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皆伝 世界史探求03 歴史時代 文字の誕生

文字で記録が残っている時代を歴史時代と言います。ここからが歴史家の専門とする範囲です。皆伝の世界史探求03はBC3500年からBC2100年頃を扱います。青銅器の作られる時代でもあります。

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文字の誕生

文字の定義
多くの人が見て、意味が分かる、または発音がわかる二次元のもののうち、あるグループで大体は決まった形をしているもの。そして、組み合わせて意味を持たせることができるもの。
川を表す漢字、2を表す数字、Aも発音がわかります。川幅、23,AIのように組み合わせて意味を持たせることができます。だから、これは文字と言えます。
非常階段を示すピクトグラム/ピクトグラフは、組み合わせることがありません。ロゴもだいたいはそうかな。だから、文字とは言えません。
洞窟壁画。牛の絵が描いてあります。けれど、人によって描き方は違います。右向きか左向きかも違うでしょう。だから文字とは言えません。漢字では、「サンズイは左側に書く」と決まっていますよね。向きが決まっているんです。

数字も文字ですが、数字を除く文字と、数字はどちらが早かったか?
先生によると
「知らん」
そうです。

数字は線文字から始まったのかもしれませんね。棒が一本ならひとつ、二本ならふたつ、三本ならよっつ。
横棒なら一二三、縦棒ならⅠ Ⅱ Ⅲ

ギリシアの数字の記述は二通りあって、アッティカ式はΙ ΙΙ ΙΙΙ ΙΙΙΙと記述します。ナポリ近郊で商売に来ていたエトルリア人がギリシア人からアルファベットを学びました。当然、数字も学んだでしょう。エトルリアの数字を私は知りませんし、先生も知らないと言っていました。エトルリア人がローマ人に記述法を伝えたのかもしれないし、数字だけはローマ人が発明したのかもしれません。羊を数えるために縦棒を刻んだという学者もいます。
アラビア数字として知られている1234567は、インドから中東のイスラーム圏、アラビア人に伝わりました。紀元前4世紀には、ギリシア人がアレクサンドロスの遠征でインド文化圏まで来ます。そこでギリシアの数字を伝えた可能性があります。つまりギリシアのアッティカ式からインド人が数字を新たに学んだ可能性はありますね。 けれど、紀元後6世紀のインドの数字は今とは違う形で、1345には見えません。0と2だけは近いかな。だからギリシア人の|から1、||から2、|||から3を思いついたわけではなさそうです。0を発明したのもインド人ですし、ギリシア人が伝える前から数字はあったのかもしれません。
ギリシア人もアッティカ式でない数字の記述法というものがあって、通常の文字を数字として使っていたようです。数字であることを示すために、末尾に'(アポストロフィー)をつけたそうです。
漢字で書いてみると、参'ということかな。参は参加、参勤交代のように通常の文字なので、区別が必要ですもんね。

文字はどうやって生まれたか?
最初は絵文字から始まった説があります。
家畜がいて、
「牛を一頭、羊を二頭、山羊を三頭、それに犬も1頭一緒に連れて来てくれ」
と言われても、憶えられない人もいると思います。
メモしないといけません。
メソポタミア地方は洪水で泥が多かったので、乾かして粘土にすることも容易でした。だから、手のひらより小さいサイズの球形やおせんべい型の粘土を、7つ持って行ったのかもしれません。
こうすれば合計数を間違えることはありません。
こういう小さな粘土をトークンと言います。
とくにプレーン・トークンと言う学者がいます。
けれど、合計数だけわかっても困ります。
牛のトークンを一つ、羊のトークンを二つ、山羊のトークンを三つ、犬のトークンも一つ持っていけば、きちんと連れて戻ることができます。
だから、次第にモノや動物の形がわかるように、トークンの形を変えていきました。これをコンプレックス・トークンと言う学者がいます。
「さっき言ったのと違うじゃないか。羊は三頭だ」と相手先で言われても、「いや違わない。ほら羊は二頭」という証拠にもなります。遠くに連れていく場合は、交易の品物証明書の役割を持つと言えます。
トークンは物を数えたり、会計管理に使ったと本には書かれていることが多いので、こんな感じだと思います。
たいていは財布に小銭を入れるように、トークンはブッラという粘土容器に入れられていました。ブッラはトークンを入れた後に入り口も粘土で固めてふさいでしまうので、確認の時だけ開けることにしていました。
送り主と受け取り手だけがブッラを開けられます。配送人が山羊を1頭盗んで、証拠になるトークンも一つ取り出しておくなんてこともできなくなります。ブッラの表面には特殊な文様(印影とも言います。判子の原型)もあるし、ブッラを壊して、途中でまた正確に作り直すことは面倒ですからね。
トークンはBC9000年または紀元前8000年紀からメソポタミアの南部で使われていたようです。時間が経つと、シリア北西部、イランにも広がりました。21世紀の通貨が地域ごとに違うように、地域だけのトークン(ヴェトナムのドン、ナイジェリアのナイラ)、地域を超えてこれは山羊だ、これは犬だと認識できる広域トークン(ドル、円、ポンド)があったようです。
トークンの形がだんだん洗練されていって、作る人によって違う形にならないように、規格が決まっていったんだと思います。
算盤も絵や文字は書いてありませんが、枠や串を外せば小さなおせんべいです。円盤型で数を数えられます。紀元前にはメソポタミアで、砂の上に線を引いて、そこに石を置いて計算をしていた形跡があります。これが中国に伝わって、AD二世紀に円盤型の算盤になったと言う学者がいます。

ここで時間の表し方について、書いておきます。
皆伝02までは現在から何万年前かという言い方で来ました。ここからはそうではなく、現在わたしたちが使っている西暦を使用します。と言っても、しばらくは紀元前何年という言い方をしていきます。
紀元というのはキリスト教の概念です。イエスが生誕したときを紀元1年としています。その一年前は紀元前一年です。0年というのはありません。
因みに実際にイエスが生まれたのは紀元一年ではありません。諸説ありますが、紀元3年~4年というのが有力です。ですが、今更暦を直すわけにもいかないので、西暦としては便宜上、紀元一年ということにしておこう、という暗黙の合意が成立しています。西暦は西洋の暦、キリスト教暦のことです。
紀元前100年=前100年=BC100年
BCは英語のBefore Christの略で、キリスト以前/神以前の意味です。紀元前と同じですね。
ADはラテン語のAnno Dominiの略で、(キリスト/神の)支配の時代と言う意味です。神の支配する時代、紀元後と言うことです。紀元後の出来事に関しては、ADを付けないこともあります。2001年の出来事をAD2001年、紀元後2001年とはあんまり書きませんよね?基本的には、BCと紛らわしい時代の(紀元の前後)ときだけ書きます。
紀元前1000年紀はBC1年からBC1000年です。紀元前2000年紀はBC1001年からBC2000年です。紀元1000年紀はAD1年からAD1000年、紀元2000年紀は1001年から2000年です。我々の生きている21世紀は紀元3000年紀ということです。
100年の単位を世紀で表します。これは英語ではCenturyなので、21世紀を21Cと書きます。紀元前10世紀はBC10Cです。

話を戻します。
人類最古の文字であるシュメール文字はBC3200年頃に生まれます。ウル、ウルク、ラガシュなどの都市国家を作ったシュメール人です。BC3200年頃のウルク遺跡から出土した「ウルク古拙文書」には、約1000 の絵文字が使用されていました。この絵文字は古拙文字と呼ばれます。トークンを粘土で作った板に押し付けると、山羊や犬の形が写ります。これが絵文字の起源なのではないかと言う学者がいます。
BC2500 年頃には、約600文字にまとめられて、話し言葉をだいたい記録できるようになったようです。この状態を文字体系があると表現します。

一つの説ではありますが、文字がどうやって生まれていったかはわかりましたか?
それではオリエントの話をします。

オリエント


皆伝03オリエントの範囲 - コピー

地図の赤い線で囲ってある区域が狭義/狭い意味でのオリエントです。広義/広い意味ではイラン高原も含みます。
メソポタミア、小アジア(地理名はアナトリア半島)、エジプト、シリア海岸部/沿岸部(+内陸シリアを歴史的シリアという)から成ります。

メソポタミア

メソポタミアは、北部のアッシリア地方(内陸シリアとも言う)、南部のバビロニア地方から成ります。バビロニア地方はさらに分けられます。
①南部のシュメール地区+②北部のアッカド地区
ティグリス川とユーフラテス川の間だから、ギリシア語でポタミア(複数の川)のメソ(間)の文明と呼ばれます。この文明の記録のほとんどはアレクサンドロスの遠征以降にギリシア語で残されているので、ギリシア語で言うんですね。ティグリスはタイガーのことです。音が似ています。流れが急で荒々しいので、ギリシア人がタイガー川と呼んだのです。ユーフラテス川はEUPHRATES/エウフラテスなので、EU、つまりヨーロッパのある側、西側にあると思い出す。東側がティグレス/グリスなので、ャイナのある東側を流れると思い出す。どっちがユーフラテスかもう混乱しませんね?

最初はウバイドと呼ばれる人が暮らしていたようですが、後からやってきたシュメール人に制圧されたようです。
ウバイド人は同化されたり、最南部に逃れたり、インドに逃れたりしたという説があります。そして、インダス文明を作ったと言う学者もいます。
シュメールではBC3500年頃、犂を発明した人がいて、田畑を深く耕せるようになるから収穫が増えます。

ティグリス、ユーフラテス川の下流のあたりのシュメール地区では、そこらへんにたくさん生えている葦製のペンが生まれました。葦のペンは先端部が楔の形をしています。だから、文字の書き始めが自然と三角形/楔形になる文字が書かれるようになりました。筆で文字を書くと最後の部分が細くなっていきますよね。あれとおんなじです。BC2500年ころには絵文字/象形文字が楔形(くさび)文字へ変わっていきます。文字は600種あったようです。絵文字も楔形文字もシュメール文字と言います。
シュメール文字は漢字のように意味を表す表意文字に、ひらがなのように音を表す表音文字がくっついて、くっついた部分が変化する膠着語です。日本語に似ています。「歩」にひらがなをくっつけと、
例)歩く 「歩いて」に変わる。     非膠着語 「歩くて」
楔は◢の形で、木を意図した方向に伐り倒す際に打ち込んでおいたり、車止めにしたりもする固いものを言います。絵文字を葦のペンで書き始めた時に楔形文字という名前に変わります。絵文字と楔形文字とで急に字形が変わったわけではありません。
オリエントでは、エジプトが象形文字を使っていました。絵文字の一種ですがデフォルメされて、漢字の「山」「川」のように形で実物がわかる文字です。それ以外のオリエントは楔形文字(シュメール語、アッカド語など)が一般的です。ギリシアでは絵文字が線文字へ、オリエントでは楔形文字はのちに線文字の一種であるアルファベット(アラム語など)へ替わります。その後はBC4世紀にアレクサンドロスが支配して、ギリシアからパキスタンまでをギリシア語(アルファベット)で統一します。
楔形文字は、絵文字もそうでしたが粘土に書きます。粘土板/タブレットに書きます。
文字が生まれた理由は前回の02で書いたように、はっきりしません。神殿には不作のときのために余剰食糧や種を保存していましたから、その配布、貸し出しの記録として文字が生まれたという学者がいます。税金の記録のためだという学者もいます。

銅器時代は、石器の使用に併行して金属器が使用された時代で、 銅石器時代、金石併用時代、純銅器時代とも呼びます。自然銅を鍛造(たんぞう)して、つまり叩いて成形して使用しました。銅を溶かして鋳型に入れる技術をまだ持っていませんでした。
バビロニア地方の南には民族系統不明のシュメール人がいて、中部にはセム語族が力を持っていました。BC3000年ごろには、シュメール系とセム語族系の対立が起こります。

青銅器時代

BC3000年頃、青銅器段階へ。石器も併用はします。メソポタミアに隣接するイラン高原には、銅と錫、それを溶かすための火を得るのに必要な木がたくさんありました。銅鉱石は錫を含むことが多いので、敢えて混ぜなくても青銅になっていました。以前にも書きましたが、念のためもう一度書きますね。
銅と錫の合金である青銅器は人間がつくった最初の合金属です。つまり合金。土器よりも固くて、石器よりも形を自由に作りやすいんです。銅に、敢えて銅よりも柔らかい錫を混ぜたのは、恐らく高い温度を生み出す技術がなかったから。錫(硬度1.5~1.8)は231度が融点、銅は1083度(硬度2.5~3)で溶け始めます。錫と胴をまとめて溶鉱炉(頭蓋骨などを使ったようです)に入れると875度で銅も溶ける、そして混ざり合って青銅になります。875度は土器製作の時に生み出した火力とほぼ同じ、土器を作れる人は青銅器も作れます。
鉄は融点が1500度(硬度4)。錫は石や土や銅と較べれば希少な金属だから、青銅器の製造法や技術が伝わってもどこでも作れるものではありませんでした。原料が手に入るところか、その近くで輸送業者がいないと作れないんです。
ここで言う硬度はモース硬度、ひっかいた時の傷のつきにくさです。割れにくさとは異なります。硬度1チョーク1.5カルシウム.鉛2岩塩.銀2.5金.人の爪.象牙.琥珀3珊瑚4鉄.真珠5ガラス.オパール 7火打石/フリント.人間の歯表面のエナメル質.水晶 8エメラルド9ルビー.サファイヤ 10ダイヤモンド

バビロニア地方は、上流からの雪解け水や氷解け水はあるので、川の水は豊富ですが、下流では雨が少なく泥の多い土地なので、土器を作るのに適していました。泥が多いので粘土板(タブレット。粘土を板状にした物)で記録したり、それを乾かして(瓦と言います)、保管したりもできます。日干し煉瓦(天日干しで乾かしたレンガ)のアーチ型建築ができました。雨が多い土地では、粘土板も日干し煉瓦の建築物も溶けてしまいますもんね。雨の少ないアラビア半島、アフリカの一部では、21世紀でも土の建築物が建てられます。

都市国家

都市の王制化。BC2500年頃、都市国家へ移行します。シュメール王朝の誕生です。ウルという都市国家がシュメールのリーダー的存在/盟主になったので、ウル第一王朝と言います。シュメール人の作ったウル、ウルク、ラガシュ、キシュなどの都市国家の同盟は、盟主が安定せず覇権が移り変わっていたようです。だから、ウル第一王朝の後にはすぐにウル第二王朝ではなく、キシュ第二王朝やウルク第二王朝などがあります。時期によってどの都市国家に主導権があるかは異なります。
農耕をする人が群れているところを村と言います。ムレ、群がるに由来します。農耕以外のことを仕事にする人が中心になって群れているところを町と言います。いくつも町がありますが、王や皇帝の宮が置かれる町は宮処=都/都市と呼ばれます。国の中に、都以外に町がない、これを都市国家と言います。都以外にも町があれば、単なる国家です。人口の少ない時代には町は一つであること珍しくありませんでした。

皆伝03 メソポタミアの地図 - コピー

この地図の海岸線は21世紀のものです。ウルはペルシア湾/アラビア湾から200㎞内陸にあります。けど、当時の海岸線はもっとウルの近くにありました。ペルシア湾は遠浅なので、川が運んだ土砂で河口付近の海が陸地化していったようです。地盤が隆起した影響で、海が後退したこともあるかもしれません。ティグリス川、ユーフラテス川もこの5500年の間に流れる位置を変えています。また、支流も描いていません。地図に描いたどの都市も、描いていない支流の近くにあったと思います。
ウルは遺跡として発掘されていて、ジグラット/ジッグラトという神殿の役割をする塔がありました。各都市の主神の神殿に建てられて、7層あるものが一般的でした。当初は城壁はなくて、次第に城塞都市化していきます。つまり、戦が増えたんでしょうね。
陶器に色をつけたり、円筒の回りに文字が記された印章(所有者を示すための判子)が生まれたのもこの頃です。円筒印章と言います。神殿の司祭者は権威権力を持ち、メソポアタミアではパテシ、エジプトではファラオ(新王国時代から正規な名称になる)と言い、のちに王を意味するようになります。卑弥呼のようなものですね。オリエントはインダスやヨーロッパとの接触があり、証拠は円筒印章がかの地から出土していることです。例えばインダス文明の判子は四角なので、区別ができます。インダスの判子は現在のオマーン、UAEあたりでも出土しているようです。
メソポタミア地方も穀物、衣類の生産はできたんですけど、他は何もないので、アラビア半島から銅、真珠、孔雀石、イランから瑪瑙(めのう。縞模様の宝石)、ラピスラズリなどの貴石を輸入していました。定住した人たちの作った文明は、半定住の海洋民や、遊牧をしている草原の民と食糧や金属、宝石を交換することで、相互補完して成立しているんです。

人類最古の成文法典も作られたようです。口に出すだけではなく、文書にすることを成文化と言います。人類最古の成文法はシュメール法典と呼ばれます。法がまとまったものなので法典。典は書物の意味です。これはウル第三王朝(始祖はウル=ナンム)の時に作られたウル=ナンム法典、アムル人のイシン第一王朝のリピト=イシュタル法典などの総称です。アムル人も、シュメール文明を継承しているからシュメール法に含むのです。
車輪が発明されたのもこの頃のようです。
オリエントには奴隷がいました。補助的な仕事をしていたと言われています。鞭を打たれて肉体労働をさせられて、主人は寛いでいるイメージとは違います。
ウルク第三王朝の後にアッカド人が北からやってきます。
BC2300年頃にはセム語系のアッカド人のサルゴン1世が南のシュメールと北にあるアッカドを統一します。シュメールと共存しているので、アッカド王国の他に、シュメール=アッカド帝国とも言われます。サルゴン帝国とも言われたりします。後のバビロニア文明の基礎です。首都はアッカドに置かれました。メソポタミア地区の統一をしたということですね。孫のナラム・シンは最大版図を達成したと言われています。アッカド時代の領土が最大になった時ということです。コーカサス山脈に近いアルメニアと戦って勝ったという戦勝記念日が残っています。彼は当時、四界の王と称されます。そして、ディンギルと言われる限定符を名前の前に書きました。これは神を意味します。メソポタミアで初めて神を名乗った王なのです。
限定符は同音異義語の区別のためにも用いて、発音はしません。たとえば「広島に行ってくる」ではなくて、「ヒロシマに行ってくる」と書くと、原子爆弾を落とされた広島とわかります。「広島に行ってくる」、と書いても区別ができます。このとき、「」は限定符として機能しています。
アッカドのグル、と呼ばれる度量衡の単位を支配地に定めました。この頃、バビロンという都市が作られます。のちにメソポタミアの政治、文化で中心になります。
オリエントは「ア」で始まる民族が多いので混乱しやすいんですが、アの次の二文字目は五十音順に登場すると覚えましょう。アカド、アル、アムの順です。
BC2100年代ウル第三王朝。他の都市国家の七層と違い、ウルのジッグラト/ジグラットは恐らくどの時代も4層だったらしい。ユダヤ人の聖書に書かれているバベルの塔は、このウル第3王朝のジッグラトがモデルという説と、新バビロニア王国のネブカドネザル二世が作らせた方がモデルという説があります。ジッグラトも含む日干し煉瓦建築は、寒冷前線とインド洋の温かな空気とがシュメール上空で衝突したか、サイクロンの暴風雨により粘土に戻ったようです。つまりバベルの塔の崩壊=神の怒りと考えたのかもしれませんね。バベルの塔の話を簡単に書くと、天まで届く塔を作っている人間に対して、神が怒りました。神は塔を破壊し、人間が力を合わせて高い塔を作ることがないように、人間の言葉をばらばらにして、通じないようにしたというものです。ユダヤ人の聖書に書いてあるので、ユダヤ人/ヘブライ/イスラエル人はこの災害の後にウルを出て、エジプトに行きエジプト語を習い、またカナーン語を習い、シュメール地区やパレスティナ地区に行ったユダヤ人/ヘブライ人/イスラエル人とは言葉が通じなくなりました。このことを言っているのかもしれませんね。

ギルガメシュ叙事詩」。いろんなところで写本が作られています。つまり書き写されています。イランのニネヴェで発見されました 。ウル第三王朝の頃に書かれ、現存最古の物語とも言われています。叙事詩なので源氏物語のように「小説」とは言えません。五七五七七のようなリズムのあるものが詩ですね。ウルクに実在したギルガメシュ王をモデルにしています。いいですか?ウル第三王朝の時代に書かれていて、主人公はウルクの王です。女神アルルがギルガメシュを懲らしめるために、エンキドゥを粘土で作ります。エンキドゥは人になり、ギルガメシュの友人になり、森の怪物フンババを倒し、レバノン杉で船を作り帰国します。ギルガメシュは女神イシュタルの求婚を断り、怒って差し向けられた牡牛を倒しますが、このときにエンキドゥは死にます。ギルガメシュは旅先でウトナピシュテムの話を聴きます。
「わしは家族とすべての動物を船へ乗せ、6日6晩洪水をやり過ごした。鳩を遣わして陸地があるかを確かめたら、鳩はオリーヴを加えて戻ってきた」
この話を読んだ19世紀のキリスト教徒は「聖書」のノアの箱舟の話にそっくりと思いました。「聖書が最古の物語で、事実」と思っていた19世紀後半のキリスト教世界に衝撃を生みました。「聖書には原型があったのか」「他の作品から派生したのが聖書だったか」「ノアはいなかったのか」「聖書は正しくないのか?」)
不死の植物を手に入れたギルガメシュは、水浴び中にそれを蛇に食べられ、空手で帰国します。
これも蛇が知恵の実/林檎を食べるようそそのかし、永遠の命を失ったというアダムとイブの物語に似ていますね。
もっと読みたい人は、「ギルガメシュ叙事詩」(矢島文夫.ちくま学芸文庫.1998 p266)があります。

シュメール、アッカド時代の後はアムル人が独立し、イシン第一王朝を作ります。この時造られたのがリピト=イシュタル法典。シュメール法典に含まれます。
メソポタミアの神話。神々の始祖はアヌ、神々の指導者はエンリル、水の神はエア。豊穣神がイナンナ。愛と美と戦の女神イシュタルは星を意味し、カナーンのアスタロテ、ギリシアのアフロディーテ、ローマのヴィーナスの原形でもあります。冥界に行ったり、ギルガメシュに求婚したりとエピソードが多い。
メソポタミア文明の発明。
太陰暦。一か月は29日の月と、30日の月。29×6+30×6だから一年は354日。3年に一度は(閏日ではなく)閏月を入れる=太陽太陰暦。原理的には基本は太陰暦なので、略して太陰暦とも言います。古バビロニア暦の一つとされます。
一週間を7つにした七曜日制。60進法
エジプト文明と比較して出題されるので、受験生は区別をきちんとしましょう。
メソポタミア 60進法 太陰暦 粘土板  楔形文字 ジッグラト
エジプト   10進法 太陽暦 パピルス 神聖文字 ピラミッド

なぜメソポタミアは60進法、太陰暦なのか、いろんな説がありますが、一つとして納得できる説を知りません。
もっとシュメールを知りたい人のために「シュメル 人類最古の文明」(小林登志子.中公新書.2005)「五〇〇〇年前の日常 シュメール」(小林登志子.新潮選書.2007)「シュメル神話の世界」(小林登志子.中公新書.2008)などがあります。
メソポタミアに関しては、「古代メソポタミアの神々」(集英社2000年)「古代メソポタミアの神話と儀礼」(岩波2010年)「古代メソポタミア全史」(小林登志子.中公新書.p304.1000円.2020 シュメル文明から、イスラームが登場するまでの4000年を扱います )
オリエントだと「古代オリエントの神々」(小林登志子.中公新書.2019)
があります。小林登志子さんという方が三冊書いていますね。この人は特に神話に詳しい方だなとわかります。本を並べてみると誰が何の専門家なのかがわかるので、政治、文化史は別の方を読もうだとかを考えるきっかけになります。

エジプト

洞窟で暮らしていた人が出てきやすい場所で、土地の地味が十分にあってり、洪水が少なく避難できる丘もある中流域に人が集まります。ナイル川の流域以外は砂漠化し、人の居住に適さないため、河川交通が発達し、河口、上流とで交易をします。
歴史用語としての交易は、儲けるためよりも、お付き合いのためにする、交流を目的としている場合に用います。稼ぐ目的の場合に、貿易を使います。
交易では、物々交換を基本としています。
40以上の部族による都市国家が生まれます。のちにギリシア人がノモスと表現します。都市国家が中心になり、ある程度の領域を支配したので、のちに県を表す言葉になります。ノモスがそのまま県都になったのでしょうね。
こうした都市国家が上流の上エジプトに22、下流の下エジプトに20生まれました。洪水を避けて丘の上に暮らす下流よりは、やはり先に定住の始まった中上流域の方が早く都市国家を作ったのでしょうか?たった2差ではありますが。
エジプトは西はサハラ、北は地中海、南はナイル川沿い以外はサハラ、東は紅海があり、唯一シナイ半島だけで別の地域とつながっている閉鎖地形です。ナイル川と、地中海と紅海を通じて交易をしやすい。一方で、文化的に優れた、つまり侵略してくる可能性がある文化は兵士を大量に船で運ぶことはまだないから、シナイ半島経由で陸地を進んで来るしかない。そこだけを守っていればいい。つまり異民族に支配されにくい土地なのです。メソポタミアと違い、民族の交代が少ないのはそういうことなんですね。
エジプトは古代エジプト語族(うんと昔の日本では、聖書の言葉を使ってハム語族と言っていたようです)が力を持っています。主流というか、マジョリティなんですかね。
第一王朝の前にはヒエログリフ/神聖文字という文字が生まれました。
ヒエロはホーリー/神聖な、グリフはグラフィックを意味します
多くの都市国家を統合して、BC2850年(BC3200年説もあります。2020年代にはBC3150年説が有力です)、人の多い上エジプトを統合したメネスが、人の少ない下エジプトを支配し、初代王朝を打ち立てます。それまでは王都はティニスにあったと言われますが、上エジプト、下エジプトの境のメンフィスに都を置きます。支配はしていたけれど恐らく都市同盟の盟主という段階だったと思います。邪馬台国、商、アテネのようなものですね。

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この川の流れも21世紀のものです。メンフィス、ギザを境にして、上流を上エジプト、下流を下エジプトと言っていました。地図にすると上が下エジプトになります。京都も地図の右が左京区なので、どこに視点を置くかで呼び方が変わるということは、わかると思います。
川を挟んで東は生者の国なので、都市が作られます。西は日の沈む方角で死者の国なので、墓やピラミッドが作られます。こういう話は聞きますが、サッカラ―って川の西に在ります。当時と流れが違うかもしれませんが。だから、西は死者の国かもしれませんが、第四王朝くらいからそうなったのかもしれませんね。それに、西側にも工事現場の飯場としての街が作られたりもしたようです。常設か仮設かはわかりませんが、ピラミッドともなれば何年もかかる工事ですからね。いつか放棄することが決まっていればいいのかな。
BC2650年には第三王朝は支配だけではなく、下エジプトの地区統一を果たします。以降を古王国時代と呼びます。メンフィスを中心とした時代です。ナイル川の下流を下(しも)エジプトと言いますが、人口が増えたので、栄養分の豊富な下流域に移ったと考えます。
ちなみに、新王国時代からファラオという呼称が定着します。
BC2650年頃、第三王朝のジェセル/ジョセル王の時、サッカラに階段ピラミッドが作られます。
BC2600年以降の第四王朝はピラミッド時代と重なります。多くのピラミッドが立てられました。スネフェル王は、3つのピラミッドを作りました。横から見ると将棋の駒のように、頂近くで角度が急になるものがありました。エジプトの歴史を通しては、ギゼー/ギザにある四角錐の三大ピラミッドが有名です。クフ王のピラミッドは、146.6mの高さを持ち、エジプト最大です。カフラー王のピラミッドは、スフィンクスと結ぶ道があり、参道と呼ばれています。メンカウラー/メンカフラー王のピラミッドもあります。
高さが近い建築だと、京都タワー131mでしょうか。京都の東寺は54.8mです。古代でも中世でも現代でも高いことはすごいことだという認識は世界中にあるようですね。エッフェル塔324mよりも高くした東京タワー333mとか、ランドマークタワー296mよりも高いあべのハルカス300mとか、図抜けて高いドバイのブリュジュ・ハイファとか。
ピラミッドは王の偉大さを表す、墓所としての役割を持っていました。遺体はそこにないので、慰霊所と言った方がいいとか、他の役割もあるという説が多数あります。また、公共事業として失業率を下げる役割がありました。巨大な石をロープで引っ張ったりと重労働ですが、賃金が払われていました。賃金は食べ物の場合もあったようです。
スフィンクスは人面ライオンで神話の生物で、男も女もあり、神や王を守護する役割を持っています。最大のものがギゼーにあります。オベリスクは神に捧げた(人は登れない)自立した柱です。先生はメンヒルなどとの関係があるのではないかと言っています。ピラミッドは岩ですが、日本でも岩山、大きな岩などには神が宿るとされてしましたもんね。磐座(いわくら)は神が座る岩ということです。依り代に近いかな。
ピラミッドなどの土木事業や測量のために十進法が生まれました。手の指の数と同じです。自然に思いつく感じですね。
パピルス/ papyrusは植物の葦から作った古代の紙です。ペーパー/paperの由来です。
農業に伴い、いつ種をまくかなどを決める必要があるので太陽暦も生まれます。のちにローマのユリウス・カエサルが採用し、改良してユリウス暦と呼ばれます。ナイル川の上流にあるエチオピア高原にインド洋からの季節風の影響で、定期的に雨が降ります。だから、ナイル川は定期的に増水します。人間はこれを洪水と呼びます。川の流量を計測するための、ナイルメーターという刻み目があって、何年にどこまで水が上がったかが記録として残っています。メソポタミアの川は季節風とは関係がないので、いつ洪水になるかわからないんですね。
エジプトでは、太陽神のラーを信仰しています。当初は王=太陽神でしたが、だんだんと太陽神の子、太陽神から王位を授けられたものへと権威が落ちていきます。ピラミッドの形が王が登れる階段状のものから、太陽神を崇めるだけの四角錐へと変わったことが証拠だという説があります。
原初の水ヌンから自力で出現したアトゥン(アトンでもアテンでもありません)は自生の神で、エジプトの最初の神です。先生は、洪水を示唆していると思うと言っています。アトゥンは4人の子を生みました。長兄のオシリス神は元は地上の王で(穀物を示唆)、暴風雨を示唆する弟のセトに切り刻まれてエジプト全土にばらまかれた(風害による凶作)。けれど、妹で妻のイシスが復活させ、その後は冥界を支配するようになった。地上の王を継ぐのはオシリスの子のホルス。冥界の入り口で現世の行いを判定するジャッカル(黒犬の説もあります)の頭のアヌビス神は墓の守り神、オシリスの仇であるセトを討ち、現世を司るホルス神などが信仰されています。ホルス神は、ハヤブサかチョウゲンボウの頭を持っていると考えられています。チョウゲンボウは目がいい。イナゴを食べるので、凶作をもたらす暴風雨であるセトを討つのに最適です。ホルスはセトに目をえぐられたことがある、その目は魔を払うと言われれます。
オシリスの妹はイシスで、ホルスを処女懐胎で産み、マリア信仰へ影響します。南部出身の神であるホルスは北では信仰されていませんでしたが、メネスの統一後はオシリスの子で、初代の王ナルメル/メネスはホルスの化身なのだと設定を変更され、受け入れられました。牝牛を、オシリスの化身である神聖な牛/アピスとして扱いました。
貴人はミイラにされました。いつか魂/バアが戻って来て復活するときに、身体がないと困るからです。内臓は取りだされて、ギリシアから運んできたオリーヴ油の壺を再利用して、その両把手の壺に入れたりします。把手が二つ付いていて両手で持てる壺をアンフォラと言います。残った身体は乾燥させると黴などの繁殖を抑えられるので、腐敗しないと言います。エジプトには乾燥した土地はたくさんありますもんね。自然にミイラになった動物などを観て思いついたのかもしれません。一方で、適度な湿気があると腐らないとも言われ、湿地や底なし沼に落ちた生物は皮や肉まで保存されて残ることがあります。
死去すると霊魂はどうすればいいのか、それが「死者の書」に書いてあります。死後の世界のガイドブックですね。棺に刻まれたり、パピルスの巻物に書かれて一緒に墓室に置かれたりします。絵とヒエログリフで書かれていて、オシリスの前で審判を受けます。アヌビスが監督する中で、心臓を秤にかけられます。バランスが取れれば冥界に行けます。バランスが取れずに傾くと、アメミトという神獣に心臓を食べられてしまいます。復活もできません。霊魂はどこに行くんでしょうかね。
その後、都をナイル川中流のテーベに移し中王国時代に入ります。テーベもギリシア人のつけた名前です。ギリシアにもテーベっていう都市がありますから、そこから思いついたんでしょう。エジプト人は違う名前で呼んでいました。ワセトと呼んでいたそうです。
BC2350年にもなると、エジプト第六王朝は貴族と神官による専断政治と、黒人の侵入で混乱します。

シリア海岸部

セム系のフェニキア人が牧畜をしていましたが、BC3000年頃、 レバノン杉で筏を作り漁業へ転じます。理由は不明ですが、温暖化で乾燥が進んで砂漠が増えたことと関係があるかもしれません。砂漠化すれば牧畜に適した牧草地は減少しますし、ナイル川のあるエジプトと、ティグリス川とユーフラテス川のあるメソポタミアの間は、レバノンを通るしかないように変化したのかもしれません。21世紀のアラビア半島は砂漠がほとんどですから、このイメージをこの時代にも敷衍させれば、ラクダを連れていない人はアラビア半島の砂漠を横断できないと分かります。だから、メソポタミアからは川沿いに北上し、水の出るオアシスを西へ進み、レバノンに出る、それから南下してエジプトへ入るしかありません。
当初は東地中海の貿易はエジプト人が支配していました。
BC2100頃には、フェニキア人が貿易に手を出します。奴隷が最大の商品でした。他にグレートブリテン島の錫(青銅器の材料)、イベリア半島の銀、バルト海の琥珀などを扱っていました。直接フェニキア人の船がバルト海まで行っていたかは分かりません。彼らは紅海の貿易にも進出しています。これが可能になったのはエジプトが上流のテーベに都を移したことから推察できるように、エジプトの関心が海ではなく内陸に向いたからかもしれません。なぜなのかは不明ですが、洪水が増えたから下流から移動したとも考えられますし、シナイ半島から侵入してくる異民族が増えたので、都を移動したのかもしれませんし、財政が悪化したので、上流にいる黒人を奴隷にした方が労働力として簡単だと思ったとも考えられます。ピラミッドには人手が必要ですから。或いは既に北部を十分に統治できるようになったので上下エジプトの境界に建てたメンフィスにいる必要がない、灌漑ができるようになりデルタにいる必要がなくなったなども理由として考えられます。ピラミッドはだんだん小型化したり、作られなくなったりしていきます。王の権威が衰えたり、財政が悪化したのかもしれませんね。次の時代にはアブシンベル神殿などが作られますが、あれは崖に掘ったものです。敦煌の遺跡などと同じです。ピラミッドよりは重労働ではない気がします。つまり、お金がかからないんじゃないでしょうか。

ヨーロッパ

BC2500年には南欧・中欧も青銅器段階に入ります。
BC2500年頃には西ヨーロッパにもようやく新石器が伝わります。新石器は農耕に適すので、少なくとも半定住を始めたと分かります。雨水に頼るから収穫量は不安定で、人手もいらないので、豊穣の地を見つけてそこへ移動する。だから半定住。恐らくパオのようなテント生活、せいぜいすぐに取り壊せる建築をして暮らしていたのでしょう。テントなので後が残りにくい。だから、考古学者も見つけるのは難しいようです。灌漑農耕に移行すると、人工水路を利用するので、一定以上の収穫を期待できるし、多くの人手が必要だから定住をするようになります。
BC2500年ころ、巨石文化/巨石文明が最盛期を迎えます。イギリスのストーンヘンジ(ソールズベリ近郊)は環状列石もこの時代に建てられます。
世界中に巨石文化はあります。日本の東北地方にはBC4000年頃、環状列石が現れました。メキシコのユカタン半島に栄えたマヤ文明でピラミッドが作られたのは、3世紀頃と言われます。奈良の石舞台古墳は7世紀に墓として作られ、元々は土で覆っていましたが、21世紀に見えている内部は卓石構造でドルメンに分類できます。イースター島のモアイは村の守り神として10世紀頃から作られたと学者は言っています。

エーゲ海

ギリシアとトルコの間にある海です。エジプト人が東部地中海貿易を仕切っています。もう一度書きますが、交易はお歳暮のように「交流目的」で物を交換すること。これで利益を上げようとはしません。物々交換=バーター取引。等価交換です。貿易は稼ぐ、「利益目的」で品を交換したり、品を貨幣で売買することです。貨幣と言っても、当時はまだ人工的に作った貨幣はありません。きれいな貝殻とか、そういうものです。
太平洋のヤップ島には人工的に作った直径30m以上の石貨がありますが、16世紀以降に作られた説があります。遠くのパラオから切り出して持ってきて、ヤップ島で加工しますが、大きいので移動はなかなかできません。所有権の移転だけを記録していたようです。電子マネーや不動産のようですね。

BC3200/3000年頃、エーゲ文明が生まれます。オリエントとの交易が契機になりました。
BC3200/3000年頃ーBC2000年頃の民族系統不明の人たちによるキクラデス文明に始まり、BC2600年-BC1200年頃のトロイ文明、そして次の時代BC2000年ーBC1400年頃のクレタ文明、BC1600年-BC1200年頃のギリシア人のミケーネ文明までがエーゲ文明と言われます。その後のギリシア文明はギリシア人だけが主導します。
学者は、エーゲ文明を初期BC3000年~(キクラデス、トロイ)、中期BC2300年~(クレタ)、後期BC1400年(からミケーネが覇権を握る)に分けています。
もう一回まとめ直します。
エーゲ文明{キクラデス文明.トロイ文明.クレタ文明.ミケーネ文明}
ギリシア文明{アテネ、スパルタなど}

因みに、キクラデス文化、トロイ文化などと言うこともありますが、受験生は「文明」で憶えていいと思います。

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BC2800年にはエーゲ海は青銅器段階に入ります。
つまり、オリエントから学んだ文化がエーゲ文明、それを継承したギリシア文明、それを継承したローマ、それを継承したヨーロッパへとつながっています。ヨーロッパ文明の基層はオリエントと言えます。
「光は東方より」というのは古代ローマのことわざですが、ローマの文化は、さらに東からきているのです。
キクラデス文明の中心はデロス島らしい。のちにアテネがデロス同盟の拠点とする島ですね。星型、魚、同心円、渦巻き文などの土器を作っていました。フライパン型、船形坏(背の高い杯)も作っていました。横から見ると平べったい大理石の人像が、この文明の特徴です。羊、豚の家畜化、マグロ漁もしていました。
BC2200年頃には、トロイでは人面の「顔壺」を作っていました。
BC2100年頃、バルカン半島にギリシア人のアカイア人/ミケーネ人が南下します。(あとでミケーネ文明を作ります)

サハラ以南アフリカ

BC3000頃からアフリカ大陸の一部は乾燥化し、サハラ地域は砂漠化します。それに伴い家畜としていた馬が消えます。西アフリカのバントゥー族が移動を開始します。彼らは狩猟民なので、草を求めて移動する動物を追っていったのだと思います。
BC3000年(5000年前)、ヤムイモが西アフリカで栽培されました。


インド

歴史学でいうインドは、1950年代まではインド、パキスタン、バングラデシュ、ネパール、ブータン、アフガニスタンを含むインド地域を意味します。
BC5500年-BC2600年までのメヘルガル文化は新石器時代で、インダス文明ではありません。
BC3000年頃、彩陶を作る。家畜化も開始。


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BC2500年ころ(BC2600年と言う学者もいます)、インダス川周辺ではドラヴィダ人(メソポタミア方面から海又は陸経由で来たという説があります)が中心になって青銅器段階に入ります。インダス文明の開始です。。未解読の象形文字が発見されています。遺跡の数は約2600、発掘済みのものが2010年時点でインド96、パキスタン47、アフガニスタン4の合計147。内戦、経済的理由などで研究が進まないこと、文字のサンプルが少ないことと、文章になっているサンプルが少ないという事情も未解読の理由です。
インダス川中流にハラッパー(BC3300年-BC1700年)、下流にモエンジョダーロ(モンジョダロの記述は古いみたい。BC2500年-BC1800年)などの都市をつくります。中流から都市化していることは、この頃に定住した、洪水を避けている、農耕を開始したけど、人数が少なかったということがわかります。
モエンジョダーロは東西二つの遺丘からなっていて、東に市街地、西に城塞があります。道路は直角に交差し、碁盤の目の構造です。京都みたいですね。上水道、現存では世界最古と言われている下水道(メソポタミア文明の方が早いんですが、現存していません。文字記録でわかったのかな)、個人用の浴室と公衆浴場(沐浴場/サウナ)、貯水池がありました。煉瓦で建築をしていました。
この二つの遺跡は、パキスタン内にある都市遺跡です。インド共和国内にはドーラーヴィーラ―遺跡、ロータル遺跡(港)があります。シュメールの船がやって来るので、円筒印章や青銅器が伝来します。
インダス文明は農耕をしていました。
神殿を持たなかったことも、権力の一極集中が行われず王国にはならなかった要因の一つと思います。シュメール人やフェニキア人、ギリシア人の都市同盟、ハンザ同盟のようなものかもしれません。
こぶ牛像が作られました。インド共和国における牛は神の使いとして神聖な物とされています。紀元前からある文化なのかもしれませんね。地母神・獣類の神(シヴァ神の原型かな)・牡牛・樹木(聖樹)・生殖器の崇拝はヒンドゥー教に継承されます。
インド南部は季節によって風の向きがかわる季節風が吹きます。夏は南風で暑く、冬は北風で寒くなるモンスーン気候と言います。日本もモンスーン気候です。海に船を浮かべて帆を張っていれば(いつから帆を利用したかは不明ですが)、インドとメソポタミア、アラビア半島を往来できる。のちの少年遣欧使節がインドで風待ちをしたのも、こういう理由です。つまりインド北部には農耕を中心とした武人国家が名を連ねて、規模も大きいんですが、教科書に名の出ない中小国家が南部にあっても生き残っているのは季節風貿易で中東、その先の地中海、東南アジア、その先の中国とつながっているからです。受験生は、南インドの国と貿易をしている国とをセットで覚える、同時代にどんな国があるかを覚える必要があります。
もっと知りたい人は「インダス文明の謎 古代文明神話を見直す」(京大学術出版.2013)「メソポタミアとインダスの間」(ちくま選書.2015.海洋交易)という本があります。

中央アジア

BC3000年頃、西部ではキビの栽培などが始まり、新石器文化に移行したようです。
BC2500年頃、農耕が牧畜よりも比重が大きくなる。BC2500年頃には、青銅器段階に入ります。

中国

黄河文明+長江文明=中国文明
黄河文明は畑作農耕です。黄河文明では黄河中流域に仰韶文化(ヤンシャオ/ぎょうしょう/古くは「げいしょう」とも読んだ)が生まれます。渭水盆地の半坡遺跡(玻璃の「玻」を使う場合もみる)が初期の代表です。半坡文化は畑作で粟、きびなど、環濠、広場を囲む竪穴式住居、母系暮らしでした。人面・三角形文・網文・魚文などの陶器を作っていました。
BC2200年頃からの仰韶遺跡が後期の代表です。河南省べん池県仰韶村で、1921年にスウェーデンのアンダーソンが発見しました。赤地に黒などの彩色を施した幾何学模様や動物模様の彩陶/彩文土器が見られる文化です。鳥獣文、蛙、渦巻き文などの文様です。
遼東半島付近で渤海に注ぐ遼河周辺では、紅山文化が栄えて、玉器がありました。宝石を彫刻したものですね。
BC2100年頃は、伝説の三皇五帝の時代。伏羲(ふくぎ)、女媧(じょか)、神農の三皇までは神です。黄帝、顓頊(せんぎょく)、嚳/帝嚳(ていこく) 、堯(ぎょう)、禅譲された舜(しゅん)、この五人は聖人。つまり素晴らしい人格を持ちいい政治をしたと信じられています。のちの時代の人がこの時代を理想とすることがあります。
禅譲とは有徳の人物に争いなく穏やかに位を譲ることです。伏羲と女媧は元は無関係の神なんですけど、やがて兄妹で夫婦とされました。中国の伝説では最初の神は盤古と言います。宇宙を斧で割ったら天と地に分かれ、これを支えたけれど、死んだとき太陽や月や山、川になったと伝わっています。

長江文明では、前の時代から浙江省に河姆渡(かぼと/ふむとぅ)文化の河姆渡遺跡がありました。稲作農耕。水田です。高床式の住居。漆器もありました。
BC3300年頃、良渚(りょうしょ)文化の良渚遺跡(浙江省)。墳丘墓が作られます。豚を家畜化しています。精巧な玉器もあります。父系社会の首長制へ移行します。なぜでしょうか?気候変動?母系は温暖な地域に多い印象だから、寒冷化なのかな。争いが多くなったのかな?
ホルドが変化してバンド社会と呼ばれるようになり、部族社会に移ります。階層はない社会ですね。次第に他の集落との交流から、珍しい品を交換するようになると、それを管理する人が首長だから、珍品を持っていることが地位の保証になるんです。この人がいないと交流できないと思われて、首長は珍品を再分配するようになり、次第に階層化していくそうです。
BC3000年頃、水田で足をとられないように履いていた田下駄がすでにありました。
BC3500年頃、轆轤(ろくろ)が作られます。最初は野積み(窯なし)、仰韶で半地下の横穴式、仰韶後期に半地下の竪穴式の窯が作られます。鼎・鬲などの三足器が作られます。酸化鉄の顔料は赤や黒に発色します。
BC3000年頃、黒陶や灰陶、紅陶。紅陶は酸化焔、黒色は煙でいぶして炭素粒子がくっつくと出る色だそうです。還元焔は、酸素不足にした窯では、土の中の酸素が燃焼に使われて減ります。こういう酸素の少ない炎を還元焔と言います。強度や耐火性を高める目的で砂粒・雲母・もみ殻・麦わら・石灰粒などを混ぜていました。仰韶後期にはカオリン(高嶺)土を使って、白陶を作るようになります。手捏ねが主でした。河姆渡文化では粘土を貼合わせていました。紐粘土を積むのは裴李崗文化の特徴です。
もっと知りたい人は「中国の歴史 1 神話から歴史へ」(講談社.2005年)に詳しく書いてあります。

東南アジア

ヴェトナム北部にフングエン文化というものがありました。
紀元前3千年紀終末(BC2100年頃?)から前2千年紀初め(BC2000年頃?)に始まり、前2千年紀半ば頃(BC1500年頃?)に終わった新石器から青銅器の文化でした。

日本列島

BC3500年頃、陸稲を栽培していました。
BC3200年/BC2900年頃、水田農耕も始めます。縄文時代は気候が不安定で10年-50年のサイクルで寒暖を繰り返すので、水田をうまく管理できずに、水田農耕は根付かなかったようです。
日本はBC2500年頃に三内丸山(遺跡になっています。青森県)に大型の掘立柱がありました。地元産ではない黒曜石が出土したことは、広範な交易の証拠です。黒曜石は北海道、長野、伊豆の神津島のものが良質で、広範囲に取引されていました。
この時代に9つあったとされる文化圏が、東西本州・九州・沖縄文化圏に集約されていきます。これが現在の日本の文化圏とほぼ重なります。関東や関西って文化が違うけどいつからなんだろうと考えると、この頃から違いが出てきています。つまり、その地域圏でのまとまりが出てきているということになります。植生や動物の種類の違いで食べ物が異なる、険しい山や大きな川や海(この時代までに大阪平野、濃尾平野、関東平野などは海になったり陸になったりを繰り返してきました)で遮られ、行き来が難しかったことも原因でしょう。(強いて言えば商人のような)交易品を持ち歩く専門的な人たちが出てきたことと、その人たちに任せておけば自分の生活圏を出ていく必要がない人たちへと分化したことで、交流が限定され文化圏が濃縮され同質性を増したのかもしれません。

貝塚は動物や魚の骨、貝などのゴミ捨て場。人骨も見つかるので、葬儀と関連しているのかもしれませんね。モースが発見した大森貝塚が有名です。
集落はその家族が去った後、打ち捨てられたり、別の家族が使うこともあります。何百年にもわたり利用される場所もあります。気候が安定し、木の実が取れる、川の流れが変わらないなどの条件があると思います。
当時の平均年齢は30歳-31歳。子の早死にが多いので、大人になれば50歳以上の人は珍しくないそうです。
最盛期の人口は30万人らしいです。



アメリカ大陸

アンデス地方北部はBC2500年頃、新石器段階に入ります。新石器と言うことは、農作物を刈り取るための精巧な磨製石器を時間をかけて作るので、恐らく半定住を開始します。いくつかの拠点を作り、拠点周辺の収穫をしては、別の拠点へ巡りながら暮らします。焼き畑かもしれません。焼き畑ならば、土の栄養分がなくなると、別の拠点へ行くんです。

BC3500年頃(5500年前)中米の低地とマヤ地域では、トウモロコシ、インゲン豆、カボチャ、マニオク(キャッサバのこと。中米説と南米原産説がある)の栽培開始。けど、狩猟採集漁労が主で、乾季と雨季の移動生活でした。
アンデス文明では、ジャガイモ、キャッサバ/タピオカ(長い芋、でんぷんをタピオカということがある)の栽培を開始します。
BC2500年頃(4500年前)、北米の東部では、ヒマワリの栽培開始。食べていたんでしょうかね。サウスカロライナで最古の土器は、この時代です。メキシコの中央高地では、食物とした植物のうち、栽培植物は21%。狩猟、採集の割合が大きかったとわかります。種の大きさ、実の数、DNAでわかるようです。
エクアドルの海岸部では、バルディヴィア文化が展開していました。BC2800年頃-BC2600年頃には、300m×400mという長方形の広場に、祭祀用に二棟があり、周囲に住居群がありました。
この時代、南米には椅子、楽器、装身具、紡錘車、土偶などもあったようですね。
日干し煉瓦や石造りの建築物も生まれます。恐らく日干し煉瓦は一般的な家屋、石造りは、集会所や神殿などの公共建築です。ペルーの北高地では、上塗りを施した床、壁。壁には壁龕(へきがんと読みます。くぼみのこと)、部屋の中央部が一段低くなった構造、そこに炉がありました。煙を出す排気口もありました。有名な「交差した手の神殿」が作られたのもこの時代です。有名と言っても、アンデス文明に詳しい人にとってはと言うことで、私は知りませんでしたけどね。
もっと知りたい人は、「岩波 アメリカ大陸古代文明事典」(青山和夫.岩波書店.2005年。地域ごと、遺跡の解説。文化生活に関してはあんまり書いていません。)があります。

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今回はBC3500年頃-BC2100年頃を書きました。
次回は、BC2100年頃-BC1200年頃を書きます。
次の皆伝04は、こちらです。
https://note.com/kaiden_juken/n/n696849752264



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