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旅を”浴びる”人たち。


20代の頃は他人が行かないようなところをあえて探して見に行ってみたり
その他の観光スポットを一切無視してピンポイントに地域の名店や映画のロケ地だけを狙って行ったりした。

若いうちはかっこつけて通ぶってしまうものだが、その頃沢山背伸びしたおかげで今の視野は広がったと思う。

それとは逆にガイドブックそのままにお定まりの定番観光コースを回るのも実際かなり楽しい。
観光地は観光地なりに客をもてなすシステムがきっちり構築されているので、それに身を任せて楽しくないわけがない。
また、東京に住んでいながら敢えて「はとバス」のツアーに参加してみたという友人も居た。
プロの随行だ。面白いに決まっている。修学旅行の再放送という趣である。

時間も体力も無限にあった頃と違い、限られたリソースとエネルギーの消費を金で抑えるというのはまったく間違っていない。

そんなスタイルもまた、楽しい。



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手段や目的は多々あれど、旅先で必ず思うのはその地域での生活である。
もし自分がそこで生まれ育ったらという想像のもとで街中を見回す。

今日、明日、来週、どうやって生きていくかを考える。

視点が変わると新しい面白さが加わる。
知らないスーパーマーケットに自ら入って行って野菜の産地や値段を見たり、はじめて見るブランドの味噌や醤油を見つけたり(それも名物やお土産ではなくデイリーユースのレベルで)喫茶店やファミレス、コンビニで休憩しながら、地元の若者達の学校の話やおばちゃんの会話に聞き耳を立てたりもした。バスや電車はわざと変な駅で降りて歩いたりもした。


外だけでなく、夕方のローカルTVで流れる地域ニュースもまた楽しい。
小学生が警察署を見学したとか猪が出たとか収穫された果物が食べごろですとか、そういうどうでもいいニュース。

見慣れない地図に重ねられた天気予報。知らない地名

そこではどんな生活が営まれているのだろうねと巡らす想像。

出張族になってからはさらに観光コースから大きく外れた地域の様々な景色と生活を垣間見ることができたし、なにより移動中のFMラジオから飛び込んでくる、より地域密着型の情報に身を任せて楽しむことができた。


結局、人は自分の住む小さな世界から離れたところの事など何も見えていないし、東京にあるわずか5局のTV局から日本中あまねくフラットに向けられたほんの短い時間から得られる情報になど何の価値もないということをはっきり理解する。

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日本はどこまで行っても似たような郊外が広がってしまっていると言われる。
4大コンビニがあり、飲食チェーン店とイオン、そして蔦屋。
いわゆるロードサイド店舗が連なることによる均一化。
だからつまらないという。

たしかにそうでないとは言い切れないところはあるのだけど
実際に足を運べば、非観光地であってもやはり地域独特の気配のようなものをまだまだ容易には消せないということを、知っている人は知っているのだ。


駅を中心とした同心円の中に有るのは、外向きの街であり客向けの街。
もてなす為に構築された楽しさには素直に真摯に向き合う。

その円の外に広がる世界にアクセスできると、旅の楽しみは深みを増す。
それが第二段階。


さらに踏み込んで、今度はそこの人々の心の中を旅する。

それはある種の難易度を伴うのだけど、その先を見たくて
僕は出会った人々に積極的に話しかけてしまう。

観光客であると言ってもいいし、出張で定期的に来ていると言ってもいい。親戚が近くに住んでいて昔よく来ていたとか
本当のことでも良いし、嘘でもいい。自分の身分を明かす。

飲み屋だったら大抵の人々の心は既に開いている。
相手が喜ぶような面白話から質問に持ち込み、外からは見えない世界の景色を聞かせてもらう。

気分を害さない程度の最低限の常識は必要だが、ステレオタイプな地域観はやはり盛り上がりやすい。そのままかもしれないし、そうではないと熱弁してくれたりする。

気づいたら仲良くなった常連さんと一緒に二件目三件目と飲み歩いたりしていることもしばしばだった。

その先々で新しい人々に出会い、知り、満たされてゆく。

街も建物も文化も人によって作られているただの入れ物に過ぎないので
その中身である人間と触れ合わないのは本当に勿体無い、というのが僕の意見。

たどり着く事それ自体に意味が有る秘境や山ならまだしも、普通に行ける街や空間をただ見るだけだったら時間や天候に左右されない分インターネット上のほうがよほど良い。


だから僕は外国でもこれをやるのだけど、多くの人に危ないからやめろといわれる。
分かる。たぶん危ないと思う。今後も辞めるつもりはないけれど。


このスタイルは旅を浴びるという言葉がぴったりだと思った。
そして僕の友人達で楽しい旅をしている人たちはやはり旅を浴びているように見える。

そうして浴びてきた旅たちは自分の中に吸い込まれて蓄積されて
その後の人生で誰かとのコミュニケーションツールとなるし
何かのきっかけになったり知識そのものになったりする。

だからいつか、どこからか来た旅人には同じようにしてあげたいなと僕は思う。


「狭い日本 そんなに急いで どこへ行く」


もし本当にそう思っている人が居たら
あまりにも滑稽で、そして可哀想だ。

TVやネットの中でだけ世界を見て、メルカトル図法の地図しか頭に描けない古い思考の産物だとおもう。

この国は広い。

急がなければたどり着けない沢山の場所と文化と人がある。

残りの人生であとどれくらい旅が出来るか、そもそもそんな時代が帰ってくるのか。

その時に、街と人と文化が生き残っていて欲しいと願ってやまない。

いつか本当に日本中が埼玉の郊外みたいになったとしても

そこに住む人たちは別々の過去と歴史と文化を心に育てているだろう。

いまここに住んでいる自分も、そうありたい。


未来の誰かに旅を浴びさせる為に。

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