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回復について

大人になればなるほど、あの時の自分では力になれなかった、という後悔が増えていく。
し、私にとって心に残る後悔は親密なひとの「回復」に対する部分であることが多い。
自分の身体、ジェンダー、あるいは家庭環境に大きなコンプレックスを抱えていたり
あるいは精神的に深いところまで落ち込んでしまった、大切な人の死、そのひとたちのそばにいるときに、無力を感じ、私に何ができるのか考えてしまう。
一方で、そういう場所から距離のある状態で、他者がそのように落ち込んでいるのをはたから見るときは、自分はこんなに後悔しているのに、その人が落ち込む必要なんて全くないのに、背負っちゃうのも一つ身勝手だよな、と自分でも引くほど冷徹な視点も持ってしまうのである。

ただ実際、そこにできることは何もないとも言える、冷たい言い方かもしれないけど、結局は友達が転んで膝を擦りむいても私の血小板をその場で分け与えることはできないのだから、その人自身が癒えて、みずから回復していくのを待つしかできない。友達に血小板をあげられないことを私が苦しんで傷ついてしまうのはちがうように、その距離を見誤っては行けないのは確かなのであるが。
(だからこそKing Gnu「hole」の”僕が傷口になるよ”という歌詞は人の心をよく写していて美しい。)
それでも、転んで泣いている子を前になにか助けたい、という気持ちはその相手が親しければなおのこと生まれてくるのは自然だろう。
ただ、傷つきから助けたいのであれば、どのように痛いか話を聞いてあげるのか、抱きしめてあげるのか、水道に一緒についていくのか、ばんそうこうを渡すのか、マキロンを渡すのか、歌を歌ってあげるのか、お風呂で滲みるよねーあれイヤだよねーって共感するのか、あるいは、自分が転んで回復したまでの過去のエピソードを話してあげること。どの助けが適切なのか、が重要である。
そこには私がどの助けを「したいか」は必要なく、今どの助けが「必要か」でしかない。

感情ではなくて理論と技術が必要なのである。

もし私に理論と技術があれば、少しはなにかできるのかな、そして後悔に対して前進できるのかな、と思う。
もちろん、何かできるとしても全ての助けになれるわけじゃないし、それはそれで「もっと何か出来たはず」という思いは生まれるだろうけど。無力や後悔を自分自身に引き受けるための諦めもまた、できるできないがはっきりしないと訪れない。技術をもって。