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自粛前最後にみた映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』

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新見直

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KAI-YOU Premium Chief Editor
1987年生まれ。サブスクリプション型ポップカルチャーメディア「KAI-YOU Premium」編集長/株式会社カイユウ取締役副社長。ポップリサーチャーとして、アニメ、マンガ、音楽、ネットカルチャーを中心に、雑誌編集からイベントの企画・運営など「メディア」を横断しながらポップを探求中。

Editor’s Letter#1 自粛前最後にみた映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』

※2020年6月3日に配信されたメルマガに掲載されたものです。

映画館も営業再開に向けて動き始めている。最後に映画館で観たのは『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』だった。

三島由紀夫を知らない人でも十分すぎるほどスリリングな「当代最高峰の知の応酬」がそこに収められていて、その背景を解説してくれるコメンテーターたちの話も上手く挿入されていて、監督の腕だなーと思った。

特に、小説家・平野啓一郎のコメントが巧みだった。デビュー当時「三島の再来」とも言われ、彼自身も三島由紀夫論を書いているほどの三島由紀夫フリークであるため、その考察もさらに鋭い。

解説を含めて映画全体として親切な構成をとっているので、『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』は前知識なしで楽しめる映画になっていると言える。

6月から全国で再び上映が始まっている本作。正直、その議論のたぶん10分の1も俺は理解していないだろう。けれど、それでも観る価値がこの映画にはある。

1969年。学生運動の真っ盛りだ。表面的には真っ向から対立してるはずの左翼の急先鋒である東大全共闘の学生1000人を前に、天皇主義を掲げ楯の会を結成するほどの右翼・三島由紀夫が1人、その壇上にたった。この映画は、その歴史的な一幕をカメラにおさめている。

1000人が待ち受ける敵地に1人乗り込む、そのヒロイズムこそが実に三島らしいわけだけど(実際は何か起きた時のために楯の会メンバーが客席に潜伏している)、彼がその冒頭で問うたのは、その思想の隔たりではなく、言葉の有用性について、だった。

「言葉というものが、ここで何ものかの有効性があるかもしれないと」それをこの場に、問いに来たのだと語り始める。

“ここで”というのはもちろん、何が起きてもおかしくないその壇上で、という言外のニュアンスを含んでる。

かの有名な東大安田講堂事件。立てこもった東大全共闘の学生が最終的に機動隊の前に封鎖解除されたあの事件からたった4か月後、1969年5月、学生運動真っ只中の東大駒場キャンパスだ。

学生にとっても、ここで1発カマして勢いを取り戻さなきゃいけない大一番である。だから、圧倒的支持を誇った当代きってのカリスマ・三島由紀夫を指名して呼び出したわけだ。

「三島を論破して壇上で切腹させる」とまで嘯いていた東大全共闘の血気盛んな学生1000人と、楯の会メンバーも複数潜り込んでいたとは言え、壇上で三島の味方は自分ひとり。

フィルムから伝わってくる異様な緊張感の中で、彼がその1000人に問いかけ続けたのが、冒頭で引用した言葉の有効性についてだった。

自分の言葉は、現実に影響しうるか、という問い。作家として大成して、ノーベル文学賞候補にも選ばれてなお、彼が芸術のみに留まらない言葉の有効性を最後まで問い続けたのは、この東大全共闘の討論からも、その1年半後に割腹自殺する直前まで市ヶ谷の駐屯地で自衛隊員に奮起を呼びかけた最後の事件からも、明らかであるように思える。

言葉と言葉との、文字通りの真剣勝負。

入れ替わり立ち替わり現れる東大生を相手に、長い討論の間、三島は一度も学生をやり込めようとせず、話を遮らず、遮られても根気強く語り続け、何度野次られても怒らず野次にも向き合う。本編で内田樹が言うように、確かに三島は1000人を“説得”させるつもりであるように見えた。

「どこまでいっても社会を変えるのは言葉。言葉がない限り社会システムは絶対変わらないから」。だから、言葉を突き詰めていくことの重要さというものが、あの議論の核心だったと看破するのはやっぱり平野啓一郎その人だ。

「私は、右だろうが左だろうが、暴力に反対したことは一度もない」と三島は言う。言いながらも、その暴力の本質とは肉体的な暴力ではなく、言葉が宿す暴力であることを言外で示していたように思えてならない。社会に手を伸ばそうとするものは常に言葉で、目の前の他人に働きかけるものも常に言葉でなければならない。彼は決してそんな言葉を口にしてはいないが、自分には、三島由紀夫が学生の前で演説をしている間ずっと、声にならないそんな言葉が聞こえてきていた。

なぜこの2020年にあの討論が上映されるのか、鑑賞するまでは不思議でならなかった。けれど、すでに観た今なら、その意図がよくわかる。

三島の演説からは、彼が最も敵視したものが見えてくる。

「自民党も共産党も、学生の厭戦思想につけ込んで、筋や論理はどうでもいいじゃないか、とにかくわれわれの生きているこの社会のただ当面の秩序が大切だ」という空気。それをこそ、三島は唾棄した。

そして三島自身が認める通り、実はこの点において、右左という区分は意味をもたず、自ら思考して決断することをしなくなってしまった腑抜けた日本という共通の敵が立ち現れる。学生の自治を主張し、戦争に反対し続けた東大全学連も、突き詰めれば、本来の意味でのナショナリズムだった。

そしてもう一つ、このドキュメンタリーが浮き彫りにした、2020年に公開される意味性を最も強く放っているのは、まさしくその、時の流れ、にある。

三島は死に、当時、東大全共闘との討論の場に潜伏していた楯の会の森田必勝も、三島の切腹を介錯した後に自害した。そして全共闘の面々は、50年後の姿でカメラの前に立っている。

歴史という観点から見た時、革命というのは、必ず敗北すると三島由紀夫は言った。あくまで現在は時の流れの一角であることから逃れられないのだという彼の主張に対して、学生らはこう言った。自分たちには歴史など意味を持たない、今この瞬間に、事物の関係を壊して新しい空間を顕現させることこそが自分たちの革命なのだ、と。

奇しくも、時の流れを否定した彼らが今もなおその生を生き、時の流れ、歴史の重要さを説いた三島が今はもういない。これはまったくもって皮肉などではなく、その事実をどう受け止めるべきかを考えていきたい。

彼が割腹自殺する朝、最後の原稿を書き終えた遺作『豊饒の海』が、時の流れそのもの、つまり人間の営為自体を否定するかのような不穏なテーマだったことも、一筋縄ではいかない奥行きをこの映画に与えている。

元全共闘のメンバーには、現在、老いてなお舌鋒鋭い御仁もいれば、いかにも好好爺になってるメンバーの姿もあった。しかし、全共闘運動は敗北したのかという問いかけに、人の良いおじいちゃんの目の奥に、一瞬の火が宿るのを見逃さないでほしい。

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