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随筆3

小説は良い。念願の読破冊数が15冊にも満たない私が言ってもまるで説得力は無いが、とにかく良い。

嫉妬するような美しい文章に出会うときも、誰かの人生の代弁をしているかのような壮大さを秘めている文章に触れるときも、とにかく美味しい。美味しい文章を食べている者は美味しい言葉を吐ける、私はそう信じている。
ので、自分の好かない人間のエッセイ本などを食べた時には頭の真ん中が腐ったような心地になる。だって、食べたものでからだは出来ているし、食べたものしか吐けない。

「コーヒーを舌で転がす」という表現を一番初めに思いついたのは、いったい誰なんだろう。今これを書いている私もコーヒーを飲んでいるが、全く転がすことができない。熱い時なら尚更、舌全体を焦がしながら早々に喉をつたって行ってしまう。ただ、カフェイン摂取もこんな言い方をされると幾らか品があるように思う。そうだ私は品のある女性になりたい。これからは、コーヒーでも酒でも舌で転がせるような上品さを身につけていきたいものだと、改めて思い知ることができた。ありがとう小説、という気持ちになる。

文章を食べる、みたいな話をしたかったのだけれど、いかんせんあまり食べていないのでうまく話すことができない。
文章や言葉の意味では、漫画もめちゃくちゃ美味しく感じる瞬間がある。絶品の漫画には、時として、小説やエッセイよりも味濃く美味い文章が載っていることもある。漫画特有の、食べさせるまでの雰囲気作りというか、作者の意図する文字の額面が、絵柄や間の使い方でただの文字より伝わりやすいように思う。
ただそれ故に、ジャンキーだなとも思う瞬間がある。「こんなん泣いてしまうやろ」「こんなん言われてみたいわ」「これは最高」と10人中10人が思ってしまうようでは、なんというか、高カロリーすぎないか。
さらに、漫画ばかりを食べている人はそこまで注力して言葉を見ることなど出来ていないんじゃ無いか、という偏見もある。漫画の麻薬的な美味しさに取り憑かれて黙々と摂取していく、それこそ文字通りのジャンキーになってしまっているのでは、なんて邪推は、ここら辺にしておくか。

全員が美味しいと感じるものよりも、自分だけが美味と思っている、または、少しの人間に認められている別の料理の方が、私には特別で、大切である。きっとみんなもそうだ。と思いたい。
他に影響されず自分の価値観を強く信じれる人間はまじで強い。「俺が良いと思ったものはどんなものであろうと良い」あなたがそんなふうに生きていると胸を張って言えるのなら、敬服だ。弟子にしてほしい。私は、みんなが美味しいと口を揃えて言うものは何か麻薬的な毒が入っているのだと思ってしまう。
これと同じことが文学作品や芸術や、時には人間関係にも言えたりするんじゃないかな、なんてぼんやりと考えている。

「若い奴はすぐ人生とは!人とは!とか大きな主語を使って語りたがる」と言われたことがある。きっと、いつになっても私は、そんな大きな主語を使った文章は、断定し主張することはできない気がする。だから今も、大きい主語を使ってどんどん調理していこうと思う。

あと多分、食べ過ぎも良くない、腹が減っていないと純粋に美味しさを感じられなくなる。悔しい。一生分に食べられるものの分量は決まっている。なるべく美味しいものだけ食べたい。でも、不味さを知っていなければ、その美味しさのほんとうの価値はわからないだろうか。まあ良いか、考えすぎるのは毒だし。

そういえば、私はコーヒーを飲む時底に砂糖を沈澱させたまま飲むのが好きだ。
すっかり冷たくなった残り少ないコーヒーはなんとも言えない甘さで、少しだけ私の舌を転げた、ような気がしている。

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