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皆伝 現代文 読解10 読解力 地力を伸ばす方法

春休み、夏休みなどに短期集中してではなくて、普段からしましょう。
小論文の力を付ける訓練にもなります。

⓪二回読み

本番では一回ですが、練習段階では問題文を二回読んでみる。

二回目は話の展開、先がわかっていて読むことになります。「しかし」があるから、次は逆のことを言おうとしている、「例えば」があるから、次はたとえ話をしようとしているということを理解、意識しながら読むことができます。つまり、構成を意識しながら読む体験をできます。慣れて来ると、一回目に読むときに構成を意識しながら読める力がつきます。あくまで構造を理解しながら読む体験のためなので、本番ではこれはできませんけどね。

訓練1


 大抵のイズムとか主義とかいうものは無数の事実を几帳面な男が束にして頭の抽出しへ入れやすいようにこしらえてくれたものである。一まとめにきちりと片付いている代りには、出すのが臆劫になったり、解くのに手数がかかったりするので、いざという場合には間に合わない事が多い。大抵のイズムはこの点において、実生活上の行為を直接に支配するために作られたる指南車というよりは、吾人の知識欲を充たすための統一函である。文章ではなくって字引である。
 同時に多くのイズムは、零砕の類例が、比較的緻密な頭脳に濾過されて凝結した時に取る一種の形である。形といわんよりはむしろ輪廓である。中味のないものである。中味を棄てて輪廓だけを畳み込むのは、天保銭を脊負う代りに紙幣を懐にすると同じく小さな人間として軽便だからである。
 この意味においてイズムは会社の決算報告に比較すべきものである。更に生徒の学年成績に匹敵すべきものである。僅か一行の数字の裏面に、僅か二位の得点の背景に殆どありのままには繰返しがたき、多くの時と事と人間と、その人間の努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。
 従ってイズムは既に経過せる事実を土台として成立するものである。過去を総束するものである。経験の歴史を簡略にするものである。与えられたる事実の輪廓である。型である。この型を以て未来に臨むのは、天の展開する未来の内容を、人の頭でこしらえた器に盛終せようと、あらかじめ待ち設けると一般である。器械的な自然界の現象のうち、尤も単調な重複を厭わざるものには、すぐこの型を応用して実生活の便宜を計る事が出来るかも知れない。科学者の研究が未来に反射するというのはこのためである。しかし人間精神上の生活において、吾人がもし一イズムに支配されんとするとき、吾人は直に与えられたる輪廓のために生存するの苦痛を感ずるものである。単に与えられたる輪廓の方便として生存するのは、形骸のために器械の用をなすと一般だからである。その時わが精神の発展が自個天然の法則にしたがって、自己に真実なる輪廓を、自らと自らに付与し得ざる屈辱を憤る事さえある。
 精神がこの屈辱を感ずるとき、吾人はこれを過去の輪廓がまさに崩れんとする前兆と見る。未来に引き延ばしがたきものを引き延ばして無理にあるいは盲目的に利用せんとしたる罪過と見る。
 過去はこれらのイズムに因って支配せられたるが故に、これからもまたこのイズムに支配せられざるべからずと臆断して、一短期の過程より得たる輪廓を胸に蔵して、凡てを断ぜんとするものは、升を抱いて高さを計り、かねて長さを量らんとするが如き暴挙である。
 自然主義なるものが起って既に五、六年になる。これを口にする人は皆それぞれの根拠あっての事と思う。わが知る限りにおいては、またわが了解し得たる限りにおいては(了解し得ざる論議は暫く措いて)必ずしも非難すべき点ばかりはない。けれども自然主義もまた一つのイズムである。人生上芸術上、ともに一種の因果によって、西洋に発展した歴史の断面を、輪廓にして舶載した品物である。吾人がこの輪廓の中味を充じんするために生きているのでない事は明らかである。吾人の活力発展の内容が、自然にこの輪廓を描いた時、始めて自然主義に意義が生ずるのである。
 一般の世間は自然主義を嫌っている。自然主義者はこれを永久の真理の如くにいいなして吾人生活の全面に渉って強しいんとしつつある。自然主義者にして今少し手強く、また今少し根気よく猛進したなら、自ら覆るの未来を早めつつある事に気がつくだろう。人生の全局面を蔽う大輪廓を描いて、未来をその中に追い込もうとするよりも、茫漠たる輪廓中の一小片を堅固に把持して、其処に自然主義の恒久を認識してもらう方が彼らのために得策ではなかろうかと思う。

((夏目漱石 「文明論集」 著作権切れ)

すぐに二回目の読みをしましょう。

二回読んだら、流れも構造も内容も一回目より理解できるようになったと思います。他の文章でもそうやって二回読みをしていくと、一回読んだ段階で理解できるようになっていくと思います。

訓練2


私はかつて或る所で頼まれて講演した時、「日本現代の開化」という題で話しました。今日は題はない。分らなかったから、こしらえませんでした。
 その講演のとき開化の definition を定めました。開化とは人間の energy の発現の径路で、この活力が二つの異った方向に延びて行って入り乱れて出来たので、その一つは活力節約の移動といって energy を節約せんとする吾人の努力、他の一つは活力を消耗せんとする趣向、即ち consumption of energy である。この二つが開化を構成する大なる factors で、これ以外には何もない。故にこの二つのものは開化の factors として sufficient and necessary である。
 それで第一の活力を節約せんとする努力は種々の方向へ出るが、先ず距離をつめる、時間を節約する。手でやれば一時間かかる事も、機械で三十分でやってしまう。あるいは手でやれば一時間かかって一つ出来る所を、十も二十もつくる。そうしてわれわれの生活の便を計るのです。これがあなた方の専門のものであります。他の factor 即ち consumption of energy の努力は積極的のもので、或る種の人達からは国力等の立場より見なして消極的なものと誤解されている、文学、美術、音楽、演劇等はこの方面に属します。これらのものはなくてすむものであります、しかもありたいものなのです。これらは、幾分か片方で切りつめて余った energy をこちらの方に向ける、どちらかといえば押しのふとい方なのです。私らはこの方面へ向って行く。この方面からいえば時間距離なんていう考はありません。飛行機――飛行機のような早いものの必要もなく、堅牢なものの必要もなく、数でこなす必要もない。生涯にたった一つだっていいものを書けばいいのです。即ち私どもとあなた方とはかく反対になっているのです。――二つのものの性質を概括していうと、あなた方の方は規律で行き、私どもの方は不規律で行く。その代り報酬は極悪い。金持になる人、なりたい人は、規律に服従せねばならない。あなた方の方は mechanical science の応用で、私どもの方は mental なのだから割がいいようだが、実は大変に損をしているのです。しかしあなた方は自由が少いが、私どもは自由というものがなければ出来ない仕事であります。なおいいかえれば、あなた方は仕事に服従して我というものをなくなさなければ出来ないのです。各自個々勝手な方面へ行ったなら、仕事はできない。私どもの方は我を発揮しなければ、何も出来ません。
 そこで、あなた方の方でする仕事というものを見ると、普遍的即ち universal の性質を持っている。私どもの方は universal でなくて personal の性質を持っています。なお敷衍していえば、あなた方はまず公式を頭の中に入れて、その application が必要である。それは人間が考えたものに違いないけれども、私がこのものがいやだといっても御免蒙ることはできない。universal ということは personality という個人としての人格じゃなく、personality を eliminate し得る仕事なのです。この鉄道は誰が敷設したという事は素人にはあまり参考になりません。この講堂は誰が作ったって問題にならない。あすこにぶらさがってるランプだか、電気だか何だか知らないが、これには何のpersonality もない。即ち自然の法則を apply しただけなのであります。
 しからばわれわれの文芸は法則を全然無視しているかというと、そうでもない。ベルグソンの哲学には一種の法則みたいなものがある。フランスではベルグソンを立場として、フランスの文芸が近頃出て来ている。しかしわれわれの方では sex の問題とか naturalism とか世間に知れわたった法則等から出立するものは、その abstraction の輪廓を画いてその中につめこんだのでは、生きて来ない。内から発生した事にならない。拵えものになる。即ちわれわれの方面では、abstraction からは出立されないのです。しからば文学者の作ったものから一つの法則を reduce することはできないかというと、それはできる。しかしそれは作者が自然天然に書いたものを、他の人が見てそれに philosophical の解釈を与えたときに、その作物の中からつかみ出されるもので、初めから法則をつかまえてそれから肉をつけるというのではありません。われわれの方でも時には法則が必要です。何故に必要であるかといえば、これがために作物の depth が出てくるからである。あなた方の法則は universal のものであるが、われわれの方では personal なものの奥に law があるのです。というのは既に出来た作物を読む人々の頭の間をつなぐ共通のあるものがあった時、そこに abstract の law が存在しているという証拠になるのです。personal のものが、universal ではなくても、百人なり二百人なりの読者を得たとき、その読者の頭をつなぐ共通なものが、なくてはならぬ。これが即ち一つの law である。
 文芸は law によって govern されてはいけない。personal である。free である。しからばまるで無茶なものかというと、決してそうではないというのであります。
 かようにあなた方の出発点とわれわれ文芸家の出発点とは違っている。
 そのものの性質よりいえば、われわれの方のものは personal のもので、作物を見て作った人に思い及ぶ。電車の軌道(きどう)は誰が敷いたかと考える必要はないが、芸術家のものでは、誰が作ったということがじき問題になる。従って製作品に対する情緒がこれにうつって行って、作物に対する好悪の念が作家にうつって行く。なおひろがって作家自身の好悪となり、結局道徳的の問題となる。それ故当然作物からのみ得られべき感情が作家に及ぼして、しまいには justice という事がなくなって、贔負というものが出来る。芸人にはこの贔負が特に甚だしい。相撲なんかそれです。私の友人に相撲のすきな人があるが、この人は勝った方がすきだと申します。この人なんか正義の人で、公平で、決して贔負ではない。贔負になるとこんな事が出来ない。かく芸を離れて当人になってくるのは角力か役者に多い。作物になるとさほどでもないようにも見える。
 これほどまでに芸術とか文芸とかいうものは personal である。personal であるから自己に重きを置く。自己がなくなったら personal でなくなるのはあたり前であるが、その自己がなくなれば芸術は駄目である。
 あなた方に尊ぶことは、自己でなくして腕である。腕さえあれば能事了れりというてもよい。工場では人間がいらないほどあっても、その人間は機械の一部分のようなものである。mechanical に働く、機械よりも巧妙に働く、腕が必要である。が、われわれの方は人間であるという事が大切な事で、社会上よりいうときは御互に社会の一員であるけれども、われわれの方は貴方がたに比べて人間という事が大事になる。
 ところがここに腕の人でもなく頭の人でもない一種の人がある。資本家というものがそれである。この capitalist になると、腕も人間も大切でなく、唯金が大切なのである。capitalist から金をとり上げればゼロである。何にも出来ない。同様にあなた方から腕をとり上げても駄目である。われわれは腕も金もとり上げられてもいいが、人間をとり上げられてはそれこそ大変である。
 あなた方の方では技術と自然との間に何らの矛盾もない。しかし私どもの方には矛盾がある。即ちごまかしがきくのです。悲しくもないのに泣いたり、嬉しくもないのに笑ったり、腹も立たないのに怒ったり、こんな講壇の上などに立ってあなた方から偉く見られようとしたりするので――これは或る程度まで成功します。これは一種の art である。art と人間の間には距離を生じて矛盾を生じやすい。あなた方にも人格にない art を弄している事がたくさんある。即ちねむいのに、睡くないようなふりをするなどはその一例です。かく art は恐ろしい。われわれにとっては art は二の次で、人格が第一なのです。孔子様でなければ人格がない、なんていうのじゃない。人格といったってえらいという事でもなければ、偉くないという事でもない。個人の思想なり観念なりを中心として考えるということである。
 一口にいえば、文芸家の仕事の本体即ち essence は人間であって、他のものは附属品装飾品である。
 この見地より世の中を見わたせば面白いものです。こういうのは私一人かも知れませんが、世の中は自分を中心としなければいけない。尤も私は親が生んだので、親はまたその親が生んだのですから、私は唯一人でぽつりと木の股から生れた訳ではない。そこでこういう問題が出て来る。人間は自分を通じて先祖を後世に伝える方便として生きているのか、または自分その者を後世に伝えるために生きているのか。これはどっちでもいい事ですけれども、とりようでは二様にとれる。親が死んだからその代理に生きているともとれるし、そうでなくて己は自分が生きているんで、親はこの己を生むための方便だ、自分が消えると気の毒だから、子に伝えてやる、という事に考えても差支えない。この論法からいうと、芸術家が昔の芸術を後世に伝えるために生きているというのも、不見識ではあるが、やっぱり必要でしょう。ことに旧芝居や御能なんかはいい例です。絵画にもそれがある。私は狩野元信のために生きているので、決して私のためには生きているのではないと看板をかける人もたくさんある。こういうのは身を殺して仁をなすというものでしょう。しかし personality の論法で行くと、これは問題にならない。こんな人はとりのけて、ほんとに自覚したらどうだろう。即ち personality から出立しようとする、狩野のために生きるのをよして自分のために生きようとする事にしたらどうだろう。世の中には全く同じ事は決して再び起らない。science ではどうだか知らないけれども、精神界では全く同じものが二つは来ない。故にいくら旧様を守ろうとしても、全然旧には復らない。なお他の一つは旧にかえるのではなく新しい departure をする。これらによって essential な personality を発揮する事ができる。
 導体的の文芸家美術家も、必要かも知れないが、人間の本分として、凡ての人は自覚しなければならない。此所が大切な所で充分に説明しなければいけないんですが、今日は時間がないからこれでやめます。
 私のいうた事は、あなた方と私どもとの職業の違いから出立して、私どもの方の事を精しくいったのでありますけれども、同時にまたあなた方の方にも或程度までは応用が利くかと思います。あなた方の職業の方面において幾分か参考になる事がありはしないかと思うのです。尤も文芸部の会ですから応用が利かなくっても、威張ってそういう権利があります。しかし個人としてなり職業としてなり、あなた方の御参考になれば、私は非常に嬉しいのであります。――それだけです。
(夏目漱石 「文明論集」 著作権切れ)

訓練3


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教(じつごきょう)』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役(りきえき)はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
 身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々(しもじも)の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本(もと)を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺(ことわざ)にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人(げにん)となるなり。
 学問とは、ただむずかしき字を知り、解(げ)し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦(よろこ)ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴(とうと)むべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟(ひっきょう)その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。
 されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬(たと)えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言(もんごん)、帳合いの仕方、算盤(そろばん)の稽古、天秤(てんびん)の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土(ふうど)道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。
 これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。(福沢諭吉 「学問のすすめ」著作権切れ)

訓練4


人類は、元来、本能的に平和を好む動物である。故に、もし平和を破るものがあったならば、直(ただ)ちに人類の仲間より排斥されるのである。国家法を設けて、故なく人を殺したるものは罪の最も大なるものとしてこれを罰する。一人を罰するに依って万人の平和を保つ事が出来るなれば、その一人は死刑に処しても万人の平和を保たんためには止(や)むを得ない。
 今日の世界国内の道徳、個人間の道徳は、遥かに国際間の道徳より発達している。すでに死刑の全廃時期も近づいているのである。国際間の道徳も早くかくの如く進めねばならぬ。すでに名義の如何(いかん)にかかわらず、人を殺すことは罪悪である以上、人を殺すの戦争は一日も早くこれを廃し、他の方法に依って国際間の紛擾(ふんじょう)を解決せねばならぬ。これが即ち理想である。
 元来、人類が国家を形作っているゆえんのものは、平和を希望するからである。平和が保てぬ国家ならば、人類は国家を形作るには及ばないのである。今日ではまだ国際道徳の進歩せぬため、武装的平和を維持している。軍隊の力、軍艦の力によって、平和が維持されているのである。この平和維持のため、世界は一千万の軍隊と、五百万噸(トン)の軍艦と、一年五十億万円の費用とを投じている。人民は強制されて血税の義務を負い、その上に多額の租税を負担する。それがために、貧乏人は益々(ますます)増して来て、生活難の声が高くなり、ここに於てか、近来最も恐るべき主義、即ち社会主義の如きものが数百年間築き上げたる文明を根底より覆さんとしている。英国の議会が解散されたのも租税の負担が多くなった結果である。独逸(ドイツ)の名宰相として名高きピュロー氏がその職を退くの止むを得ざるに至ったのも、全くこの予算問題から起ったのである。今の人類は国家を形作っているがために、高き価(あた)いを払って武装的平和を維持せなくてはよくない事になっている。実につまらぬ話である。文明が今少しく進んで、国際間の道徳が発達して来たならば、世界の一千万の壮丁を軍隊より解放して、各々(おのおの)生産事業に従事せしめ、五十億万円の年額軍費を民に返してしまう事が出来たならば、人類はどれだけ幸福を享有する事が出来るか知れないのである。
 然(しか)して、この理想は着々世界の間に実行されつつあるのである。現に万国連合的の学会は常に開かれている。万国衛生会の総会とか、万国議会の総会とか、種々な名義の総会が開かれて、世界が共同的になりつつあるのである。また万国平和会議もヘーグで開かれて、戦争を避けて仲裁裁判に付するようになっているのである。故に、事実上戦争は少なくなりつつあるのである。
 我輩は国家を破壊して万国統一を計ろうというのでは無い。国家の現在の区域のままに置いて、政治はその国々に依って行うのであるが、ただ戦争を避けて、各国武装を解き、万一国と国との間に衝突が起ったならば、仲裁裁判に付してこれを解決する事にしたいというのである。
 かくいえばとて、この理想を実現するために、我が国の軍備を撤せよというのではない。今の武装的平和の今日、国際道徳の個人道徳よりも低き今日、我が国民の世界を第一位に置くため、我が民族の発展のために、また来るべき大平和の時代を迎うるがために、時と場合に依っては小平和を犠牲に供するのは当然である。この点を世人は誤解してはならぬ。
(大隈重信 「余が平和主義の立脚点」著作権切れ)

①要約

400字の文章なら80字-100字くらいで書いてみましょう。

読解06を読んで、訓練もした人は、もう書き方をわかっていると思います。

訓練1

 
1600字くらいあるので、320字-400字くらいで書いてみましょう。

 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物をとり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
 身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
 学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。
 されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。たとえば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。
 これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。(福沢諭吉 「学問のすすめ」)

解答例
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物をとり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
 身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
 学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。
 されば
今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。たとえば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。
 これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。万人はみな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別ないの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、その有様雲と泥との相違ある。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事があり、その仕事をする者を身分重き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしい。ゆえに、その仕事をするものは身分重くして貴き者と言うべし。
 その人に、その本を尋ぬれば、ただその人に学問の力ある。人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となる。
 今、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。
 人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。
395字

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訓練2

 
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