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牙のないチャーハン・浜松「えびす」

浜松で外国料理ばかり食べるのは、自由になりたいからだと思う。

何から自由になりたいのか、と聞かれれば、それは家族だと思う。

料理と家族は深く結びついている。

「大根は煮物にする」「きゅうりはおしんこにする」

という定番の調理方法には、「手軽に旬を美味しく食べる」ために日本人が長い年月をかけて生み出してきた知恵がつまっていて、ほんとうに頭が下がるなあ・・・という感じ。

それと同時に、どこかざわざわもする。「家族ってなんだろう」と自問自答を繰り返し、特に夫婦という関係に違和感を覚えてきた自分にとって、子どもの頃から食卓に上がってきた「大根の煮物」や「きゅうりのおしんこ」は、幼少期に引きずり戻されるタイムマシーンのような存在でもあるのだ。

一時期、そんなタイムマシーンを口から飲み込むことがうまくできなくなった時期に、「きゅうりの皮を剥いて、炒める」というレシピとの出会いは、自分自身も一皮剥いてくれるような気がした。

きゅうりを見つけては皮を剥いて、ナスを見つけては皮を剥いて、トマトも湯剥きして、世の中の野菜のあらかたの皮を剥き終えた頃に、ふと「きゅうりのおしんこが食べたい」なんて思ったりした。


浜松滞在3日目の今日も、そんな感じだった。用事が終り、クタクタになって、なにも考えられなくなって、宿に戻る気力も尽きた夜の6時45分。

お腹すいた、ホッとしたい、どこ行こう、なに食べよう。

金曜日の夜だから、パキスタン料理のお店に行って、スパイスたっぷりのマトンビリヤニを食べることもできたかもしれない。でも、この時、本能的に「あそこ行きたい」と思ったのは、一軒のまち中華だった。

店の前の駐車場に車を停めると、店内でUネックのシャツを着て、首からタオルをぶら下げたお父さんが、テレビを見ている姿が目に入った。店内に入ると、お母さんが冷水機から水を注いで、持ってきてくれた。

二人の家に上がらせてもらったみたいで、ホッとする。

ぼんやりしていたけれども、背中越しに聞こえてくるテレビからの声に、ようやく自分を取り戻し始める。

「チャーハンください」

「はい〜」

かちゃ、っと炊飯器からご飯を取り出す音、カチャカチャという音を聞きながら漂ってくる卵の匂い、そしてあっという間にチャーハンが出来上がる。

そういえば、ごはん屋さんへ行くと料理見たさにカウンターに座ることが多いのだけど、「えびす」ではテーブル席に座って料理を待ちたくなる。

「おまたせ」

子どもの頃から、チャーハンが大好きで、もう何食食べてきたのかわからない。

そんなチャーハンには「牙のあるチャーハン」と「牙のないチャーハン」がある。

牙ってどういうことかというと、おいしくてがつがつと食べるのに、あとから胃もたれしてくることがあるのだ。この遅効性のチャーハンを、ぼくは牙のあるチャーハンとよぶ。

ところでえびすのチャーハンは、ぼくの記憶する限り、もっとも毒のない「牙のないチャーハン」なのだ。

どうやってつくったのか、厨房をのぞきたくなるほど油っ気がなくて、チャーハンというよりは炊きたてのおこわみたい。

もりもりと食べて、最後に紅しょうがをいただいて口さっぱり。

不思議と体は軽くなっていた。

帰ろう。


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