漫才とかけて、ヒップホップとときます。
※2020年12月23日に配信されたメールマガジンに掲載されたテキストです。
「漫才はそこで嘘ついたら一切ウケへん」。
これは自分の好きなナダルという芸人の言葉だ。
例年この時期、お茶の間では歌番組とお笑い番組が盛り上がっていて、今年は自分も例年以上に「M-1」を楽しんだ。
ナダルもお笑いコンビ「コロコロチキチキペッパーズ」(コロチキ)としてM-1に出場し、準々決勝を敗退した。
コロチキは、その敗因について、自分たちのYouTubeチャンネルでそれをガチで振り返っている。
ナダルという芸人は、保身のために平気で嘘をつき、他人を貶め陰口を叩くことを一切躊躇しない。絶対通らない嘘をそれでも強引に通そうとし、バレれば開き直る。その言動はクズというよりもしばしば常軌を逸してさえいる。
コロチキの2人は、M-1敗退を振り返りながら、今の自分たちが漫才をする難しさを語っている。
バラエティ番組でナダルの異常性が暴かれネタにされて以降、ナダルという芸人の人間性(もちろんそれもバラエティ上の「キャラ」である)が、コントの設定上の「キャラ」を“食って”しまうことがあるという。
異常なナダルというバラエティでの「キャラ」が浸透したことで、ウケるポイントも増えたが、できなくなったことも増えたと。
しかし、完全に架空の舞台と設定が用意されたフィクションとしての「コント」では、この世界観の中では「こういうキャラです」と芸人が提示して観客がそれを飲み込むことで、演じる芸人がたとえどんな人間だろうと、理論上はどんなネタでも成立できることになる。
ただ、漫才はそうではないと。「漫才は、『それは演技でやってるやん』ってなったらウケへん』」とナダルは説明する。
だからこそ、本人たちが言う通りこれまで「正直誰がやっても成立するネタだった」ところを、「異常者のナダルと相方の西野」というお茶の間でのキャラを取り込んだ漫才で挑んだのが今回のM-1だった。
今回敗退してしまった理由については、会場の空気に「呑まれた」「客が重かった」といった分析を冗談混じりにしていたが、もう一つ自分たちが突き抜けるためには、相方・西野の“キャラ”を漫才に取り入れることではないか、と彼らは語る。
テレビではナダルの影に隠れているが、コロチキのYouTubeチャンネル・よろチキの視聴者にはよく知られている通り、実は、YouTubeでは西野の腹黒さこそが遺憾なく発揮されている。
そのキャラが発揮された時、初めて「ナダルと西野の漫才」ができるはずだと2人は話す。
これは言い換えると、コントはフィクションだけど、漫才は“リアル”でなければウケないという理論だ。
この一連の話について、ヒップホップでも似たようなことが言える。
MCバトルはもちろん、その楽曲において主語が一人称であることは、“リアル”を志向するラッパーの条件の一つだ。
自分がこうだと思っている自分、自分がなりたい自分、他人から映っている自分、他人から求められている自分、そのすべては少しずつズレていて、同時にそのどれもが本来は“自分”であるはずだ。
しかし、生身の自分を(キャラとして)晒け出す時、いかにもそのすべてが合致しているかのように見せなければならないというジレンマが、ヒップホップをややこしくしている要因の一つだと思っていて、そのジレンマが漫才にもあるというのは、逆説的だけどすげー面白いなと思った。
生身の人間による演目は、どんなものでも必然的にある種のリアリティが要請されてしまうものだとは思うが、その複雑さと文脈依存度の高さにおいて、ヒップホップとお笑いには類似性を認められるのではないかと思った。
でも、じゃあなんで両者がここまで桁違いに需要のされ方も母数も異なるのか。それはまだよくわかってない。 M-1面白かった!
新見直
KAI-YOU Premium Chief Editor
1987年生まれ。サブスクリプション型ポップカルチャーメディア「KAI-YOU Premium」編集長/株式会社カイユウ取締役副社長。
ポップリサーチャーとして、アニメ、マンガ、音楽、ネットカルチャーを中心に、雑誌編集からイベントの企画・運営など「メディア」を横断しながらポップを探求中。