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体感と本能と感情

私にとって体感とは、本能だ。

誰かに恋をするときは、頭や心よりも先に体が気付いている。ふわっと心臓のあたりが浮くようなあたたかさや、普段の1.5倍くらい血流が良くなるような興奮。
恐怖を感じるときは、体全体、特に外側と心臓のあたりがピリピリと痛んで緊張する。
不安も恐怖と似ているが、もっとぼんやりしている。頭がぼうっとして、体全体がすこし麻痺しているような、じわじわグレーの空気が肺から全身にまわっていくような感じ。

生命維持にスイッチを入れるような、体がこれは危機と感じるものの方が、体感は強いし残りやすい。生存本能というやつなんだろう。

一方の、幸せとか嬉しいとか、いわゆる「ポジティブ」と呼ばれるものは、説明が難しい。
瞬間的に、胸のあたりがあったかくなる。以上。じわじわ続くものもあるけれど、刹那的な興奮に近い気がする。
ん、これはなんだろう?とじっと観察しようとするうちに、つかみ所がなくなることが多い。こちらは脳からすると安心とか安全に近く分類されるだろうから、あまり強い刺激でなくてもいいのかもしれない。

恋だって、脳内物質的には一種の興奮だという。生殖に繋がることだから、これも生存本能に直結しているんだろうと思う。

では、感情は?
これが難しかった。正直、今もまだよくわかっていない。私は先に体感が来る。それを人に伝わるように言葉で表現したのが、「感情」と呼ばれるんだろうか。

感情は心で感じる、という。心という臓器は人間にはない。一番近いのは心臓だろうか?「胸が苦しい」という表現は、一般的だと思うし。
まだ小さくて語彙も表現力もなかった頃、私は体感をそのまま伝えていた、と思う。基本全部、痛かった。ここが痛いとかあそこが痛いとか。一事が万事そんな感じだったので、体感を「感情」まで翻訳することができず、他人に理解してもらうことが難しかった。

わかってもらえない、という絶望感を、今も覚えている。イコール、人にわかってもらえない、と紐付けてしまったのがよくなかった。まだ無意識には残っているかもしれない。

noteなど、自分のことを思い出しながら書く時、その時の場面を思い出し、visualizationすると、映像と体感は出てくる。感情はではない。例えば、母に怒られている場面を思い出せば、血の気が引いて心臓が痛い私が見える。でもそれが怖いなのか不安なのか緊張なのか、一言で、あれね、と伝わるような言葉にはなかなか置き換わらない。

でも感情って、月並みな表現だけど、人それぞれ違うんだと思う。私が「嬉しい」と思うことを、嫌だと思う人だっている。同じ「怖い」でも、感じていることまで完全に同じことはないと思う。
「これ=これ(感情)」という法則は、それぞれの人の過去や経験によって決まる。過去や経験は、完全にユニークだ。例え家族として過ごしても。双子であっても。体は別の個体なんだから。

結論はない。
わかっているのは、私は「感情」を伝えるのが得意じゃないってこと。あとこれは「感情」で伝えられるけど、とっても怖い。伝わらないんじゃないか、というのが今もある。

体感から感情への翻訳がうまくできない。しかも同時通訳も不可なので、時間が欲しい。でも有り余るほどの体感はある。文字通り抱えていたら死んじゃうんじゃないか、というほどの。

でも、私は「感情」を出したい、と思った。すごく。なのでnoteをはじめた。考えはいくらでも書けるけど、今の私がものすごく求めているのは感情の発露だと感じだから。
とりあえず、書いてみる。苦手だけどやってみる。伝わらなくても、正直に。

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