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問題の解決と医療

 医師は苦痛という問題を解決するために働くが、中には治せない人もいる。 結局、苦痛や問題というのは根本的には解決できない。身体の病気を治すための実践や研究が、どれも今一つ僕の心に響かないのは、呼吸や血圧を管理して命が救われたとて、それがどうした、と心のどこかで思っているからだと思う。僕がなおしたいもの、なおしてほしいもの、なおらないものは、風邪や癌や外傷ではなく、それらとともに来るものではないのか。癌を治して、"それ"がどこかへ行くのか。

 社会的な問題に目を向ければ、ある社会問題の責任を現実のなんらかに求めても、事態は解決しないどころかむしろ深刻化するものだ。聖書にあるように、罪ある女に石を投げられる罪なき者はどこにもいない。お互いに迷惑をかけあい、迷惑に感じあいながら生活している。生活に問題を全くはらんでいない人物など存在せず、誰しもが愚痴を持っている。「我々の利権をことごとく横領し、札束でいっぱいの猫足バスタブにうずまるユダヤ人商人」は、じつのところ存在しない(ポーズをとる人はいるかもしれないが)。

 利権をひとりじめする悪徳商人。かつてヒトラーがユダヤ人に背負わせたような、こうした奪われた豊かさの幻想を、いまも様々な人たちが、望んでか望まずか被っている。安倍首相がリビングで猫と戯れ本を読む動画が、そのいかにもなポーズとして機能したのは記憶に新しい。なかには、自ら進んでそうした「豊かさの幻想」を背負うことで、セルフイメージを保とうとする人たちもいる。

 しかし悲しいかな、自分を慰めるために「豊かなくらし」の皮をかぶっても、愚痴は最後には僕たちを圧倒する。わざわざ記者会見で動画について弁明する首相をみると、結局は「大変そうだな」という感想に落ち着いてしまう。それは、豊かさの皮で上書きできないもの、何かのせいだと説明しても解決しないもの、最後には「それ」として受け止めるしかないものだ。

 愚痴は解決できないとすると、では愚痴から解脱するとはどのようなことだろう。解脱とは、愚痴を解決・解消・溶解することでしがらみから脱することではない。愚痴をそれとして受け止め、愚痴を上書きしたり説明にやっきになる迷いから脱することではないか。

 愚痴や解脱などと仏教の語彙で書いたが、まさにこれは宗教家の仕事だと思う。幼いころ僕は芸術家に憧れて、そして今は医学を学んでいるが、究極は宗教家になりたかったのかも知れない。この三つの職業の関係について、昔からふんわりと考え続けている。

 入学当初から精神科を志望しているが、ある先輩に緩和医療に向いているだろうと言われたことがある。今は彼の言うこともわかる。僧侶でもあり、医師として緩和医療に携わる人物の最期を取材した番組があった。そういうのもいいだろうな、と思う。自分の進もうとしている道と並行するもう一本の道、少しずれたり、反復横跳びをしたらすぐそちら側になってしまうような彼岸として彼らを見ている。

 研究よりも臨床に興味があるが、人をなおすことを指向しているのではなくて、人がなおらないことを指向しているのだろう。精神科は解明されず、治療はもとより診断の恣意性を扱う科として魅力があった。人がなおらないこと、なおっている人がいないこと、だれしもが病んでいることを最も雄弁に語る科とはどこであろう。人間に病名をつけるとはいかなることか。

 

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