人を見下して留飲を下げる人々も、本当は善人であってほしい。
TVを見なくなって久しい。
何を見てもCMへの前振りにしか見えなくなってしまい
純粋に楽しめなくなっている。
実際そうなのだが。
映画や演劇はそれを見たい人がそこにお金を払うが
TVはやはり広告が主であるので、名作と呼ばれるドラマは多数あれど結局は毎週クリフハンガーして広告を見てもらうことが目的。
そのCM達を見ていると、生理用品、大人用おむつ、関節の薬。
ターゲットは明確だ。
今日、部屋を掃除しながらたまたま点けていた番組でこんなことがあった。
路上で若い女性を捕まえて、料理を作らせる。天津飯。
が、いきなりここで作れと言われても当然うまくいかないので老いた男性のナレーションがそこに悪態をつく。
その口ぶりといったら不愉快の極みだ。
彼女らだって本当に必要な時はレシピを調べるだろう。
携帯で簡単に、動画付きで、コツまで教えてくれる。
誰かに食べさせる時は、その人に喜んでもらいたくて、調べて、練習して、きちんと作るだろう。
TVでオヤジたちの笑いものになるためだけに敢えてそれを見ずに作る料理など存在が完全に無意味だ。
しかしこんな番組、作るほうも作るほうだが見るほうも見るほうだ。
結局のところ若者を、女性を、見下して気分が良いのだろう。
そこに快楽を得て、毎週チャンネルを合わせ、広告を見てくれる人がいるからずっと続いている。
これをみて喜ぶような人々がこの世に、TV番組を成り立たせるくらいの数存在しているという事実が自分には耐えがたい苦痛だ。
その後も、自治体の失政に市民の声などと称して
「役所の人は浅はかですよね」
「税金の無駄遣い」
「もっと良いやり方があったはず」
内容の是非はともかく、こんな強い言葉を拾う必然性はあっただろうか。
専門でも何でもない普通の人が、充分な調査も検証もしていない普通の人が、言い返すことのない存在(そこに存在していないのだから)に対し一方的に好き放題なことを言う。
これは見ていて気持ちいいと感じる人もいるだろう。
このような人間に多数出会ってきたからわかる。
知識と見識が充分にあればああいった表現にはならない。
状況を把握し、自分が認識した問題点と、どうあるべきだったかをきちんと並べて話す。
だがそれができずに、感情的な〇×論にもっていくことしか出来ない人たちはいるのだ。
こんな居酒屋の親父の一人語りや、毎朝ごみ捨て場に集まる主婦の井戸端会議レベルの内容を、見たいから見る人たちが番組を三十年も成り立たせるくらい存在している。
僕は基本的に性善説を信じている。
人は本質的には善だが、何らかの事情により悪事に手を染めなければならなかった。
何らかの事情により、性格が歪んでしまった。
何らかの事情により、人の悪口で自分の精神を保つようになってしまった。
何らかの事情により、礼儀正しくいることができなくなってしまった。
何らかの事情により。
どうか、こちら側に戻ってきてはくれないだろうか。
どうか、人を信じさせてはくれないだろうか。
どうか、悪に染まらないではくれないだろうか。
どうか、人を憎まずに生きてはくれないだろうか。
どうか。
どうかこの世界をもう少し美しいものだと、教えてくれないだろうか。
そう思って、僕はテレビを消した。
目に見えなければ、それは存在しないのと同じだ。
掃除が進まずに汚いままのこの部屋は、静寂と共に美しさを取り戻した。
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