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痛みを知る前だから、無邪気に突っ走れた話

最近発信を始めて、順調にフォロワー数を伸ばしている人を見ると、思ってしまうことがある。

「ああ、この人はまだ、批判されるということを知らないんだな。」


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2018年5月、僕はTwitterでの発信を始めた。漫画活動の宣伝の一環として、自分の漫画や、価値観を発信していった。最初こそ不慣れではあったが、発信は思いのほかうまくいった。

2年ちょっとでフォロワー数は5000を超えた。

「どうやら僕はそこそこ凄いらしい」ということは自覚していた。僕よりも伸びている人はたくさんいたが、僕より伸びていない人の方が大半だったからだ。

発信は僕にとってプラスでしかなかった。

人には知ってもらえるし、仕事はいただけるし、僕なんかじゃ手が届かないような人からも注目してもらえるし、とんでもない美人がファンになってくれたりする。僕にとってはプラスでしかなかった。だから僕は、周りの活動者には「発信しよう」と仕切りに言っていた。プラスしかないのだから、した方がいいに決まっている。

一方で、発信を続けられない人も何人も見てきた。

発信をしていると、自分と同じくらいのフォロワー数の人を嫌でも意識してしまう。「この人凄い伸びてるな。このままいったら僕超されちゃうな。」なんて思っていた人が、ある時アカウントを覗くと全然発信していない。なんてことがよくあった。

なぜそんな人がいるのかよくわからなかった。「やればやるほど伸びるのに、なんでやめてしまうんだろう。」そんなことを思っていた。


しかし、のちに僕は、彼らの気持ちが痛いほどわかるようになる。

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2020年3月、僕はYouTubeを本格的に始めた。Twitterでウケていた漫画シリーズを動画にして、週2本ペースで投稿していった。「かいちの幸せの見つけ方」という漫画シリーズ。内容は主に自己啓発だ。

滑り出しは順調だった。Twitterのフォロワーさんが後押ししてくれたのもあり、チャンネル登録者数はすぐに100人を突破。再生回数も少しずつ伸びていった。


しかし1ヶ月ほど経ったあたりから、風向きが変わった。


高評価の数より低評価の数が上回る方になってきた。批判的なコメントも増えた。それらのおかげでGoogleから評価されたのだろう。再生数の桁はひとつ増えた。動画への反応があることは、数字の良し悪しにかかわらず、ひとまず評価が上がるらしい。

初めのうちは喜んでいた。批判のおかげで再生数が上がったのだから。「アンチさんありがとう」と、本気で感謝していた。

Twitterでウケていたコンテンツだけに、いいものを出している自覚はあった。「見る人が増えれば数字は改善されるだろう」そう思っていた。


しかし、いくら動画を投稿しても数字は一向に改善されなかった。動画を投稿するたびに低評価の数は増え、批判的なコメントもさらに増えた。

「綺麗ごとを並べてるだけ」
「漫画家舐め腐ってる」
「人間舐めてる」
「漫画家名乗るな」

そんなコメントで溢れる中、毎回長文の批判コメントを書いてくる人も何人か現れた。


批判してくるのは動画の内容とも限らない。僕がTwitterで呟いた内容を拾ってきて、わざわざYouTubeのコメント欄で批判をしてきたりする。


そんな批判的なコメントに耐えながらも、僕は動画投稿を続けた。


「アンチがつくのは有名な証だ」
「僕のために時間を使ってくれているのだからありがたい」
「ありがたい」
「ありがたい」
「続ければきっと、高評価の方が増えるはずだ」


ポジティブな言葉を自分に浴びせる反面、僕の心は疲弊していった。


批判を受けたのは何も今回が初めてではない。以前からTwitterではポツポツと批判は受けていた。5chというスレッドにまとめあげられ、盛大に叩かれたこともある。

しかし、数ヶ月のあいだ執拗に批判されるという経験は、今回が初めてだった。

週2回、動画を投稿するたびに、批判コメントを目にするのだ。ときたま来る批判なら、数日もあれば心は回復するものだが、今回の件は心が回復する時間がない。


まるで世界中の人々が、僕を批判しているような感覚すら味わった。僕はただただ、病んでいった。


僕のTwitterアカウントはbotと化した。


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いつの間にか僕は、常にアンチに監視されている感覚に陥っていた。何かつぶやけば、奴らはまたYouTubeで叩いてくる。

「これ言ったらこう言われるかな」
「これもどうせこう言われるな」

批判が怖くて、意見発信なんかできなかった。


フォロワー5000人のTwitterアカウントは、ただ毎日、漫画とイラストを投稿するだけのbotと化した。

ここまでくると、発信をやめていった人たちの気持ちがようやく分かった気がした。誰かに批判されて、辛くなって、発信するのが怖くなって、やめていくんだ。そう思わずにはいられなかった。そして今度は自分がその立場になろうとしていることも自覚した。恐怖だった。


「ああ、きっと、発信をやめていく人って、こんな感じてやめていくんだろうな」
「おれもそうなるのかな」


今まで積み上げてきたものを失う恐怖だ。


輝いて見えるのは、最近発信を始めたようなアカウントだ。僕も以前はそうだった。自分の意見を発信して、反応を貰えるのが楽しかった。反応を貰えるから、次、また次と、どんどん発信をしていった。

「ああ、この人はまだ、批判されるということを知らないんだな。」


そう思わずにはいられなかった。まるで世界中の人が自分を批判しているかのような感覚。そんな感覚を味わったことがないのだろう。若々しいその姿は、輝いて見える反面、どこか切なく感じてしまう。

できることなら僕だって、彼らのように元気に発信したい。しかし、先の経験が邪魔をする。ツイート画面を開いてテキストを打ち込むも、悪い予測が頭を横切り、打ち込んだ文字を消してしまう。

そんなことを、もう何ヶ月繰り返しただろうか。あの頃の僕は、いったいどこへ行ってしまったのか。


光が、僕の闇をさらに深くする。


✳︎

このままでは終わりたくない。

せっかく積み上げてきた発信力。僕なりに試行錯誤を繰り返して積み上げてきた。ここで0にしてしまったら、今までの苦労が水の泡になってしまう。

僕はネットから消えてしまう。ネットから消えた僕はただの人。僕の存在価値は、学生の頃の値に逆戻りだ。


このままでは終わらない。


現状をなんとか打破しようと、最近は感情を分離する訓練をしている。


人間社会でストレスなく生きていくためには、他人を気にしないのがいちばんだ。他人を気にするから、自分の意思に反する行動をとって、ストレスを感じてしまう。今回の僕の症状もその一例だと思っている。


僕は今、他人を気にする自分を感じたら、排除するよう意識している。


「こう言ったらこう思われる」そんなことを思ったら、思った自分を自覚する。「これは他人を気にするから抱く感情」そう自覚し、「他人は気にしなくていい」と自分自身に言い聞かせるのだ。


「自分は自分」と割り切る訓練。


これを繰り返せば、他人を気にしないクセがつくのではないかと信じている。そうすれば僕はまた、以前のように発信ができると信じている。


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解けたらまた結び直せばいい。気持ちを治すのは簡単ではないが、考え方は簡単だ。また始めればいいのだ。二度と始めなければ終わりだが、また始めればただのお休みだ。どこかで始めればまた続けられる。


僕はもう一度始めるつもりだ。せっかくここまで積み上げてきたのだから、やめてしまうのはもったいない。まだ繋がってる。自分が諦めない限り、道は続く。

人生は全て自分次第。他人軸に囚われていては、道は切り開けない。

精神をコントロールする術を身につけて、僕はもう一度立ち上がる。


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最後まで読んでいただいてありがとうございます!普段は漫画家として活動しております。良かったら漫画も読んでいってみてください!




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