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どうして生きている間に伝えることができないのか


有名人と認識している人へ言葉を寄せるのが恥ずかしい。

なぜだろうか、小学生の頃からそんな氣持ちがあった。

ぼくはジャンプの読者アンケートを送ったことがないし、

YouTuberの動画にコメントを寄せたことも一度もない。

絵は小さい頃から描いていたが、アニメのエンディングで視聴者のファンアートなんかが流れると、

「自分には恥ずかしくてとてもできない」

なんて思っていた記憶がある。




今日、大好きな漫画家さんの訃報を聞いた。

小さい頃から作品を大変に楽しませてもらっている漫画家さんであった。

名前を出して検索で引っ掛かるのも恥ずかしいから、あえて伏せてもいいのかもしれない。書き終わるまでに決めるとしよう。

先生の作品に対しては、夢中になって漫画を読んだ、アニメを見たどころでは終わらない。

学校では作品のごっこ遊びを散々したし、ゲームは何作も買って延々とプレイしていた。絵も真似てノートや机によく描いていた。

先生の描く作品の世界観に存分に浸っていた時期が確かにあった。

けれどぼくは、そんな時代を過ごしておきながら、先生宛にコメントの一つも送ったことがない。



今日のタイムラインには先生に対する感謝と追悼のコメントで溢れている。ぼくの周りの方も何人か、熱い想いを寄せていた。ぼくも、言葉にはならなかったから、簡単にではあるがポストした。

先生が今日のXを眺めることができたらどんなに幸せだっただろうか。

そんなことを思うと涙が浮かんでくる。

言わずもがな、今日のこの言葉たちは先生には届かない。



先生の世界観に浸っていた頃から時は経って、ぼくも漫画を描く身となった。

感想をいただく嬉しさを知ってしまった。

自分の作品へ寄せられる感想を読んだときの嬉しさといったらないのである。

少し大袈裟かもしれないが、この時のために生きてきたのだと、本氣で思えるほどなのだ。

しかし、そんな嬉しさを実感しておきながらも、結局ぼくは先生に一言も氣持ちをお伝えできなくなってしまった。



いつかお会いできたらと思っていた。

先生にお会いしたことのある知人がいて、その人からは「とても物腰の柔らかい方だった」と聞いていた。

ぼくも界隈には携わっているわけだし、何かのご縁でお会いできる機会があるかもしれない、と、

密かに思っていたのであるが、それも叶わない。

今日は先生が亡くなってしまった悲しみのほかに、自分のそういった至らない部分に激しく後悔していたのである。



物怖じしないことにしよう。

有名無名関係なく、伝えたいことは伝えたいときに伝えよう。

そんなことを強く思った。

どうして、感想を送ることを恥ずかしいなんて思ってしまうのだろう。

自分が貰ったら嬉しいくせに。

きっと、自分が大衆化することが嫌なのである。

大好きな有名人にとって、自分がその他大勢の中の1人になることが嫌なのだ。

大好きな人には1人の人間としてしっかりと認識してもらいたいから、その時まではと、か細い期待を抱いたまま、

そのお相手が亡くなってしまう、なんてことが起きるのである。



今の自分は氣持ちをいただく嬉しさを知っているし、応援してくださる方を「その他大勢」なんて認識はしない。お顔もお名前も存じない方からの感想もしっかりと目を通して、感謝をして、しっかりと心動かされている。どんな人からの感想も、嬉しいという氣持ちは変わらない。

何を恥ずかしがることがあろうか。

氣持ちをいただくことは嬉しいことなのである。

どんな方からのそれも等しく嬉しいのである。


自分がどう見られてしまうとか、そんなことはどうでもいい。

こと人間社会において重要なのは、相手に何を与えられるかであるのだから。



人は皆死ぬ。そんなことは誰でも知ってる。

願わくばその前に感謝を伝えたい。

ぼくが今お世話になっている人、作品をよく見ている人、いいねをよく推してる人、

直接は繋がってなくても、SNSやサイトへの書き込み一つだけでも、

「楽しませてくれてありがとう」と。


心動かされたときに、そのままの熱量で、氣軽に送ってみようではないか。


後悔ないように生き切りたい。

大好きな人の死で味わう感情は、悲しみだけで充分である。

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