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叫べ中年女 踊るロマンのチミドロで

「もう、やりたくなぁぁぁーーいッ!!」

食料品の買い出しに行った帰り、運転中の車の中で叫んだ。

中年女の叫び声である。恐ろしいだろう。2、3年に一度のスパンで訪れる、「叫びたくなるとき」が とうとうきたのだ。善でも悪でもない、およそ模範解答のない問題に日々直面していると、にんげん叫びたくもなる。

介護は忍耐であると思う。介護する方も、される方も忍耐だ。それをお互いが思いやることが出来れば、ストレスの溜まり具合グラフも緩やかな坂を描くであろう。幸い今の私の場合は、義母たまこさんのお人柄のおかげで、かなり緩やかな状態にある。

それでも溜まっていくものは溜まっていく。当たり前だ。心の底から介護を喜びと感じるとか、望んで他人の下の世話をする人間なんて そうそう居ないだろう。必要だから、やらなきゃならないから、つまり基幹にあるのは義務と責任なのだ。趣味嗜好ではない。

おしっこやうんちを漏らす。ころぶ。ぶつける。怪我をする。どれも、本人がしたくてしていることじゃない。仕方がないことなのだ。むしろ、上手にできなくて とてもとても悲しい思いをしている。食べたいものも歯がないので食べられず、行きたい場所も足が悪くて行けない。さぞかし辛くて悲しいだろうと思う。介護する側の私は、それらに配慮し、気持ちを汲んでやることが何よりも大切だと思い、日々対応している。

でも、介護する側にだって、辛さや悲しみがある。介護は、私がしたくてしていることじゃない。仕方がないことだ。食べたいものも、義父母が食べられないと基本的には食べない。行きたい場所も、義父母の面倒を見るために家から出られず、行けない。なんだ、私だって介護される側とたいして変わらないじゃないか。ほとんど同じ生活じゃないか。見ているものがテレビかネットかの違いくらいで。

結局、義母は我慢と妥協と思いやりで、私を気遣いながら世話をしてもらう。私も同じく我慢と妥協と思いやりで、義母の世話をする。お互いに、できる範囲の中だけで、細々と、ささやかに、毎日をこなすのだ。

誰も悪くない。何も間違っていない。これは解決できる問題ではない。

しかし、先に書いたように 溜まるものは溜まるのだ。

クサクサした気持ちになってくると、叫びメーターがリミットブレイクするのだ。でも一回開放すれば、再び溜まるまでに2,3年かかるのでしばらくは安心。心置きなく叫びましょう。

「もう、やりたくなぁぁぁーーいッ!!」


車の中でザ・ミッシェル・ガン・エレファントをガンガンに流しながら、好きなだけ叫ぶ。フライフライバードメンだ。いやー、スッキリ。何の解決にもならないが、そもそも解決どころか答えなどないので ごまかしで十分なのだ。最近は新型コロナウイルスライフのせいで、皆が皆マスクを着用している。だから、車の中で大きな口を開けてもマスクのおかげで全然バレない。いやバレてもかまやしないけど。


スッキリしても、しなくても、今日も明日も介護なのだ。

だったら、スッキリしていた方がイイに決まっているじゃないか。


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