安っぽい漫画しか描けない理由
安っぽい漫画しか描けないのは人生が安いからだ。
20代前半のぼくの漫画の描き方は大体決まっていた。
生き方に悩む主人公が、誰かの一言を受けて行動を変える。
漫画雑誌を見ていると、なんか、そういう感じの作品が結果を出している傾向にあったから、側だけ真似して描いていたのだ。
「なんか、そういう感じの〜」なんて捉えている時点で、当時のぼくの人生の安っぽさが窺える。
誰かに一言言われたくらいで、そうそう人生が変わるものか。
思い悩んでいるときほど、他人の言葉は入ってこないものだ。悩みが深ければ深いほどそう。
誰にでも言えるような安っぽい言葉で変わるほど、人生は軽くない。
例えば、ぼくがSNSでの相次ぐ批判に酷く悩んでいた頃、何人もの方から励ましの言葉をいただいたが、どれも驚くほど響かなかった。
「氣にしなければいいんだよ」とか「応援してくれてる人の方を向いてればいいんだよ」とか、たくさんたくさん励ましていただいたが、感謝しつつも出てくる氣持ちは一貫して「叩かれたことあるんですか?」だった。
この氣持ちを分からない人にいくら励まされても、心はピクリとも動かなかった。
けれど不思議なもので、同じような言葉をとある建設会社の社長に言われたのだが、そのときの言葉は心の中に入ってきた。彼がこれまでにたくさん批判を受けてきたことを知っていたからだ。
酒の席だったのでぼんやりとしか記憶に残っていないが、彼の言葉は、見れど知らずの誰かに励まされるよりよっぽど奥深くまで入ってきた。
人間、言葉だけでは動かない。
動くとしたらそれはきっと、よほど中身がないのだろう。20代前半のぼく、お前に言っているのだ。
まぁ、当時は毎日同じ仕事を繰り返すような職に就いていて、サボり癖強めの楽したがり人間だったのだから仕様がない。濃い人生など描けるはずもなかったのだ。薄いも薄い、水浅葱色くらい薄い青だった。
とはいえ、今は濃い人生を描けるかと言われても、「はい」と即答できるほどの経験は持ち合わせていないのだが、それでも、当時よりは幾分か。
少なくとも今はもう、誰かの一言を受けて行動が変わるなんて主人公は描いていない。
言葉だけでなく、さまざまなことを感じながら変化していく主人公を描いているつもりである。水浅葱色から、浅葱色くらいには青くなってきただろうか。
青は深い。藍色ほど深く鮮やかな青になるまで、人生日々精進である。
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