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「家族進化論」(山極寿一, 2012, 東京大学出版会)書評

お断り

この文章は山極寿一氏の「家族進化論」(東京大学出版)を取り上げた「児童心理学の進歩 VOL. 55 2016年版」の書評シンポジウムに寄せたものの草稿です。最終的な出版物とは細部が異なります。書評シンポジウムでは、書評にたいして著者からの返答が得られることとなっており、この原稿もそのことを含めた書き方になっています。noteに転載するにあたって体裁をWeb向けに整え、注を1つ加えました。

書評

中学生の頃のことと思う。米国大統領選挙にかんする記事の中で「◯◯候補は家族の価値を重視し...」といった記述を見つけ、「家族の価値」などといったものが、選挙の争点になることに驚いたことを覚えている。そんなことを思い出したのは、本書「家族進化論」の著者が、京都大学総長の山極寿一氏であることと、もちろん無関係ではない。本書は、政治的イシューともなりうる「家族」について、日本社会における研究や教育に強力な発言力を持っている人物が著したものである(ただし本書執筆は総長就任前である。この件については後述する)。そのような本が政治的、社会的な視点からも読まれ、そして評価、利用される可能性があるのは、自明のことである。この可能性を視野に入れたときに評者は、本書は難しい本である、という印象を持った。その難しさを三点から説明してみたい。第一の難しさは、扱うテーマ自体が持つ難しさである。第二の難しさは、読者の読み方にまつわる難しさである。そして第三の難しさは、本書が全体として持つ意味にかかわる難しさである。

第一に、家族の進化というテーマそのものが抱える難しさがある。著者も繰り返し述べているように、家族の問題は、人間と人間社会を考える上で外すことのできないテーマである。その家族の起源を問うという試みには、自然主義の誤り(注)に絡め取られる危険が常に付きまとう。例えば第一章で、1960年代のMan the hunterという人類進化史観が、科学的知見の積み重ねによって、2000年代にはMan the huntedへと転換された研究史が鮮やかに記述されている。それだけを見れば、科学が真理により近づいたという”だけ”のことである。しかしそこに、人間存在を本来的に攻撃的な「狩るもの」と捉え、その攻撃性を肯定するのか、それとも人間の本性としての攻撃性を否定するのかという、社会的、道徳的な意味を読み取らずにいることは、読者にとって容易ではない。もちろん、このような事実命題から素朴に価値命題を導く過ちを犯さないよう、著者は慎重である。しかし読者が(著者の意図しない)深読みをし、それを根拠にさまざまな道徳的価値についての(読者の)主張を繰り広げる可能性は十分にある。その際に、著者の現在のポジションが良くも悪くもさまざまな効果を持つことは想像に難くない。

また、「家族の進化」には、研究テーマとしての難しさもある。例えば真猿類の社会の進化において何が効いたのかという議論が第二章において紹介されている。そこでは、まず食物の重要性が語られ(p.68〜)、読者が納得した辺りを見計らったように、それを否定する知見が紹介される(p.72)。次には、捕食圧の方が重要であったという理論が紹介されたかと思いきや(p.73〜)、それへの反論が示される(p.79)といった具合である。多くの知見をまとめる理論を構築すると反例が見つかり、反例を取り込んで理論を発展させてみても、また当てはまらない知見が出てくる。本書にはそのような話が満載である。それだけ家族や社会の起源を捉えることが難しいということであろう。

そこに第二の難しさ、すなわち読み方の難しさがある。上述したように、家族がどのように進化してきたのかというテーマには、簡単な一つの回答が得られている状況ではない。もちろん鍵となる概念がいくつかあることは本書によって示されている。すなわち食物、捕食圧、共食、インセスト回避、遅い生活史、気候変動、集団間の関係などである。しかし、これらの要因がどのように絡み合って人間の家族と社会を作り上げたのかについて、本書は必ずしも単純で明確な回答を与えてはくれない。評者はそのことをもって、本書の価値が下がるとは全く考えない。知見を集めれば集めるほど、未解決の問題が明らかになってくるのは、学問の日常だからであり、それこそが面白いと考えるからである。ただし「家族とはなにか」(本書の帯より)という疑問への何らかの回答を求めて本書を手にとった読者にとっては、すっきりしない感じが残るかもしれない。特に本書の前半はこうした「すっきりしない感じ」が強い。読み方の難しさというのは、つまり、簡単な回答を与える本ではないことを承知して、読者が本書に取り組むであろうか、ということである。”あの山極寿一氏”が書いた”家族進化論”に、読者が何を期待するかを考えると、「難しい」という感想が漏れてしまう。

この難しさは本書の後半に入ると、違った様相を見せ始める。第5章から著者は、「ダーウィンの難問」として、道徳の起源の問題への取り組みを開始する。ここから議論は、少なくとも前半と比較すると、明快さを示し始めるように思える。そして、同調、共感、音楽、言語といった魅力的なキーワードとともに、家族、社会、道徳の進化についての著者の持論が展開される。気になるのは、この明快さである。例えば第5章には「〜にちがいない」という言葉が散見される。「初期人類の社会は、・・・外婚の基礎をつくったにちがいない」(p.254)、「・・・契約によって男どうしの競合を弱めること・・・によって実現したにちがいない」(p.255)、「男たちは命をかけて共同戦線を張ったにちがいない」(p.270)といった具合である。これらの「ちがいない」は果たして、頑健な知見とそれに基づく論理によって支えられた主張であろうか。評者の読む限り、そうではない。むしろ学術論文で言えば"I believe"と表現されるような、現状のデータからは必ずしも主張しきれないが、自分はこう信じる。そう信じて今後の研究を進めるという宣言に近いものと思われる。しかし読者の中には、スッキリしない前半と比べた時に、後半の、著者の信念をも含んでいるがゆえに明快で力強い言葉から、これこそが本書から得られる科学的なメッセージであると受け取る人が出てくる可能性がないだろうか。

この懸念は、本書の最終章において、より強いものとなる。最終章において著者は「「10 コミュニケーションの変容」(p.335)そして「11 家族は生き残れるか」(p.342)と題し、通信技術の進歩によって言語の役割が大きく変容し、対面コミュニケーションなどの近距離のコミュニケーションの役割を大きく減退させてしまったと論じる。そして、そのことによって「現代の人々は・・・共感を向ける特別な相手を失いつつある」とし、「共感という感情が行き場を失ってさまよい始め」たことから人々はスポーツ観戦に熱狂するが、それは「安易な共感の発露」であるとも論じる。そして「この状態を放置しておけば、社会を支えてきた人々のきずなは緩み、ばらばらになって収集がつかなくなる恐れがある」(p.344)と警鐘をならす。

しかし、果たしてそれは事実なのであろうか。ここで著者は、自説を支持するデータを一切示していない。インターネットや携帯電話によってスポーツが興行として大きく拡大したというデータも、携帯コミュニケーションに閉じこもっている人ほど、スポーツやコンサートに熱狂するというデータが示されることもない。スポーツファンの間には「特別な相手」に向けられるような共感や同情が向けられることはない、というデータが示されることもない。実際のところは、同じスポーツチームのファンの間には、「内集団ひいき」と呼ばれる、見返りを求めない利他行動が促進される可能性が指摘されている(中川・横田・中西, 2015など)。そして、そのような種類の共感や同情は、ウチとソトの差別にもつながりうるものとして、社会心理学で批判的に取り扱われてきたテーマでもある。さらに言えば、携帯もインターネットも無い、人々が今よりもずっと対面コミュニケーションに頼っていた時代に、人類は世界大戦を二回も繰り返したことも忘れてはならない。そこでは「みなの信頼を集めるリーダー」(p.345)が独裁者として大きな役割を果たし、歯車の狂った社会が暴力に走ったのである。

ここに第三の難しさがある。本書の前半は、膨大な科学的知見の紹介と、それが故に必ずしも単純明白ではない「家族」についての議論が展開される。一方で本書の後半は、著者の信念にもとづいて、必ずしも頑健な科学的知見に依らずに議論が展開される。そしてそれがゆえに、議論は相対的に明白かつ力強いものとなっている。一冊の中に、このように異なる様相を見せる本書が、全体としてどのように評価されるかという難しさがある。

評者は、本書の最後に示された議論が誤りであると言っているのではない。中にはデータによって支持される部分もあるだろう。しかし、誤りの部分もあるかもしれない。その判断をするための十分な証拠は提供されていないことを指摘している。また、そのように議論を進めることを全面的に批判するものでもない。科学的知見としては確立していないかもしれない、しかし永年の研究から得られた自らの確信や信念を、卓越した研究者が語ってはならないということはないであろう。問題は、しかし、本書の前半とのバランスを考えた時に、後半部分もまた、科学的知見にもとづいた議論であると受け取られ、または、そのようなものとして利用される可能性にある。前半部分の難解さと比べ、後半の議論がより明白かつ分かりやすいことも、この可能性を強めるように思われる。

はじめに書いたように、本書執筆時、山極氏は京大総長ではなかった。それゆえ本書の内容について、京大総長としての影響力を背景に論じることは、甚だアンフェアであることは承知している。しかしこれは書評シンポジウムである。せっかくの機会なので、現在のポジションに立脚して、かつて著した著作が今の日本において持ちうる社会的意味について、どのように考えているのかを問いたく、無礼を承知で、このような評を書いた次第である。

注: ここでの「自然主義の誤り」という言葉は不適切なものであったのではないかと、現時点(note転載時)の筆者は考えている。きっかけは自由民主党広報の「もやウィン」に対する日本人間行動進化学会からの声明、に対する伊勢田哲治氏のコメントを読んだことによる。専門用語を安易に使ってきた点において、自民党広報と自分は同じであると反省している。伊勢田氏の言に従えば、ここは「自然さからの議論」とするのが適当であっただろうし、ヒュームのテーゼとの混同がも見られる。しかしこれもまた、伊勢田氏という一人の議論に寄りかかった判断である。「自然主義」をどう扱えばよいか引き続き勉強中である。

引用文献
中川裕美・横田晋大・中西大輔 2015. 実在集団を用いた社会的アイデンティティ理論および閉ざされた一般互酬仮説の妥当性の検討:広島東洋カープファンを対象とした場面想定法実験. 社会心理学研究, 30(3), 153–163. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssp/30/3/30_876/_article/-char/ja/



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