僕は県境ウォーク、そしてお散歩にのめり込んでいくことになる。

2石神井川を辿る旅(2020.03.21・2020.12.29)

僕の近所に石神井川という一級河川が流れている。毎年この川沿いでは綺麗な桜並木が見られるので、僕の近所というか板橋区では恐らくとても有名な川なのだが、その川を河口から水源まで辿ってみたら面白いのではないかと思ってやったのがこの企画。

知らん川の話されてもあまり面白くないと思うので簡潔に書くが、石神井川は小平市の小金井カントリークラブというゴルフ場に水源を持ち、そこから今はなきとしまえんの園内を通ったりしながら北東に流れ、渋沢栄一の博物館でも知られる飛鳥山も近い王子の少し北で隅田川に流れ込む。今回は河口から辿っていくスタイルを採った為まずは河口までバスで向かったのだが2人席で隣に人が来てしまい、コミュ障を発揮して降りたかったバス停で降りられず、終点まで連れてかれたのは苦い思い出だがそんなことはさておき、河口に1番近い橋へ行き、幼い時から見てきた川の初めて見る河口を眺めた。とても新鮮な気持ちだった。ここからはひたすら川を辿っていき、当時は営業していたとしまえんの辺りまで到着。なにぶん僕が夜行性なだけあって出発が15時だったので、この頃には既に19時過ぎ。川 沿いには灯がないこともあり、真面目に命の危険を感じたためこの日はここで撤退。それから暫くの間石神井川とは関わりがなかったが、売り切れが多発していたスタバの期間限定フラペチーノを飲みに、12月も半ば、まだ売り切れていなかったとしまえんのスタバまで家から石神井川沿いに歩いたりしているうちに(フラペチーノ飲むためだけにわざわざ1万歩とか歩くの冷静に考えたらヤバいな…)行きたい思いが強まり、なんとか 2021年になる前に続きを歩くことが決まった。そうしてやってきた12月29日。いよいよ旧としまえん前から御散歩を再開。途中から川 沿いの道が無くなったり、真っ暗な道に出てスマホのライトで照らしながら歩いたりもしたが、4時間ほど歩いてなんとか上流端と書かれた看板まで辿り着けた。

3川越街道を辿る旅(2021.01.06)

埼玉県の川越と豊島区の池袋を結ぶ川越街道という街道を最初から最後まで歩く旅。そもそもは埼玉県の霞ヶ関という駅から、日本の政治が動いている東京都の霞ヶ関まで歩く予定だったが、途中で断念し川越街道制覇が目標になった。僕の御散歩では珍しくひとり旅ではなく友達と2人での行動で、また37.5km、52497歩と現状僕の御散歩史上最大規模の企画である。もはやフルマラソン。9時半から18時過ぎまで昼食以外ほぼぶっ通しで歩いたので、流石に身体中が痛かったし、池袋からの帰りのバスではずっと寝ていたが、達成感はすごかった。

4GW毎日1万歩チャレンジ(2021.05.02~05)

休日を無駄に過ごすことが得意な筆者。GWは有意義に、そして健康的に過ごしたいと いう思いから始まったこのプロジェクト。 初日の2日は、おすすめのお散歩コースを学校の生物の先生にお聞きしたところ、紹介 して頂いた皇居一周へ。(一応)東京都民ながらも皇居周辺は全然行ったことがなかった ため、新しい発見がいっぱいでとても面白かった。 3日は、八王子市にある八王子バイパスという道へ。別に道に特別な関心があるわけで はないのだが、都会の喧騒に疲れていた(!?)ので、自然に触れたいという思いと、昔は 有料道路だったから色々面白いものがあるとかいう噂から安易な気持ちで現地へ。

緑豊かでとても癒された(虫がいるのはやだったけど!)し、料金所の跡地があったり、 本来は有料道路にしかない緑看板が間近で見れたりして面白かった。 4日は、東京湾にある中央防波堤(厳密には中央防波堤埋立地)へ。ここは中央防波堤と いう防波堤の周りが廃棄物処理場として埋立地になっている場所だ。大半の人が聞いた ことがない場所だと思うが、廃棄物処理場とか環境局の建物があるので、小学生の頃に 実は社会科見学で行ったことがあるという人も多いと思う。 車両専用で歩行者禁止の海底トンネルを通らないと行けないため、マイカーを持たない 16歳3ヶ月(当時)の筆者には、都バスに乗らなければ絶対に辿り着けない陸の孤島。 本当に何もないし、僕みたいな謎の趣味の人以外基本来ないので、誰もいない。 実は中央防波堤の一部は「令和島」という、初めて「令和」の名を冠した地名になって いるので、その看板を撮りたかったのだが、横断歩道がないためものすごい遠回りをし なければならず、同じところを3往復ぐらいしたのも懐かしい思い出。 その後も夜の人っ子ひとりいないお台場をのんびり歩いて良いリフレッシュになった。 実のところ5日は、天気が悪かったのと色々忙しかったので、御散歩出来なかったのだ が、ここまでの3日でかなり歩いていたので、4日間の平均歩数は1万歩を超えており、 ミッションは成功したということにした(自分に甘すぎる)。

まとめ

いかがだったでしょうか。 こんな冗長な文章を提出してしまって良いのか今も葛藤しているのですが、取り敢えず 少しでもまともな文章になるよう、僕的御散歩のメリットでも最後にまとめてみること にします。

1よい運動になる

長時間歩くのって多分有酸素運動ですよね。 

2リフレッシュ出来る

全てを忘れてただ歩き続けるのって良いリフレッシュになりますよね。 

3勉強になる

御散歩してたまたま遺跡に出会ったりとかって結構あって、御散歩で行った場所が授業 で紹介されることとかも多いので、色々と勉強にもなるはずです(成績は...)。

もうすぐ暑い夏も終わり、涼しくて晴れの多い「御散歩シーズン」が始まります。そんな 暇じゃねーよという声も聞こえる気がしますが、これを読んで下さった方も是非御散歩 に出かけてみて下さい! 以上で僕の記事を終わります。

読んで下さった皆さん、ありがとうございました!

十七歳と十七音                      三内  洸

 今年も俳句甲子園が終わって、きのこがおいしくなってくる季節になりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。僕は模試と定期考査で正気を失って発狂しながら今これを書いています。本来なら、ここに掲載する文章は『俳句甲子園事件簿』と言って、松山での思い出をまとめていくつもりだったのですが、エグい黒歴史になりそうだったので部長に怒られながらも書き直しています。何かいい題材はないかと探していると、自分が十七歳であることを思い出した。ん?十七…俳句!と気づいた僕は、自分のことを俳句で紹介していこうと思いました。(後で後悔する事になるとは知らず…。) 自句自解が苦手なのであんまり鑑賞とかはしないかもしれませんが、読みや景に関してはもうお任せします。詳しいことが知りたい方はご連絡ください(合法ナンパ)。 まずは自選十句から選んでいきます。

秋蝉や「ただの世界遺産ですよ」

この句は松山での出来事を詠みました。とある友人が口にした世界遺産についての言及に衝撃を受けたのです。僕たちにとって世界遺産というのは非日常であり羨望の対象でもありますが、それが日常となってしまうと新鮮味が失われてしまうのです。これは動物においても言えることで、例えば蝉なんかは住宅街にいる蝉も、学校にいる蝉も、世界遺産にいる蝉もなんら変わりはありません。そこに違いを見出すのは人間だけであって、この日常の気づきは個人的にとても面白いものだと思います。

最近僕は、句に日常会話で出てくる単語を使ってみることが多くなりました。なぜかというと、俳句甲子園で松山に行ったときに敬愛する神野紗希先生とお話しさせていただき、チャレンジしてみるようアドバイスをいただいたからです。(実は先生とは過去にあるテレビ番組でご一緒させてもらったことがあって、そのことを覚えてくださっていて本当に嬉しかったです。サインもいただけました。本当にありがとうございました。)

普段から、僕は日常を詠んだ句や簡単な一物仕立ての句しか作れなくて、マンネリ化といいますか、他の部員が詠むような風情がある小難しい俳句に憧れていました。そんな中、神野先生の俳句と出会い、簡単か難しいかのような垣根を超えて俳句の面白さに気づけました。そして最近は福田若之先生の『自生地』を読んでさらに俳句の深さを感じました。両先生の影響を受け、最近はずっと口語俳句に挑戦しています。

うつむいて一日暮れたり雪下ろし

この句も自選十句から選びました。

下を向いて雪下ろしをしていたら、いつの間にか日が暮れてしまっていた。雪が降る地域ならではの景ではないでしょうか。冬になると日が暮れるのも早くなりますし、積もってしまった雪を下ろすのは大変な作業で時間がかかります。うつむいて作業をしているので、いつの間にか日が暮れてしまっているのです。この、終始うつむいている感じがこの句の良いところだと思います。

実はこの句、BS朝日の番組『てくてく俳句百景』で芸能人の方と俳句バトルをするという企画で詠んだ句で、この番組が前述した通り神野先生とご一緒させていただいたものです。この句はタレントの浜口京子さんと戦わせていただいた一句です。この時の感想ややらかしはたくさんあるのですが、それはまた別の機会に話そうと思います。

俳句には趣味がたくさん現れてきます。例えば、 

外厩の芦毛香し木の芽風

外厩とは、競走馬の調教を行うトレセンのようなもので、一定の水準を満たした牧場が取り行っているものです。昨今の競馬ブームに乗っかり僕も競馬が好きになったこの頃、外厩は予約すれば一般人も訪れることを知り、将来行きたいなあと思いながら作った句です。

競馬って本当に人生の縮図みたいで面白いんですよ。その馬その馬にそれぞれのドラマがあって、例えばディープインパクトはデビュー戦でその圧倒的な走りで世界に衝撃をもたらしました。2004年〜2006年の間で十四戦十二勝、負けたレースの方が語りたくなるような馬です。脚質は差しで、レース終盤に最後尾から一気に一位まで駆け抜け、大差をつけてゴールするその姿はまさにヒーローでした。

他にも、生涯一勝もできなかったハルウララや、怪我後、奇跡の復活を遂げた不屈のトウカイテイオー、ナリタブライアン、大逃げで超絶人気を誇ったが、まさかの事故で亡くなった異次元の逃亡者サイレンススズカなど、涙なしでは語れないような馬がたくさんいて、皆さんにもぜひ見て欲しいです。まずは1993年の有馬記念を見てみてください。 

放課後や屋上に待つ蝉時雨
みんみんの飛んで付き合う五秒前
そつと言ふ言葉花火の煙のなか
始まりは君からなのに秋の蝉

この怒涛の恋愛俳句ラッシュ。漫画やアニメ、歌の歌詞から着想を得たのですが…一読した時「うわああああああいってええええええ!!!!」ってなったのは僕だけじゃないはず。夢見すぎなんですよね〜、現実を見ろ、ってと言いたいところですが、当方男子校なので恋愛のなんたるかを知らないんですよ。まあこれはねえわということだけはわかりますが。

この句の並び、付き合ってから別れるまでちゃんと詠んでるんですよね、非リアのせめてもの抵抗でしょうか。心なしか最後の句で「よっしゃああああ」って思っている自分がいる。男子校って怖いですね。

ちなみにどこから取ってきた発想かというと、すとぷり(すとろべりーぷりんす)の曲と『涼宮ハルヒの憂鬱』から取ってきています。あくまで発想なので、ストーリーとはかけ離れていますよ。(一応そういうシーンはあるんだけどね)

福音を唱ふ教徒やヒヤシンス

教会に咲くヒヤシンスについて詠んだ句で、なんだか不気味さとともに落ち着きがあります。「唱ふ」は「うたふ」と読んでください。

ですがこれ、本当はそんな素晴らしい(?)ことを詠もうとしたわけではなく、『Re:ゼロから始める異世界生活』に出てくる魔女教から発想が飛んだのです。ヒヤシンスの形と魔女教徒の頭巾が似ていて、彼らは常に福音書に従うのでぴったりだと思いました。ですが形にしていくと、魔女教にしたら全然句の雰囲気も良さも出ないなと思い方向転換しました。怠惰デスね。

手袋を剥ぎて触るや友の頬

男子校に通っていると友達との距離感がこの句のように近くなるんですね。手袋を剥いで何かを触るっていう句はたくさんあるものの、友の頬をわざわざ触るやつはそうそう居ないですよ、そのオリジナリティーがこの句のおもしろさでしょう。二年前に作った句ですが、前顧問の安里琉太先生にも面白いと言っていただき、ずっと覚えています。

詳しくは覚えていないのですが、きっと寒かったから部長の頬をこねくり回していたんだと思います。あいつ体温高いので冬は本当にあったかいんですよ、毎年お世話になってます。

とまあ、これまで詠んできた俳句の中で面白そうなものを選んできたのですが、ううん足りない!もっと色々語りたい!

好きなアニメ、漫画、ゲーム、映画、音楽、作家、ラクロス、阿部寛…語りたいことがたくさんあって、この部誌を書くのには本当に時間がかかりました。ラクロス部のキャプテンでもあるので、ここでラクロスの宣伝をしようかと本気で悩んだりしていました。まじでいろいろ(特にアニメや漫画、ゲームは)手を出してヲタク極まっているので、ぜひみなさん僕とお話ししてくださると嬉しいです。泣いて喜びます。

さて、合法ナンパをして目的達成したところで終わろうかと思います。最後まで読んでくださってありがとうございました。 

ねそべりて 田中裕明に関する雑文              南 幸佑 

近日、家族がエヴァンゲリオンに傾倒している。元々父が好きだったのが始まりだが、妹が父に影響されすっかりファンと化してしまった。最近は「シン・エヴァンゲリオン劇場版」に出てきたセリフを引用したり、主人公のシンジの声真似をしたりと、「エヴァ」がすっかり日常に溶け込んでしまっている。 

* * *

 さて、エヴァンゲリオンが好きだったというエピソードを持つ俳句作家がいた。田中裕明である。大阪府に生まれ波多野爽波に師事した彼は、二十二歳の時に俳壇の芥川賞とも呼ばれる角川俳句賞を受賞。その瑞々しい作風から「伝統俳句の貴公子」とも呼ばれ、昭和後期の俳句シーンを牽引した。句集に『山信』『花間一壺』『櫻姫譚』『先生から手紙』『夜の客人』がある(以下、出版順に山、花、櫻、先、夜と表記する)。

彼のことを過去形でしか語り得ないのは、田中裕明がすでに亡くなっているからだ。命日は二〇〇四年十二月三十日。白血病による肺炎が死因だった。生きていたら今年で六二歳、まだまだ俳句作家として活躍できる年齢のはずだった。

自分は二〇〇四年の十二月生まれである。ほんの短い間ではあるが早世した俳壇の貴公子と同じ空気を吸っていたのだと思うと、我が身のことながら不思議な感じがする。

好きな俳句作家なら他に幾人もいるのだが、田中裕明は自分にとってやや特別な作家である。というのも、彼の作品にはいつも何か不思議で掴みきれない感じが漂うのだ。実際、『花間一壺』の序文において、田中の師である波多野爽波は「いつも近くに居りながら、田中裕明その人、そしてその作品について特徴を的確に指摘することは可成り難かしい」と書いている。 その不思議さは、例えば句の見た目に現れる。文法的に誤っているように見える用法や、俳句として望ましくないとされている書き方(「望ましくない」書き方をしてはいけないという訳ではもちろんないが、そのように書くだけの理由が求められるだろう)が、田中の作品には少なからず見出される。しかしここで強調したいのは、特に田中が若い頃の作品における内容面での不思議さ、掴めなさである。

新聞紙破れ鬼灯赤くなる(山)
悉く全集にあり衣被(花)
筍を抱へてあれば池に雨(花)
大き鳥さみだれうををくはへ飛ぶ(花)

裕明句の特徴として、大胆な取り合わせはよく指摘されるところである。一句目は新聞紙が破れることと鬼灯が色づくこと、二句目は文学者の偉業が全て全集に収められているという事実と衣被と、論理的因果関係の全くない二つが句の中で結びつき、不思議な風景を作り出している。三句目も同様だが、掲句は筍を抱えていることと雨が池に降り込むことの非関連性が、接続助詞「ば」によって前二句より露骨に書き込まれている。個人的に特に不思議だと感じるのは四句目。五月雨が降りしきる空を、大きな大きな鳥が川から取ったばかりの魚を咥えて飛んでゆくという景だと思うのだが、「さみだれうを」という造語による魚のヌメヌメ感、「大き鳥」という言い方の抽象性から、なんだか覚めない夢の中にいるような気味の悪さを覚えるのである。

こうした裕明句の不思議な雰囲気は、眠たい時に眺めている世界の感覚に随分と似ているのではないかと最近考えている。折しも、先に引用した四句目も悪夢にいるかのようだと書いた。 裕明句において眠たさを書いた句はいくつもある。

春晝の壺盜人の醉うてゐる(花)
白晝の夢のなかばに鮎とんで(花)
西行忌あふはねむたきひとばかり(櫻)
ねそべりて京都ながむる鳰(櫻)

直接的に眠たさを書いていない句も含め、特に初期の作品において、田中裕明の句にはぼんやりとした雰囲気が色濃い。さらに言えば、頭がぼーっとしてしまって周囲のことがよくわからなくなってしまい、小さな疎外感を覚えるような感覚さえある(この感じは自分もよくわかる)。この周囲との断絶感、ある種の孤独が田中裕明の句にまとわりつく不思議さの正体なのではないだろうかと思う。

しかし、田中裕明は最後には目を覚ましてしまう。というより、目を覚ますことを余儀なくされてしまう。原因はやはり病であった。二〇〇〇年に白血病を発症して以来、彼は日常生活のほとんどを病床にて過ごさなければならなくなった。そうした日々の中、田中は次第に自身とその周辺を客観的に眺めるようになっていく。

糸瓜棚この世のことのよく見ゆる(夜)

最終句集『夜の客人』の最後の一句。糸瓜のそばに立ち、周囲を見渡している田中はもうぼんやりとしてはいない。そこにあるのは長い闘病の日々の末に図らずも得てしまった空虚な覚醒である。そこに考えが至る時、自分はなんとも言えず寂しくなってしまう。 最後に、これまでに引けなかったお気に入りの裕明句をいくつかあげて終わりにしたい。本当はもっとたくさん引用したいが、今回はこの辺で。

今年竹指につめたし雲流る(山)
夏の旅みづうみ白くあらはれし(山)
宿の子の寝そべる秋の積木かな(花)
襟巻を長く垂らして鹿のまへ(花)
櫻のはなし採寸のあひだぢう(櫻)
梨むいてゐるかたはらに児を寝かせ(櫻)
よき友はものくるる友草紅葉(先)
水遊びする子を長く見てありぬ(先)
みづうみのみなとのなつのみじかけれ(夜)
ねそべりて手紙を開く子規忌かな(夜)

俳句のすすめ                                                                                                S.H.

僕は、自選十句の紹介とともに、僕の文芸部でのこれまでの活動、俳句の面白さを語れたらと思います。まず自己紹介、高校一年で吹奏楽団にも所属しており、ホルンを吹いています。趣味は野球観戦で阪神タイガースのファンです。今年は優勝して欲しい!(編集者注:この文章は東京ヤクルトスワローズの優勝決定前に書かれました)

自選十句のタイトルの「九月の、二十日余り四日の日より」というフレーズは、知っている方もいるかもしれませんが、土佐日記の冒頭部の「十二月の、二十日余り一日の、」という部分。古典の授業で学習した土佐日記から使わせてもらいました。この九月二十四日は記念すべき僕の文芸部最初の活動日です。

夏祭りあふれる人と動かぬ木

僕が俳句を文芸部で始めるきっかけとなった句。この句は第二十一回NHK全国俳句大会でジュニア大賞に選んでいただきました。小学校から授業でしか作ったことがなかった俳句の受賞を聞いたときは驚きでしかなかったです。その後、文芸部の張り紙にあった俳句甲子園全国大会出場の文字を見て、俳句って面白いかもしれないぞという期待、もう一度俳句で受賞したいという願望、全国、甲子園という言葉に魅了されたことで文芸部入部を決めました。吹奏楽の同級生を誘い(一人では心細いので)文化祭明けの初回の部活に出ました。

秋の蝉寝すごし降りた駅の端

文芸部に入ってまず驚いたのは、俳句には様々な楽しみ方があるということです。この句は、初めて行った句会(同級生4人と講師の先生で行った)で出した句。句会とは、参加者がそれぞれ数句ずつ持ち寄り、作者が分からないようにして、お互いに句を批評し合う会のこと。句会は他の人の句から好きな句を選び、批評するのですが、作者の自分が思わなかった詠み方で句を評価してくれることがあり、これも句会の楽しさの一つだと思います。この句も僕の思っていた以上に景を立ち上げてもらったことがとても印象的でした。秋の蝉、寝過ごす、端のマッチを評価してもらいました。

夕風の色を吸い込む金魚玉

吟行(外に行きその場で句を詠む)に行き、先輩方のディベート(俳句甲子園でも行われる句を批評し合う対戦形式)を見るなどして、早くも文芸部に入り二ヶ月ほど経っていました。この句は部員全員で行った句会でのもの。同級生での句会と違い結構緊張しました。

古井戸の底ぱちぱちと星流る

早朝に蕎麦立ち食ふや秋の川 冬休みはLINEを用いて毎日十句を送ることに。冬休みが終わりに近づくにつれて、句の題材が見つからず、苦戦しながら句を作りました。

虎落笛風の果てを求めて鳴る

俳句は五七五でないと絶対にいけないわけではなく、冬休みの一日十句の期間にそういう句に挑戦したくて作りました。この句は自選十句の中でも気に入っている句。リリカルで良い句だと評価してもらいました。

双六の駒進みても富士見かな

この句はお〜いお茶心俳句大賞に応募した句(残念ながら審査を通過できませんでした)。双六の駒で作りたいと思い、あれこれ悩み詠みました。季語は双六で新年。季語には、これも季語なのか!と驚くものもあります。例えば、ブランコやラグビーも季語。どの季節か分かりますか?

水温む湖心や手巻き時計巻く

東京家政学院高校とのZoomでの句会の時に評価してもらった句。他校との句会は初めてだったため緊張しましたが、普段の部内とは異なる作風の句もみられ、とても充実した句会になりました。Zoomによって今まで以上に遠くと繋がれるようになったため、今後も他校の方との交流を活発に行えたらと思います。

春泥の古道を行き美術館

この句は今年の俳句甲子園の一次審査に提出したもの。春泥のイメージがなかなかわかず、この時の兼題(春泥、囀、木の芽)のなかで最も苦労した題でした。

霧雲の溜まるたをりや山清水

今年の俳句甲子園では、新型コロナ感染症のため全国出場チームを松山行きのベスト4に絞るための投句審査が行われました。僕のAチームはベスト4を逃してしまったものの、Bチームの先輩方の松山行きが決定し、発表を見て部員全員で喜びました。そしてこれはその投句審査で出した句です。俳句は不思議なもので、さらりと形が決まって詠めた句の方があれこれ悩んだ句よりも良い評価をもらえることが多々あります(僕の悩み方が悪いのかもしれませんが)。この句もすんなりできたものでした。「たをり」は山の屋根などで撓むように低く凹んでいるところ、山清水は夏の季語で山の清水です。来年は松山に行けるようこれからも力をつけていきたいと思います。

ここまで自選十句を紹介しつつ、その時の出来事について書いてきました。ここまで読んでくださった皆さん、ありがとうございます。海城文芸部の特徴は、ほとんど全員兼部をしていること、高校からの部活ですが文理問わず部員がいることです。俳句は誰でも作ることができますし、それぞれの多様なものの見方がそれぞれの俳句の味になります。俳句の他にも色々なことに触れることで、俳句を深められるのではと思います。また、この活動はKSプロジェクトでもあることも特徴です。外部から先生方をお呼びして行う活動は多くのことを知ることができ、とても有意義です。 俳句は、誰でもすぐに始められる文芸だと思います。ぜひ皆さんも俳句を始めてみてはいかがですか?海城生の皆さん、「俳句って言われても」とか「国語は苦手」とか言わずに一度見学に来てみてください。そして、この文章をここまで読んでくださった全ての皆さん、今年は文化祭が内部開催になってしまいましたが、来年以降対面できるようになれば是非、文芸部にもお立ち寄りください。 

題:「私はきのこが嫌い」とはどういうことか             S.T.

 ここでは、「私はきのこが嫌い」という事象を自らの考察で分析することを目的とする。

まず、ここでは「私」は著者であり「きのこを嫌う」主体であることを確認する。次に「きのこ」という言葉である。これは、事象(「私はきのこが嫌い」)からして嫌われる対象として「きのこ」として、主体が認識したものを「きのこ」と指すことが分かる。そのため、ここでの「きのこ」は主観的な認識における概念としてのきのこであり、いわゆる品種だったり生物学的分類において定義づけられるきのことは別物として扱うのが良いだろう。つまり、例えば「きのこの山」をきのことして認識したのであれば、それは紛れもなくここでは「きのこ」なのだ。一方で確かに、生物学的な分類におけるきのこと私が主観的に認識する「きのこ」は概ね一致している。これはなぜだろうか。思うにそれは、私が生物学的な分類に一定の有価値性を認めているからだろう。つまり、「きのこである」という事実認識において、生物学的根拠はその認識を与えるに足る価値があるということだ。これはおそらく、自然科学への世間的な評価やその客観性を重視する世の中で、主体の価値観が形成されていったからだと考えられる。

とはいえ、きのこという概念に対する事物の一般化には、きのこであると認識するための共通項として、つまり私の中できのこのアイデンティティが何かしら形作られていると考えられる。それこそ、自然科学的な根拠の外側できのこをきのことして認識する際、きのこのアイデンティティのような存在が考えられ得る。となると、そのきのこという概念に当てはまる事物間の共通のアイデンティティの価値を否定している、という可能性を考えるのは自然である。つまり、私は「きのこたらしめるその性質」を嫌っているのではないかということだ。しかしそれは、少なくとも現段階での私にはあり得ない。

その理由は具体的な場面を想像すれば思い至る。私はきのこの山の見た目が苦手である、なぜか。きのこの形をしているからだ。私はしいたけの匂いが嫌いである、なぜか。きのこの匂いが嫌いだからだ。私はなめこの食感を憎んでいる、なぜか。きのこの食感をしているからだ。

このように、原因を突き詰めていけば、私が「きのこ」に嫌悪感を感じるとき、私はまさしく「きのこ」それ自体を嫌っているということが分かる。

ここで一度、「嫌う」という行為について考えてみたい。先ほどは「きのこの特性の価値を否定している可能性がある」と述べたが、嫌うという行為はそれ自体だけではないと思う。なぜなら、価値が否定された状態を無価値だと考えた時にきのこは、私が認識していない何か無価値なものと比較した時に、明らかにきのこに特別感を抱くからである。それこそ、嫌いは好きの裏返しという言葉もあるが、好意を抱く、有価値性を認める時と同じような感情なのである。となると、「嫌う」という行為は単に存在や概念に対する価値の否定には終わらず、そこからさらに強く負の方向への価値づけが行われているのだと分かる。そして、この際の価値づけとはほとんど根拠を持たず、持っていたとしても短絡的な根拠に過ぎない、いわば個人の価値観によって判断しているのだ。価値観というのは、実に複雑なもので、私などは他者とのコミュニケーションの間で生まれる共通認識として承認された有価値が経験的に積み重なった時、一人の個人として価値観が形成されているのではないかと考えている。つまるところ、価値観には決定的な根拠はないのだと言える。

とすれば、私がきのこという概念に対して負の方向に強く価値を付しているということが分かる。言い換えれば、きのこという概念は、負の方向に強く価値づけられたものとして認識されるということである。

以上のことから、私はきのこをきのことして主観的に認識したその時、私はきのこそのものを嫌うのである。思い返せば、一番最初にきのこと嫌悪感が結びついたのは、幼稚園にいた頃で、確かその時はスープにきのこと当時大嫌いだったトマトが入っていた。そして私は確か、それを口に含んだ時、盛大に吐き出したのだ。あの時に、トマトと共に飛び出てきたきのこのにゅるっとした感触は、今でも幼少期における鮮明なトラウマの一つとなっている。おそらくその時からだろうか、強くきのこという概念が嫌悪感を伴うものとして認識されたのは。

しかしながら、こうも身近にいわゆる「早まった一般化」があることは我ながら驚きだった。なかなか、このきのこに対する価値観は覆しがたい点があるのだろう。と同時に、この文章における「きのこ」という言葉は言葉次第で全く趣旨の違う文章になることを考えると、とてもぞっとする。

「自由」な作文                       H.N.

 まず自分は自由に作文を書いていいと言われて、何を書けばいいのだろうと思った。確かに文芸部の部誌に載るものだから俳句に全く触れないのはないだろう。そう色々考えた僕はまず文芸部の友達に聞いてみることにした。ある友達は自推十句を一句ずつ解説し、ある友達は自分の嫌いなものについて論理的に書いたそうだ。なるほど、自由と言っても本当に自由に書いていいのだなと。だが自分にはそこまでの文章力は無いと思っており、流石に短くなってしまう。また他の友達に聞いてみたところ、身近なものについて淡々と書いたらしい。それならば書いてみようと思って書き始めたのがこの文章である。

元々自分はそこまで決断力のある人間ではなく、基本的には周りに流されていれば安全にいられるだろうと考えていた。生きることに無気力だったと言ってもいい。海城という環境では多方面に優れている人が多く、俳句で賞をもらったり、将棋の大会で優勝したり、読書感想文で優秀賞をもらったりということがすぐ身近で起こる。そんな環境で生活していては何かしら成し遂げたく成るのは自然である。そう考えていた自分には特に秀でたものもなく、勉強は平均より少し上、スポーツも人並、友人関係もごく普通なものであった。こういうことを自分で言うのもどうかとは思うが事実なのである。

そんな中三のある日、住谷に誘われて入ったのがKSプロジェクトの俳句である。元々彼は中二の時におーいお茶の俳句でかなりの賞をとっており、そう言うこともあって入ろうと思ったのだろうが、自分を誘ったことはそれなりには意外だった。まあ、吹奏楽団に一緒に入ったと言うこともあったかもしれないが。もともと俳句自体は中学校の国Aの授業で強制的に作らされており、自分もそれなりにまともには作っていたがそこまで関心があったわけではなかった。

まず当時の感想としては周りのレベルの高さに驚いていた。人は一つの物事にここまで本気になれるのだと。別に誇張しているわけではなく、本当に思ったことである。初めのうちは先輩たちには混ざらずに、俳句の作り方から学んでいた。その時にできた迷句が「妹の算数ドリル雑煮食う」である。この文章を書いている時もなんでこんな句を詠もうと思ったのかわからなかった。おそらく当時の自分は取り合わせに全くセンスがなく、とりあえずプロットで出てきたものを並べてみようと思っていたのだろう。真面目にこの句を指摘しようとすると、まず妹の算数ドリルで上五中七を使っているのが無駄である。次におそらく算数ドリルというのは雑煮という季語から冬休みの宿題として持ってきた単語だと思うが、宿題としてとるなら別にいつのでもいいのではないか。そしてそもそも妹である必要がないのではないか。この句の読みたかったものとしては、正月に妹が全く宿題が終わっておらず、それを面白がって見ながら雑煮を食べているというものだとおもうが、それなら妹である必要がない。

こんな感じが自分が文芸部の入った経緯である。

案の定800字ほど余ってしまったので、ここからはくだらないことをつらつら書いていこうと思う。

一学期は授業が午前で終わっていたのでその時間を何かに使えないだろうと思ってギターを買ったのだが、二学期から普通に授業が始まってしまったので、結局やる時間がなくなってしまった。今では自室にインテリアとして配置されている。意外にもスペースをとっているが、しっかりと選んだものなので捨てるにも捨てられない。というか捨てたく無い。

ふと思いついたので自分の浪費癖についても書いておこう。小学生の頃祖父母からもらったお年玉やお小遣いはすぐに母親に渡していたので、中学生になって自分の手元に1、2万円があることにあまり実感が湧かなかった。そのためか自分は欲しいものを見つけると後々後悔しないようにとすぐに買ってしまう。先ほど書いたギターは違うが、ついこの前買ったワイヤレスイヤホンはセブンイレブンで8、9千円で売っているイヤホンである。セブンイレブンで1万円を出すというのは人生でも数少ないのでは無いだろうか。

こんな感じで自分はすぐにものを買ってしまうので、最近金欠に陥っている。

最後に兼部している吹奏楽団について書こうと思う。文芸部には吹奏楽団に入っている人が先輩を含めて5人いる。自分は吹奏楽団ではフルート、金属でできているのに木管楽器である銀色の横笛を吹いている。最近先輩が難しい曲を文化祭用に選んでしまったのでかなり練習しなくてはならず、最近は時間に追われている。 こんな感じに自分の近況を書いたところで「自由」作文を終わろうと思う。

初年                            H.K.

 ・自己紹介

海城高校一年生。部活は吹奏楽部と文芸部を兼部しており、吹奏楽部ではトロンボーンを担当している。トロンボーンは小学五年生の時に始めて、そのまま中学高校でも続けている。

弟一人妹一人の三人兄弟の長男で、最近は弟が反抗期で困っている。少し悪い影響を与えてしまったかなと後悔していないこともない。割と病気になりやすい体質で中学受験後には一月で2回インフルエンザにかかった。そのくせよく怪我をしていて今年の六月にはサッカーの授業で左手の指を骨折した。中学二年の時のEnglishキャンプでは何故か頭を切って出血し、一人だけ合宿中頭に包帯を巻いていた。趣味は読書と野球観戦で、好きなプロ野球チームは阪神タイガース、好きな選手は近本光司。一番好きな本というか何度も読んでいる本は「永遠の0」。最近は村上春樹の本にはまっており、現在(9/26)は「海辺のカフカ」を読んでいる。話はあまり理解していないが、表現とかが好きで半年くらい村上春樹の作品を読んでいる。嫌いなものは茄子と目覚まし時計。茄子は味と感触が嫌い。目覚ましい時計は朝起きるのが嫌いというのと、起こされる感じが何か気持ち悪く、好きになれない。好きな俳句は、渡辺白泉の「戦争が廊下の奥に立つてゐた」。この句は「銃後俳句」と呼ばれる無季俳句で、戦争がすぐそこまで迫っている感じが最後の「立つてゐた」から伝わってくる。雰囲気の伝え方がすごく上手くて気に入っている。

・自選10句の紹介 

泣き虫に片陰はまだ続いてゐる

ずっと続いている片陰の中を泣いている子供がたった一人で歩いている。片陰の中を歩いているというよりは、家に帰れず彷徨っているだけかもしれない。ずっと日向ではなく片陰を歩いているところにこの子の心があらわれている。個人的には季語を上手く活かせたと思っている句。

囀の窓辺闘病日記なり

今日の日記を書き終えたところに中庭かどっかから囀が聞こえてくる。普段は医療器具の音しかしない病室に今日は明るい鳥の声が聞こえている。病院という少し暗いところと囀の騒がしくも明るい感じが対照的な句。当時(今でもだが)、週一くらいで病院に通っていて、その帰り道に思いつきそのまま句にした。

空蝉や灯籠の火の弾けたる

灯籠にすでに蝉本体が抜けて抜け殻となったものが残っている。たまに火が灯籠から弾けでて、それが蝉の殻を透けて地に綺麗に映っている。灯籠は仏具として使われることが多く、輪廻からの解脱を目指す仏教と、この世という意味も持つ空蝉の組み合わせが割といい感じにできていると思っている。火を使った句を作りたくて、抜け殻の少し透けた感じが良いなと思い取り合わせてみた。

注連縄の粗く解れて山清水

山道の途中に石祠がある。その石祠は長年手入れがされておらず、注連縄は解れてしまっている。そんな石祠の近くを澄んだ清水が流れており、神聖な雰囲気を醸し出している。本来は神聖なものであるがボロくなってしまった石祠と澄んだ清水の少しズレた感じの組み合わせ。 

信楽のたぬきのヘソや春の泥

春の泥にヘソがまるまるとした信楽焼の狸が映っている。たぬきという少し泥臭いけど可愛らしい感じが、春の泥というただの泥とは違う特別な感じと合っている。

春風や世界の地図に水光る

机の上に広げられた世界地図に水滴が光っている。春になって旅立とうとする人を春の穏やかで心地の良い風が後押ししてるイメージで作った句。

ピアスの傍ら探してゐる日永

ピアスを片方落としてしまい探している。昼が長くなり始め、気分的にものんびりと探している感じがする。ピアスとかのアクセサリーは春の季語と合わせるとすごい軽い感じになるので良く使ってしまう。

母の日に母が視界にずっとゐる

学校で「お〜いお茶新俳句大賞」に出したときの句。母の日ということで視界にいる母に注目がいく。普段も視界の中に母はいるが当たり前すぎて意識することはほとんどない。本当に視線が母の方にずっといっているのかは分からないが、考えていることの端には母がいたような気がする。

車窓からポインセチアを池に投げ

ポインセチアといえばクリスマスの花で、花言葉には祝福や幸福を祈ると言った意味がある。今の時代、車窓から物が投げられるなんてことはないが、明治時代では車窓から物が捨てられたりすることはよくあった。しかし、この人はきっとポインセチアを捨ててはいないのだろう。思い入れのある池にお別れの挨拶とクリスマスの祝福を込めてポインセチアを投げたのかもしれない。実際に池の付近に花が添えられていたのを見たことがあった。なんの花かはわからなかったが、むしって捨てたのではないだろうということは分かった。それがずっと印象に残っていた。

万緑に虫取り網を忘れけり

確か文芸部に入ってから最初に作った句のうちの一つ。今考えれば季重なりしてはいるが、思い出の句。夏にたくさん虫取りをするが、虫取り網を緑の中に忘れていったまま大人になってしまった。虫取りといった子供の時の思い出を忘れて大人になっていく現代の人みたいなイメージで作った句(だった気がする)。

・最後に

今年は俳句はじめたての年で、俳句甲子園では当句審査だけだったものの全国大会までは行けたからまずまずだったと思う。ただ準決勝に行くことはできなかったし、個人賞で選ばれることもなかったので少し悔しい思いもした。来年の俳句甲子園では是非決勝の舞台まで行ってみたい。また、ほかの俳句賞にも積極的に出していきたい。俳句はスポーツとかと違って一生続けられる趣味の一つだと思うので、今後とも楽しみながらやっていこうと思う。

自分がディベートに向き合う中で               M.R.

今年も俳句甲子園の予選は新型コロナウイルスの影響により、形式を変更して投句審査で実施され、僕は初めてCチームの一員として参加し、嬉しいことに3チーム全てが全国大会への切符を手に入れた。しかし、その後の大会形式のさらなる変更によって、全国大会も投句審査となり、上位4チームのみが松山で試合を行えるという条件の中、僕も作句に全力を尽くしたが、結果としては高二の先輩方、5名で構成されたBチームのみがベスト4入りを果たし、高一の夏の俳句甲子園は終わった。先輩方の松山入りが決まったその日から気持ちを切り替え、ディベート練習の協力に回る中で、ディベートという行為について考える時間が増えていった。そこで、今年の部誌上では僕が俳句甲子園を通じてディベートについて感じたこと、考えたことをダラダラと書かせて頂こうと思う。

本題に入る前に簡単に俳句甲子園の試合とはどのようなものか説明したいと思う。まず、2チームが赤白に分かれ、各々が作ってきた俳句を一句ずつ提示していく。その後、お互いが相手の句に対して決められた時間内に質疑応答を繰り返し、そして、試合の内容を元に審査員が句点10点満点でそれぞれの句に、鑑賞点2点以内をどちらのチームにのみ加点して合計した点数を元に一つ一つの試合の勝敗を付けていく。結果的に多くの試合を取ったチームの勝利となるという流れだ。試合内容を知ってもらえればディベートは、いかに句のクオリティありきかが伝わると思う。試合を戦っていく中で、10点満点の句点で大きな差がついてしまえば勝ちは遠ざかってしまう。だからこそ、僕たちは句作に長い時間を費やすし、良い句が作れれば作れるほど、その句をディベートで守りやすい。しかし、勿論、どの学校もそのことを承知の上で素晴らしい句を作ろうとして来るし、実際、俳句甲子園の本戦レベルの試合となると、句点で大きな差が付くことは個人的には稀だと思う。そうなるとやはり、ディベートの存在が勝負の明暗を分ける大きな存在として僕らの前に立ちはだかる。

先輩方は松山入りの直前まで新型コロナウイルスの影響もあり、短くなってしまった部活の時間を最大限に利用してディベートの練習を繰り返していた。その姿を近くで見てきたこともあり、開成高校に準決勝、3位決定戦と良いディベートが出来ていたのにも関わらず、破れてしまって悔しかった。これらの僕たちが日々、練習して松山で俳句甲子園の戦いに挑む過程は日本テレビのスッキリ!とNHK松山放送局制作の番組で特集された。自分たちが情熱を注いで取り組んできたことが多くの人の目に触れて嬉しかった反面、厳しい意見も見受けられた。その多くはディベートが互いの句を貶しあっているのではないかという類のものだった。言わば、ラップバトルのディスのように思われてしまったのだろうか。ディベートはお互いに句について質疑応答を繰り返す中で見識や感受性、想像力を競い合いながらも、作品の魅力を理解し、高め合っていくことを念頭に置いたものだ。もちろん、僕もそのことを意識してディベートに臨んでいるつもりであったし、だからこそ、そのような意見を受けて色々なことを考えた。何故ディベートをこのように捉えられてしまったのだろうか。自分はどのようなディベートを心がけていけば良いのだろうか。

何より重要なのは相手の句を攻めるときのディベートの仕方だと考える。相手の句を突くという表現からも分かるように、基本攻めの際にはその句に使われる言葉に細かく目を向けて、より良い句の表現を見つけていく。そこで陥りがちなことは指摘に気をとられてしまい相手の句の景を十分に立てることができずに時間が過ぎてしまうことだ。ありがちなディベートの例としてその表現の必然性を問うものがある。「句の季語が〇〇だが、別の季語に置き換えても良いのではないか。」「いや、この句ではこの季語が一番良い。」という質疑応答を行なってしまうことが良くあるが、あまりにも景との整合性が取れていないときは別として建設的なやり取りになっているか疑問が残る。やはり、攻める際には相手の表現が持つ魅力を立てて挙げながらも、他の表現をその景の新しい見方を交えて説明しなければならないと思う。また、そのようなやり取りを経た上でも一番は相手の元の句の形でなければならないとも思う。相手のオリジナリティを尊重しながらも他の表現を共に模索していくという前提が備わったディベートがまだ自分には十分に染み付いていないことに気づかされた。他にも自分の至らぬ点が挙げられる。それは質疑応答であるという意識の欠如だ。また、ここに相手との対立を思わせてしまっているのではないかと思う。相手の攻められた際に自らの句の整合性や魅力を語ることに精一杯になってしまい、相手の発言を飲み込むことを忘れてしまう時がある。そのため、端から見ると発言がぶつかり合っているように捉えられるのではなかろうか。これらの課題は練習をひたすら積むだけではなく、対外試合や他校との句会など普段とは異なる環境で俳句と触れることで身につくものがあると思う。今回感じたことを念頭にそのような場を大事にしていきたい。

最後に、今回の文章はあくまで自分が考えたことを感情的にまとめたものであって、これが全てでは無いことは分かっている。それでも何か自分の頭の中だけのものにせずに形として残したいと考えた末に部誌に書かせて頂いた。これからも俳句と真摯に向き合い続け、俳句甲子園で最高のディベートが出来た際にはこれを再び読み返したいと思う。

あとがき

「海路」、お楽しみいただけたでしょうか。 

文芸部として、特に俳句の分野では、今年は飛躍の年になりました。第二十四回俳句甲子園全国高等学校俳句選手権大会、通称俳句甲子園において、海城Bチームが全国ベスト4に進み、俳都松山でディベートを行いました。惜しくも敗れて4位となったものの、生徒一人一人が大きな学びを持って帰ってきたと思います。

高校生の俳句でよく言われるのが、「青春」という言葉です。基本的に男子高の高校生はこの言葉が嫌いだと(勝手に)思っています。また、「高校生らしい俳句」というワードもよく耳にしますが、「自分たちの活動を『高校生らしい』とひとまとめにしないでほしい」という思いがあり、高校生で俳句やってる人からするとあまり気分が良くはならない言葉です。

ただ、今回俳句甲子園に実際に出て、試合に負けて泣くチームメイトや、勝って嬉しそうな顔をしている対戦相手の方々を見て、確かにここに「青春」というものは存在するんだなぁ、少なくとも何十年後に振り返った時に、この一瞬は「青春の1ページ」として刻まれるのだろうなぁと漠然と思いました。その光景はまさしく、高校生らしかったです。

多分この部誌も何十年か後に見直したときに、「青春」の象徴みたいになっているのでしょう。少し気恥ずかしい気もしますが、胸を張って「これが自分の青春だ」と言えるように、残りの活動や高校生活も楽しんでいきたいと思います。

最後にはなりますが、この部誌に携わってくださった、先生方、講師の方々に改めて感謝申し上げます。 ここまで読んでくださってありがとうございました。引き続き海城祭をお楽しみください!

尾崎 貫太


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