いいものとは何かを只管に考えてみた
いいものとはなんだろうか。
そんなことを時たま思う。
売れたものがいいものなのか、
とすると、売れなかったものはいいものではないのだろうか。
例えばSNSで、何万件ものいいねがついた漫画があったとして、その漫画がいざ書籍になったら、案外売れなくて、その漫画はいいものなのだろうか。
例えばある漫画が1人の少年の心を動かしたとして、その少年は漫画の影響を受け、のちに世界を変えるような利便性の高い商品を開発したとして、けれど、その少年が心動かされたその漫画は売れなかったとして、その漫画はいいものではないのだろうか。
漫画を例に挙げたのは、ぼくが漫画を描いている身だからである。
ありがたいことに、昨年発売した書籍は150名以上の方が買ってくださった。
けれど、「売れた」とは言い難い数字。
その作品に対して、熱のこもった長文の感想を何件もいただいた。
けれど、売れたわけではない。
死後に評価されたで名高い人と言えばゴッホである。
現代では、展示会となれば会場は人で溢れかえるような画家であるが、彼は生前、売れない画家であった。
ゴッホの絵を世に広めたのは、ゴッホの弟テオの妻、ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルである。
ぼくはゴッホの絵が好きである。原画から伝わってくるその迫力に何度も心動かされた。
けれどゴッホ自身、おそらく売れた実感はないであろう。
彼の氣持ちになって考えると、ゴッホは売れていない。
いいものかそうでないかは、知っているか否かの違いなのだろうか。
とすると例えば、アマゾンなんかで見かける、レビューの星5だけが異常に高い商品、あれは本当にいいものなのだろうか。
その類の商品をレビューを信じて買ったことがあるのだが、
評価されているほどの代物とは到底思えない出来で、むしろ星1なのではないかと思うほど拙い商品であった。
同封されていたカードを見て納得だったのだが、そのカードは、星5のレビューを書くと商品代分のポイントがもらえるギフト券の案内であった。
皆、損をしたくないから星5のレビューを書くのであろう。と、思わず想像してしまう。
商品とやり口に胸糞を抱き、その商品は即座に廃棄させてもらった。尚、レビューは書いていない。
批判されるものはいいものではないのだろうか。
再びぼくの話に戻るが、ぼくの漫画作品はたくさんの方に支えていただいている反面、辛辣なご意見をいただくことも少なくない。
SNSが頼んでもいないのに下馬評を透明化してくれるのである。
ぼくの実感として、確かに幾人かの心に届くものを描いているのだが、同時に批判されたりもする。
果たしてこれはどう捉えたら良いのだろうか。
例えば100人に好かれた作品があったとして、けれどその作品は10,000人に嫌われていたとして、果たしてその作品はいいものなのだろうか。
実際には賛否の人数を正確に測ることはできないのだが。
現代のメディアを見渡すと、一部の人がいいと感じても批判の声が一定数集まれば規制がかかる風潮が強くある。
いいものとはなんなのだろうか。
SNSではよく、食べ物や風景の画像にたくさんのいいねが付いて回ってくるが、例えばそういった投稿は果たしていいものなのだろうか。
例えばそういった写真を日頃から専門的に投稿していて、写真にもこだわり、多くの方に支持され、たくさんいいねが付いていたとして、
同じようにこだわった写真を趣味で投稿している人のそれには然程いいねが付いていなかったとして、それはいいものではないのだろうか。
もし、いいものの定義が、〝多くの人に知られていること〟だとすれば、全員いいものを作っているはずであると思ってしまう。
たった1人にでも、心が明るくなるような、悲しくなるような、感動するようなものを提供できたら、きっとそれはいいものなのだと思う。
こんなことをつい考えてしまうのは、ぼくの作品がもっと多くの人に届いたらと思ってしまうからであろう。
もっと知ってほしいのである。評価してほしいのである。
まだ知られていないだけ、と、言い訳じみた心の叫びを吐露したかったのである。
眠れない夜につい、心を駄々漏らしてしまった。
知られていないことを嘆いても仕方ない。
自分が未熟なだけなのだから。
全ては自分次第。
自分を信じて、応援してくださる方々を信じてコツコツと、自分の思ういいものを只管に作っていくしかないのである。
いいものかどうかは、万人にとってどうこうでなく、その人にとってどうだったかを知れたらそれで十分である。
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最後まで読んでくださってありがとうございます。
昨夜、作業詰めで眠れず、シャワーを浴びながら頭のなかで湧いていたことを書き殴ってみました。
3月22日、新作を公開します。
よろしくお願いします。
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