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暴力的な父親と道具化された司法制度         DV被害者Sandra C, Aurélie, Émilie, Sandra J, Julie et Manueの証言。

⚠️注意⚠️
こちらの記事には、DV被害者の証言が多く含まれています。気分を害する表現が多く含まれているので、事前にお知らせします。フラッシュバックの危険性がとても高い記事です。DV被害者の方は注意してお読みください。

1. Sandra Cの証言 

私の名前はサンドラです。17歳、14歳、13歳の子どもがいる2男1女の母親です。結婚して17年目、2018年11月に夫の浮気が発覚しました。すぐに彼への信頼はなくなりました。しかし夫は浮気を続けながら、私に、浮気相手の女性はどうでもいいと言うのです。

私は明言します。結婚してからずっと誠実に努めていました。子どもたちの学校、スポーツ、友達付き合い、趣味を全てサポートしていました。そして夜勤で看護師の仕事もしていました。夫が夜勤の時は、私が日中、家にいて、疲れているなど言えませんでした。また、

夫は子どもの友達付き合いに協力することはありませんでした。しかし夫にはいつも彼の友人を訪ねる時間があったのです。私は、服装や化粧、髪型など、何もまともにできなかったことを理解してほしいと思います。

それから夫は常に私を小馬鹿にし続けました。口論になると、手が出ることもありました。突き飛ばしたり、服を引っ張ったり、通りがかりにネックレスを壊されたこともありましたね。

いわゆる強制性交もありました。私はこれをレイプだと思っているので、話すのは、難しいです。今回、初めてお話しします。私のケースは、告訴することができませんでした。言った言わないの話になるからです。

そして、新生活をスタートさせた2018年末には、ますます傷つき、暴力を振るうようになった。

そのような生活を続けていた2018年の末、夫はますます暴力を振るうようになっていました。

これが原因で私は、2019年1月に重度のうつ病に陥り、2カ月で16キロ、体重が減りました。私は入院することにしました、なぜなら悪い考えが思い浮かぶようになっていたからです。

モラハラや身体的なDVは増すばかりでした。

ある日、子どもたちがスポーツをしに出かけている時、夫は酒を飲んでいて、車を運転しようとしました。彼は私を壁に激しく押しつけ、侮辱し、自分の好きなようにしていいんだと言ったのです。これは2019年3月、私が治療中の週末のことでした。

その次の週末、夫はぶちギレてしまい、息子たちのPSコンソールを2つ掴むと壁やサッシにぶつけ、息子たちの目の前でそれを床に投げつけ、ばらばらに壊しました。夫はさらに家のサッシと息子たちの部屋も壊してしまったのです。

私は家を出る気力もありませんでした。夫は定期的に夜、不在になります。私にとって何より大切な子供たちを見捨てたくもありませんでした。

それから、私は夫の不貞行為を告げる謎の手紙を受け取りました。そのことを話そうとすると、夫は車で逃げようとしました。私が車のキーを取りあげると、夫は私をつかんで外へ出ると、道路に私を引きずりまわしたのです。夫は子供たちに「お母さんが悪い」と言いました。私は、(警察か憲兵に)匿名の手紙を書き、夫の暴力について苦情を申し立てました。

家族から過ちだよと言われたので、まだ告訴にまでは至っていません。それゆえ、粘着する夫と彼が起こす激情に今も苦しんでいます。また子供の世話は私が続けています。夫ではありません。

私は、夫が自分自身を守るため、または真実が明るみになるのを防ぐために、私や子供たちについた嘘もすべて列挙することができます。

2019年、子どもたちの学校が始まる前日、夫は家を出て行きました。 そこで私は、離婚の手続きとその他諸々の手続きも開始しました。

当初、私は、夫が毎日曜日に子どもたちに会い、家に食事に来ることも受け入れました。次に、離婚手続きに移るのですが、2020年5月、子どもの監護の在り方と養育費で調停が不成立となりました。

ONC(調停不成立証明書) には、6か月間、ためしに、3回のうち1回だけ週末を過ごすこと、夫が引っ越す時は書留で受領通知をしなければならないことが明記されていました。夫は決まって監護権を行使せずに、引っ越しもしてしまいました。

子どもたちは、父親の新しいパートナーに会いたくなく、父親との関係は緊迫していました。

夫は数ヶ月間、私に新しい住所を教えることを拒否していました。そして子供を預かりませんでした。その後、私は2020年8月に、監護のスケジュールを立てました。

スケジュールは、土曜日の午後3時半から日曜日の午後6時までにしました。夫は時間に厳しくないので、ONC には当初「1時間でも遅れたら子どもの監護を放棄する」と指定しました。

夫はしばしば、夕方5時ごろに子どもを迎えに来て、帰すのは夜の7~8時、または夕方4時ごろに戻すこともありました。時間管理がめちゃくちゃでした。

10月のことです。午後5時半になっても夫が迎えに来ず、子どもたちも父親の家に行きたがらないので、私がONC に従い、夫が子どもの監護権を放棄したことを伝えるメッセージを送りました。

30分後、夫は激怒しながらやってきました。私が玄関から外に出ると夫は「家のもの全部壊して、子供と一緒に出ていく。こんな家どうなってもいい」と言いました。私は夫が家に入るのを阻止しようとしました。夫は私を荒々しく掴んで玄関ドアに押し付けました。そして夫は、私の手をドアから離そうとしました。

私の体が玄関ドアの窓部分に打ちつけられているのを見て、娘が悲鳴をあげ、消防隊を呼んでくれました。長男が仲に割って入ろうと下に降りてきたのですが、私はその時、恐ろしい夫の表情を見てしまいました。

私は憲兵を呼ぶために夫から逃げ出しました。夫は家の廊下にいて、長男がそれ以上入らないように廊下で待ち構えていました。

憲兵が到着すると、私は家から出るように言われました。しかし、私はすぐに告訴するつもりはなかったので、夫を家から追い出してもらいました。

次の日、私は医者に見てもらい、憲兵に苦情を申し立てたのですが、憲兵からは「これは取り下げになります」と言われたのです。

一ヶ月後、子供たちが聞いてきました。夫が、その時子供たちは部屋にいて、自分は家に入っていないと言っているのを。私は家にやってきた同じ憲兵に会い、私は「誰が雨の中外にいてと頼んだのですか?そしてあの夫、夫はどこにいましたか?」しかし、その憲兵からも同じように「この件は取り下げになります」と再度言われたのです。

事件から1年後の2021年11月、私の申し立ては軽罪裁判所で審理されることが明らかになります。司法手続きにとても時間がかかります。

これが、ざっとまとめた私の経験談です。私の証言がお役に立てれば幸いです。

2. Aurélie M.の証言

私は、2018年10月、この男性に出会いました。

そしてすぐに妊娠しました。私は重度のひどい子宮内膜症と子宮腺筋症、子宮筋腫を10年以上患い、診察を受けています。自然に子供を授かることができませんでした。自分で妊娠検査薬で確認した後すぐに、妊娠を確認するため、かかっている診療所に予約を入れました。その時、この男性は何も言わず、私に中絶するよう説得しました。診療を受けている時、婦人科医から「子宮の中で卵子が着床しているなんて驚きです」「間違いなく母親になれる唯一のチャンスであると思いますが、子宮の状態を考えると浮かれてはいけません。この妊娠を継続できる可能性は低いんですよ」と言われました。私は男性に、婦人科医師の話を聞いて、子供を産むことを考えていると電話で告げました。

私はこの男性に、あなたが子どもを望んでいないのを私は理解していること、現在の多くの女性がしているように、私は自分で育てようと思っていることを伝えました。

その後、4時間に渡り、電話での話し合いが行われました。その中で、彼はあらゆることを試みました。私を落ち着かせようとしたり、恐喝したり、最終的には「クソが、勘弁してくれよ、ガキのお前が子供は育てられるわけないだろ、最悪の結末を望むよ、おまえムカつくんじゃ」と侮辱されました。私はショックで泣きながら父に電話しました。数日後、男性から謝罪の電話があり、私はバカ素直に彼を許してしまいました。

法的に有効な間、彼は決して立場をはっきりとせず、ある時は妊娠に賛成し、ある時は反対しました。彼は何時間も私が子どもを持つことを思いとどまらせるように悩ませました。毎週末、同じことが繰り返され、彼から変わらず洗脳され続け、嫌がらせをされていました。法的な有効な期限が過ぎると、彼は妊娠を受け入れるようなふりをしました。しかし、私を犬のように扱い続けもしました。

私と彼は、週末だけ一緒に過ごしました。なぜなら彼は仕事で不在にするからです。私たちの単調な日々は何時間も続き、私は自ずと唯一一人になれる風呂場の床で縮こまって泣くようになりました。私が週に4回の通院して、2回は助産師さんが家に待機していたのにもかかわらず、彼には「ハイリスク出産を装っている」と言われ続けました。彼は妊婦健診に同行することもありませんでした。

妊娠5ヶ月になると私は寝たきりになってしまったので、母と一緒に暮らすことにしたのですが、彼は家に来ても何も手伝おうとしませんでした。母のところにいる間でも、彼は何時間も電話で嫌がらせをし続け、私の出生届の提出の仕方で父子関係を危うくなるかもしれないくらいになりました。私は彼に、もし子供が欲しくないのなら......わかりました、もう何も求めません、と告げました。

妊娠6ヶ月に入ると陣痛の回数がどんどん増え、早産や出血の危険があると思い、とても不安でした。私は最終的に悟りの境地にはいり、全てを受け入れ、出産準備も一人で行い、彼は何もしたがらず、そして私に買い揃える物が本当に必要な物かどうかひっきりなしに聞き続けたので、彼に頼むことはあきらめました。

妊娠7ヶ月で私は緊急出産しました。医師は赤ちゃんを自然分娩させることができませんでした。子宮筋腫が子宮口に硬い栓を形成しいて、子宮が収縮するたびに赤ちゃんを窒息していたのです。私が出血している間に赤ちゃんは直接取り出されました。「父親」は医師の「作業着」を貸してもらったからと待合室で自撮りしていました…。

入院中、彼はよく見舞いに来てくれましたが、何も労ってしてくれませんでした。清潔な服や食べ物を持ってきてくれたのは両親で、私は完全に衰弱してしまいました。私は疲れ果て、子宮に炎症を起こしてしまいました。ある晩、赤ちゃんがいる病室で、出産を担当した婦人科医師の冗談に私が笑ったのを、彼はひどく怒り、荒々しく立ち上がると「ここを出たらわかるからな」と言いました。その時、私は自分を恐れるのではなく、彼が保育器を押し倒して、赤ちゃんを落とすのではないかと怖かったです。

車で通院している時、彼は大声を出してダッシュボードを叩き始めました。そして、私が通っている産後の親子ための施設の前で私を車から追い出すと、さっさと帰っていきました。1ヵ月後、赤ちゃんが退院できるまで、私たちは離れて暮らすことにしました。

この1ヶ月の間も、彼は私の行動について保育士さんにクレームを言うだけで、彼はソーシャルワーカーに会いたいと求めました。超未熟児はとても繊細なので、非常に注意深く私が観察されていて、その事で話し合いが行われました。ソーシャルワーカーに向かって、彼は「彼女にはこの子の面倒を見る能力がないと思う」と言いました。そして私に電話をかけてくると、「もしあなたがいい人でなければ、赤ちゃんは取り上げられて、児相に預けられることになるので注意してください」と言ったのです。彼は監護を望んでいませんでした。幸いなことに、ソーシャルワーカーがこれに気づいていて、私は手続きされることはありませんでした。

ひどいひと月でした。肉体的にも疲労がたまり、最初、理解できなかった保育士の指導に、私はもう耐え切れなくなっていました。ある日、私の息子が赤ちゃんの時、同室だった赤ちゃんの母親が、私が夜中まで彼から攻撃されて精神的にギリギリのところまできているのを知ると、息子の父親が陰で何をしているのか教えてくれました。

私が赤ちゃんが退院した時、彼から数日間連絡がありませんでした。残念ですが、私が彼を呼び出しました。彼は赤ちゃんを家に連れていくことを拒否していました(私は彼の家に行ったことがありませんでした...)。

私は父に頼んで、彼の家がある町、ポート・リューカテで、別荘を借りてもらい、彼に息子と会わせることにしました。彼は週末になると私を訪ねてきて、いつも毒を振り撒いていました。彼は何も手伝ってくれず、自分は週末まで働いているのだから、私に金曜日は料理を作らなければならないと言いました。しかし、赤ちゃんのための金銭的な負担は拒み続けました。

私は身体的にも精神的にもひどい状態でした。赤ちゃんは眠らず、よくおう吐して、母乳をうけつけないことが後から判明し、1日20時間泣き続けていました。眠れず、その上、彼から私の悪口を言われて、我慢しなければなりませんでした。

私は10月に新しくアパートが見つけました。彼に、赤ちゃんに興味がないことや、私への接し方が耐えられないので、関係を終わらせたいと告げると、彼は子羊のように優しくなり、私の新しいアパートで一緒に暮らしたいと言ってきました。私は、ものすごく不安がありましたが「いいよ」と答えました。同居して数日間、同じことで何度も言い争いをしました。彼に私は肩で思い切り小突かれ、恐れてしまった私は、赤ちゃんの横に座ると、彼が家を出ていくのを待ちました。

私たちは12月に再度、同棲を試みてみました。クリスマス休暇の時です。彼の長男はいたのですが、私は食事をとることを断りました。私がくたくたに疲れているのに何もしない彼にうんざりしていたのです。それに彼の長男の世話も全てしなければなりませんでした。私が食事を断ると、彼は私の顔に向かってルームシューズを投げつけました。私は、赤ちゃんと、私と彼の距離を少し開けたかったのでテラスに出ました。そこで、彼は私を何度も激しく突き飛ばしました。私は自分を落ち着かせる為に数分間、風呂場に逃げました。、とても怖かったです。二人の子供も現場にいました。リビングに戻ると私は出窓に押しつけられ、首を絞められました。目の前の赤ん坊はわんわん泣いていました。上の子に助けを呼ぶと彼を脅すと、やっと離してくれました。彼は寝室にいる長男を探しながら「私たちは出て行くよ。ここでは歓迎されないから。彼女は欲しい物を手に入れたんだって。私はこの子いらないと思う。」と叫びました。私は赤ちゃんを抱っこして、ソファーに座ると、彼と長男が家から出ていくのを待ちました。彼は家から出ていく前に、再び私の顔にルームシューズを投げつける仕草をしました。私は彼の長男と私が抱っこしている赤ちゃんをちらっと見ました。幸いなことに彼は投げなかったです。私は母の家に非難することにしました。彼は私の家の鍵を持っていて、戻ってくるのではないかと怖かったからです。

ある夜のことです。彼から何度も電話がかかってきました。私が無視していたところ、彼は「長男の面倒を見ることができない」というメッセージを残しました。私は彼の子供が心配だったので、彼を落ち着かせるために電話をしました。罪悪感もありましたし、すべて自分のせいだと思ったのです。数週間後、私は彼を許しましたが、やはり恐怖はありました。そこで、自分のアパートで会うのを避け、会わないように理由を探していました。ロックダウンが知らされたので、私はとても安堵しました。この期間に彼から離れられるので、体力が回復するだろうと思っていたのです。しかし、そうではありませんでした。

5月中旬に再び彼との生活を始めましたが、彼は赤ちゃんの世話を拒否し続け、常に訳のわからない言い訳をしては、ついに赤ちゃんが呼吸不全に陥った時に、救急病院に同行するのさえ拒否するまでに至りました。彼は止まることなく私を侮辱し続け、何時間にも渡って電話を続けました。この時には、彼は私をキチガイ呼ばわりし、「お前、キチガイなんだよ。お前が叫んでるの、見ろ 。注意しとけよ、録音してやるから 」と言いました。

私は、実際、自分がおかしくなりつつあるのかなと思いました。私は6月からEMDRセラピーを受け始めました。夏の終わり頃、突然私は「もうあなたが私にやっていることは受け入れない」と抵抗するようになりました。自分が出かけることに正当化することをやめて、彼の許可も得ずに飲みに出かけるようになりました。彼が圧力をかけ始めたら、すぐに電話を切っていました。私は自分の要求に毅然とした態度でのぞみ、もう自分が操られないように、何度も何度も同じことを繰り返しました。

2~3週間すると、彼の圧力が上がっているのがわかりました。彼は私のソーシャルネットワークを丹念に調べました。彼は私が電話に出ないと私の家にやってきました。ある夜には、私が友人と飲みに行っていると、私の母に電話をかけ、私の居場所を聞き、私のことを「やるために出かけた売春婦」と言っていました。

数日後、彼が私の家に来たので、飲みに行こうと誘いました。すると彼は「男を探しに飲みに行きたいんだろ」と言い出したので、「言い争うつもりはありません。一緒に行きたくないなら、一人で行くわ」と言いました。彼はとても攻撃的になり、私の手から携帯電話を引ったくると、携帯の中を調べるために私の暗証番号を聞きました。私がそれに拒否して携帯電話を取り返そうとすると、彼は私の腕を掴んで携帯電話を取り返し、私が床に叩きつけたのです。彼が落ち着いたので、私は立ち上がり、テーブルから私の携帯電話を取りあげると、彼の視線を避けるように震えながらそれを見ました。彼は、私が携帯電話を見ているのにきづくと、より激しく再び携帯電話を取り上げました。

隣人に会いに私のアパートに戻ろうとすると、また何度も小突かれ、突き飛ばされた時には転んでしまいました。私は箒を手に取り、彼の足を打ち付けて、引き下がらせようとしました。私は泣いていて、息が苦しくなっていました。私はパニックになっていて、答えられませんでした。そして、リビングのソファまで、這って進むと、彼に「病院に連れて行ってください」と頼みました。彼は私に「復讐のために病院に行きたいんだろう」と言いました。私は彼に「そんなことない」と答え、「『階段から落ちた』と嘘をつくから」と答えました。彼は私を病院に連れて行くことを承諾し、私は医者に嘘をつきました。彼は私の家に私を連れて帰り、私のソファで寝ました。

朝、目を開けると、彼が私のベッドの前で腕を組み仁王立ちで立っていました。私はパニックになり、起き上がろうとしましたが、体が痛くて起きられませんでした。私は「息子のために解決策を見つけなければならない、私は立ち上がれない、(息子が週末に滞在していた)私の両親を呼んで助けてもらわなければならない」と伝えました。私は彼に「私の息子のために何とかしなければなりません。私は起き上がれないし、(息子が週末に滞在していた)私の両親を呼んで助けてもらわなければなりません」と伝えました。すると彼は再び、「今僕がかやの外にされたら、何の為に呼ばれたんだよ」と同じ言葉で、私を悩まし始めました。私は両親に連絡したいので、彼に家から出て行ってくれるよう懇願しました。

1週間に何度も、私は彼に電話をしました。彼は謝ってはくれましたが、これは自分だけの責任ではないと言い、私が息子の世話ができなくなり、そのため実家に身を寄せざるを得なくなったにもかかわらず、息子の面倒を見ることをきっぱり拒否しました。私はとても気分が悪く、ほとんど体が動かなかったし、電話での彼の冷淡さがさらに私の気持ちを悪くさせました。理不尽な中生きている気がしていました。

ある金曜日のことです。セラピストと電話で相談していると、彼女は私に「あなたには高い限界値があります。」と言われました。私は彼に電話をし、彼が私にしたことを受け入れないと告げました。すると彼は、「お前のせいで殴ったんだよ。付き合い始めた時から俺のせいにして、お前ずる賢いんだよ」と怒鳴りました。私は泣きながら電話を切り、翌日(2020年9月)、警察に苦情を申し立てました。

彼は司法に召還されました。

私は同時に、息子を守るため、家庭裁判所で急速審判を申し立てました。その後、3月に行われる聴取まで彼の音沙汰はありませんでした。しかし突然私は彼が9月までは隔週の日曜日の午前中、その後、全日、息子を預かることを要求していることを知ります。私の側からは、監視付き面会の要求していました。何度目か延期要請を経て、4月に家裁で裁判されることになりました。

私は、彼から暴力を振るわれたこと、彼がここ数ヶ月息子のことを知ろうとしなかったこと、今までも子どもに興味を示さなかったことを鑑みて、裁判官は彼を道徳的だと見なされないだろうと思っていました。しかし、その逆が起きたのです! 

裁判官は彼の女性弁護士が結論付けた彼の暴力に対する謝罪を評価しました。そして彼女に向かい「暴力は挑発的な態度ですね。しかしそれは妻の態度が問題だからです」そして裁判官は、もし彼が子どもの知らせを求めなかったり、会うことを求めなければ、それは別れようとしているのだと言ったのです。

裁判官は私が大げさであると言い、私と彼の交際期間中、彼は息子の面倒を見ていたとも言いました。そして裁判官は私に、彼と息子の絆を深めるために私が何をしていたのか尋ねながら、私に説教するのです。裁判官に正しくどのように答えたらいいのかわからず、完全に訳がわからなくなってしまいました。

しかし、家族や周囲の人から「彼は子育てに関係していない」という証言をもらっていました。私の訴状には、赤ちゃんがいるところでの暴力を受けていてもよく世話をしていたこと、妊娠中に受けた精神的な暴力についても書かれていました。彼は彼の子どもの分しか証言を得ていませんでした。私の子どもに対して何もありませんでした。誰も知らないのは明らかでした。

5月4日、裁判官の命令が発行されて、私の子供の面前で暴力が行われたことについて言及はされていませんが、私が訴えた危険性と憲兵に訴えを申し立てたことは認められました。5月16日、私はまだ執行官から裁判所命令を受け取っていなかったので、事務所には行きませんでした。彼は苦情を申し立てました。

5月30日、私は彼から、家裁に申し立てた裁判所命令を取り消すように操作されました。、次の週には、息子を児相に入れるように児童裁判所に申し立てを行うと脅されました。

6月6日:事務所に到着するや否や、彼は私が憲兵のところに行かせないように圧力をかけてきました。憲兵は、裁判所命令が受け渡しされることも、さらには、MA保護のためには憲兵のところに行かなければならないことも、まったく知りませんでした。

子供を会わせないことを理由とする父親の訴え

6月11日、彼は自分に向けられた2つの訴えに対して根拠を提示しながら、それを取り消すことを求めています。

3.Émilie Vの証言

4年間、私は交際を続けていました。最初、全てが素晴らしく、バラ色の人生だったのですが、1年経った頃、彼の様子が変わり始めました。彼は病気で、そのせいだろうと思っていたのですが、時間が過ぎても、これが続いていました。

精神的虐待は数ヶ月間行われました。、その後止むと、再び行われました。性的虐待も始まりました。私が15歳の時です。17歳6か月の時、私は望まぬ性行為で妊娠してしまいました。私はハイリスク妊婦でした。その時彼は再び私に暴言による暴力をしました。18歳の時、私はとびきりかわいい女の子を出産しました。しかし暴力はさらに悪化しました。最終的に、殴られたり、侮辱されたり、「太っているから食べるな」とまで言われました。

私は1回目のコロナによるステイホームの初めに別れました。(ステイホームによって私は彼の魔の手から逃れることができたのです)別れた後も彼の暴力は続きました。私に彼に対して何度も警察に助けを求めました。2ヶ月前、精神的暴力で告訴に訴えました。DVや夫婦間レイプでも告訴したかったのです。しかし警察から「無駄です」「手遅れです」と言われました。

家庭裁判所の裁判官は、私が提出した暴力の証拠にもかかわらず、娘に対する暴力の証拠はないと言いました。そして裁判官は、オーソドックスな監護を命じ、共同親権も継続されました。

今、彼と娘は1か月半会っていません。なぜなら生後20ヶ月を過ぎた頃から、娘が何度も「パパ、パチパチ」と言うからです。娘の小児科医が診断書を作成してくれたので、未成年に対する暴力で告訴しました。私は、児童福祉サービスとの面談を待っているところです。

4.Sandra Jの証言

私は元夫から何度もDV(殴る、平手打ち、首を絞めるなど)の受けていました。

2018年7月、私は苦情を申し立てました。これは受け付けられませんでしたが、夫の同僚の一人が彼に鉄パイプで殴打されたとすでに告訴していました。

夫の暴力は、私の5歳の子供のいるところで2回起こり、彼はまた、前妻の子供の前でも彼女に暴力をふるっていました。家庭裁判所は、子供の前で行われる暴力を取り上げませんでした。第二子が(生後1ヶ月)がいて、未熟児であることも考慮しなかったのです。また、裁判官は、彼が私と別れる直前にベルギーで、その時妊娠3カ月半の私に中絶を強要しようとしたことも、考慮しませんでした。私からすると、司法は子供のために最善なことがされていません。司法は自分たちが望むものを適用し、考慮に入れないものがあります。

元夫は赤ちゃんに対して、最初6ヶ月間は日曜日に4時間、次の6ヶ月間は午前9時から午後6時までという面会権を持っていました。現在はオーソドックスな監護をしています。上の子は、段階を踏まず、オーソドックスな監護になりました。私は生後2ヶ月の赤ん坊を元夫に預けなければならず、泣きながらスケジュール通りに受け渡ししていました。私の弁護士に依頼し、夏休みの監護を半分ではなく、4分の1にする紛争調停を申し立てました。昨年、彼は同意していました。しかし夏休みの1カ月前に元夫の気が変わりました。

裁判官は私の申し立てを退け、私が離婚手続きが終えていないことを咎めました。2017年10月に離婚を申請したのは元夫です。2018年4月、家裁の命令が夫に出されたのに、彼は離婚手続きを開始しませんでした。2019年、夫は計画があるわけでもなく、自宅で私に暴言を吐いて書類にサインさせていたのに、2020年1月に、私が手続きを開始することになりました。

夫が家を出ていって以来、彼は私に嫌がらせをするばかりで、絶え間なく批判メールを送ってきました。

子供たちは父親の家に行くのを拒否しています。私が子どもを迎えに行くと、上の子は部屋の隅っこで泣きながらぐったりしていて、下の子は悲鳴を上げていました...。

相手のことを気が狂ってるとみなしがちな人は存在します。そのために自己肯定感が低く、常に自分のせいだと思ってしまうんです...。最悪なのは、このタイプの人たちは、子どものことなど気にもかけず、子どもを通じて私たちを破滅させたいだけだいうことです。この種の人は、保護親にとって子供がすべてであると知っているので、それを利用するのです。

元夫は私と1時間以上離れて暮らしていますが、現在、彼は交代監護を求めています。


5.Julieの証言

私は7年間婚姻関係にありました。2人の子供がいます。一人目の出産後、元配偶者は言葉による暴力をするようになりました。彼は怒って大声を出し、物を壊すようになりました。二人目の妊娠中、元配偶者の言葉による暴力はますます激しくなりました。妊娠中、わたしよく泣いていたので、お腹の赤ちゃんの発育に影響が出るのではと心配でした。

子供が生まれてから、元配偶者による言葉の暴力は続き、ついに私は初めてビンタを食らってしまいました。

私は苦情を申し立てました。しかし憲兵は苦情を受け付けはしましたが、これは夫婦の問題であり、子供たちのために事をあらだてないほうがいいとも言われました。さらに、憲兵は、「配偶者の方があなたに他の男ができたから家を出たんだと言ってます。これは良くないですね。仲直りした方がいいですよ。」といいました。私は保護命令を申請しました。

私は家を出るために、保護命令を受けるのは2度目でした。

二度目の保護命令を申請している間に、配偶者は私の職場にやってきて、私を怒鳴りつけ、脅迫しました。私は同僚に連れられて警察署に行きました。すると警察官は私の訴えを受け付けずに、「配偶者の方に何も悪いところはなく、被害届を出すだけですね」と言ったのです。保護命令は受け付けられませんでした。

5ヶ月経ったときのことです。別の警察官がとてもよくしてくれて、留守番電話に残されていた元配偶者の殺害予告や、色々した口論の録音を時間をとって記録してくれました。

家庭裁判所は、元配偶者に毎週水曜日と隔週木曜日のオーソドックスな監護を言い渡しました。

子供たちが言うには、二人のうち一人がトイレに行こうとすると、父親はイライラし、物を投げるそうです(子どもは3歳と5歳です)。それから父親は子どもに叱ってばかりで、1日中口をききません。

私は再び訴えを起こしました。元配偶者が夏休みに関する裁判所の審判を守らなかったからです。彼は火曜日の夕方に子供たちを迎えに来て、子供たちの前で侮辱、脅迫、暴力をふるいました。

私は子供たちを児童精神科に連れて行きたかったのですが(睡眠障害、言語障害など)、父親が拒否し、共同親権であるために、私は何もできません。

自分が無力に感じます。元配偶者は、私の人生の一部を破壊し、私に自信を失わせるだけでなく、子どもたちがすくすくと成長することを妨げてしまいます。

この暴力的な父親が、今、私の子どもたちにどんな手本を示していると思いますか?

保護命令が却下されて以来、元配偶者は無敵状態です。今のところ、彼は、私と子どもたちが遊ぶことを許してくれています。約束した時間の1時間前や1時間後に私に連絡もせず、子供を送り届けてきます。元配偶者は、子供のカバンの中に「プレゼント」も入れてくれるようになっています。最近あったのは、母の日や私の誕生日の数日前なのに、お酒(私はいつも食前酒)の空き瓶でした。

6.Manueの証言

1年半待った後、今年1月になってようやく、裁判所は私に隔週の週末と学校の休みの半分に子どもと会える権利を認めてくれました。多くの人にとってこれで既に十分と思われるでしょうが、私にとってはそうではありません。

私の元パートナーは暴力的な人で、息子を誘拐してしまい、私は1年間息子と会えなくなってしまいました。元パートナーがどこにいるのかもわかりませんでした。さらに、婚姻期間中、私は元パートナーから身体的・精神的暴力を受けていました。それにもかかわらず、子供の主たる監護者は元パートナーです。私は息子を取り戻すために戦いました。ハンガーストライキをやり、苦情も申し立てました。残念ですが、私の訴えは取り上げられませんでした。

裁判所も警察も憲兵も社会福祉サービスも、元パートナーの身体的暴力から私を保護してくれませんでした。私は彼らに私が恐れていること、殺害の可能性があり恐怖があることも伝えましたが、私が彼らから受け取ったのは「はい」だけで、具体的な動きはなされませんでした。

今現在も息子の父親から嫌がらせを受けています。侮辱されたり、脅迫されたり、自殺しろというメッセージを受けてもいます。そして、裁判所、警察、憲兵、社会福祉サービスは何かしてくれるか?というと何もありません。何もしてくれないんです。

しかし、私たたに何が訪れますか?ま女性ゆえの殺害ですか?もう一人増やしたいですか?

現在、たとえ家族の中での私という全存在が崩壊したとしても、私は「生きているという感覚を得る為の」セラピーに通うことを義務付けられています。私の小さな娘、サラ(6歳)は、「たまに」しか母親に会いません。全ての状況下で私は病気になってしまったので、娘を父親に託すしか方法がないのです。

さらに私は、精神科に2回入院し(計8ヶ月)、自殺未遂をしたことがあります。

2021年6月25日、この金曜日ですが、週末に限り、息子のカシムを迎えに行く予定です。彼は確かにまた大きくなり、変わっていました。公開教育活動(AEMO)の一環で息子を訪ねたソーシャルワーカーは、息子が言葉を話さなくて、それは年齢的に異常であることに気づきました。子供を返してほしいです。どうすれば私の話を聞いてもらえるかわかりません。人にどう思われても、どう言われても、私は2度目のハンガーストライキを行う予定です。裁判所や憲兵、社会福祉サービスが何もしないのなら、私は食べることを拒否します。私はこの危険な男性と私の子供を一緒にいさせたくありません。

私を支援してくださっている皆様に、心から感謝いたします。なぜなら、皆さんが私の苦悩や母親の苦しみを理解してくださるおかげで、全世界に向けて私が耐えていることを発信できるようになったからです。

いいえ、私は黙りません。なぜなら私が経験していることは、誰にでも起こりうることだからです。

理解してくださり、また、理解してくださらなくても、応援してくださり、また、応援してくださらなくても、読んでいただきありがとうございます。

生後20ヶ月の息子カシムを母親のもとに返すために、私の戦いは、あなたのためにでもあるのです......私はあきらめません。


参照


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