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ホットチョコレート@Vancouver

ある夜だった。電気ケトルでお湯を沸かす。グリーンのパッケージの、見慣れたホットチョコレートのスティックをオレンジのマグに入れ、お湯を注ぐ。最後に少しだけミルクを入れるとそれっぽくなる。ちょっとぬるくなるのもいい。なみなみに注いだオレンジ色のマグを手に、音を立てないよう静かに階段を下りる。結構な頻度でカーペットにつま先をひっかけそうになるので、慎重に進む。音が立たないようにドアを開けて閉め、マグをベッドサイドの木のテーブルに置く。底の下に小指を挟んで置くと音が立たない。スリッパを脱いでベッドによじ登った。

クイーンサイズのベッドには、深いブルーで統一されたフランネルのシーツとカバーがかけられ、たっぷりと厚みがあるが、頭を置くと沈むまくらが、2つ置かれている。まくらをクッションのよう立てて持たれながら話すのがお決まりだった。部屋の電気を消し、机の上のランプをつけると暖色の光が壁に映り、自分の影が拡大されて入り込む。声を落とせば、なにか秘密めいたことをしている気分になり、心がときめいた。こちらと日本では半日ほどの時差があり、こちらが夜なら、あちらは朝だった。そのどちらかに、私たちは必ず話をした。

抱えているものの暗さ、重たさが同じだった。お互いに家族とあまりうまくいかず、社会に対して斜に構えながら、一方で心を許せる相手を切望していた。世界を生きていくためにひねくれすぎて、自分の辛さをわかってくれる人など誰もいない、と自ら孤立を選んでいたのも同じだった。意気投合するのに時間はかからなかった。

砂漠でようやく見つけた水を飲むように、私たちはとにかく話をした。何時間でも。話の内容が合うのはない。言葉の源にある怒りや悲しみ、惨めさ、渇望、拗ね、そういう重たいものを、お互いが無意識でキャッチして、披露しあい、慰めあっているような感じだった。それはとても薄暗く、救いようのない作業だったけれど、私たちはそれくらい、自分自身が嫌いだったし、何より、すべてを世界のせいにしてしまいたかったのだった。どんなに重くとも暗くともそれは心からの本心だったから、私は深く満たされていた。その感覚は、生まれて初めてと言っていいくらいだった。理解し、理解され、受け入れ、受け入れるということはこんなにもあたたかく、安心があり、心がこぼれそうなほど満たされることを味わって、幸せしか感じなかった。話が途切れても、その沈黙にすら自分が癒されていくのを感じた。

いつものように、話をする。たわいのない話から、いつの間にかこれまで誰にも話したことのないような、でも本当はずっとだれかと共有したいと思っていことを、話していた。なんとなく話が途切れたとき、ある女性シンガーの歌をうたった。彼女はものすごく売れている人で、どの曲にも何かしらのタイアップが付くような大物だったけれど、哲学的で、きっと奥の方に何か真意があるんだろう、と感じさせるような詞を書く。でも、その時、私の唇から出てきたのは、彼女の曲にしてはストレートな、愛の歌だった。

誰かに歌をうたってもらったのなんて初めてだ、と電話の向こうの人がぽつり、と言った。私の部屋は半地下で、通信環境は良くなかったけれど、雑音のように聞えてくる微かな音や、途切れ途切れになる声は、その人が泣いていたからだと思う。その人が私の前で涙したのは、これが最初で最後だった。

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