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My journey : 5rhythms-elements at Chiang Mai, Thailand

タイ、チェンマイの少し郊外。
初めて来た場所。初めて会う人たち。

舞台は自然の中にある。
冬の東京でいかに自分がちっちゃく体を固めていたかに気がついた。
夏のような太陽を、あますところなく浴びたい。
陽ざしがあたたかくて、関節がゆるゆるとほぐれていく。

踊る、というより、ひたすら体から生まれる振動に身をゆだねる。

身体が起きた。

踵が地面につく。土踏まずを通り、爪先へ。
音楽が当たる。耳から首の横を通り、肺を抜けて腹へ落ちていく。
呼吸をそのままにしていると、勝手に体が揺れはじめる。
体の中心の、胃や心臓のあたりで始まった振動は背中に伝わり、そのうち腕や脚や首や髪や、外へ外へと広がっていく。

そうなるともう思考はどこかへ飛んでいる。何かを考えることもなく、身体は振動の通りに動いていく。
ただ、思考は消えてなくなることはなく、時々ふっと、どこかから私に着地して、おしゃべりをして、またどこかへ飛んでいく。
その時の思考のおしゃべりは、ちょっと面白い。
今日の晩御飯はなにかなぁ、おみやげどうしよう、あの子はなにしてるかな。あちこちに、ぽんぽん飛んでは帰ってきて、どうでもいいことをぐるぐる話す。普段、「身体の王様」のように君臨している思考が、いかに適当かがよくわかって、ちょっと笑ってしまう。

とにかく気持ちがいい………
足の裏で地球の熱を感じる。地面の、土のそのもっと奥深くに、溶岩が流れている。その音まで聞こえてくる。
溶岩の流れと、私の身体の血液の流れは似ている。血が、ばくばくしながら踊る音と、溶岩が海の底でどろどろ溶けて流れていく音が混じって、編まれていく。
身体がどんなに外側に向かっても、地球の中心に引き戻される。
私の身体が重さを持っているから。
どこへ行っても大丈夫。そして、「ここにしかいられない」。

胃と心臓のあたりに小さな火種がある。そこから紙縒りのように踵へむかって一本の細い紐のようなものが伸びている。掌でゆっくりと風をおくると、火種は小さな炎になり、ちりちりと花火のように火の粉を散らす。黄色と橙。紙縒りをゆっくりと下に向けて辿り、踵までたどり着くと地面に着火して、ぼうっと山のように炎が燃え上がる。
とても静か。動くと風に揺れるけれど、ぶつかってみても、あまり形は変わらない。柳のようにしなり、火の粉がこぼれるだけだった。
もっと分かち合ったり、影響を受けてみたり与えてみたり、ひとりではないことを、味わってみたかった。

身体のほとんどは、水でできているらしい。
身体が揺れるのは、水が揺れているのと同じ。水の分子の振動の激しさで、個体と液体と気体を行ったり来たりする。だから本当は、私も氷や海や空になったりできるのだけど、皮膚があって包まれているので、その内側で変化する。その薄い膜が、ちょっともどかしい。内側から押すと少しだけ外側に膨らむけれど、破ることはできない。
隔たりがあるから、その内側が私なのだけど、私が「ある」から、愛しい海と一緒になれない。本当は、私は海に還りたい。
少しでも海に近づきたいから、揺らす、どんどん早く強く揺らしていく。私は波になり高く低く揺れ、振動のふり幅を上げていくと、空に近づいていく。でも「その先」へはどうしてもいけない。身体があるから。
身体があるから、私は私を揺らせるけれど、身体があるから、「その先」へはいけない。もどかしい。でもそのギリギリを踏む、すこし線を越えそうになる瞬間が、たまらない。

肩から腕が伸びている。手首の先から指を視線でなぞると、花が舞っていた。
「外」の風にあおられて私が揺れると花が舞う。花びらが散る。ただただ、風にゆだねる。いろんな場所に、連れていかれる。何もしなくても、何も決めなくても。流される。素晴らしいバレリーナになった気分。軽いけれど重力と仲良し。無理も歪みもない。

呼吸に気づく。
私は呼吸をして、外の世界とつながっていることを思い出す。吐いて、吸う。 出して、入れる。 与えて、受けとる。
一方通行はそこにはない。どんなに頑張っても、吐くだけ、吸うだけではいられない。
地球や火や、水や風の質感もどこかへ行って、内側が空になる。外と内を隔てる膜が石の城壁のようになって、内の音を反響させる。
小さな振動も、波紋のように広がり、大きくなって還ってくる。
溶岩が火山に溜まって噴火するみたいに、
小さな火種が大きな花火になるみたいに、
一粒の水滴が空の一部になるみたいに、
そよ風が竜巻に力を吹き込むみたいに、
私が大きくなっていく。「重さ」から離れていく。

そうしてついに、私は「内」をじわりとはみ出して、「外」へ滲んだ。
何かとはわからないけど、「一緒になりたい」と感じた。
これまではむしろ「一人で/独りで」いたかったから、ほとんど初めての感覚で「ただそう感じた。」以外に表現が見つからない。

思考で「枠」を作っていた。
「枠」の内側は、自分で触って確かめて、安全だと「決めて」いた。
国とか社会とか常識とか、いろんな表現が当てはまりそうだけど、はっと気づいたのは、「選んで決めた『枠』」だということ。誰が私にそれを選べといったわけでもない。私が、自分で選んだもの。その中は安全だと「私が決めて」いるので、安全が実現している。
でも時々私は安全を退屈に感じる。
外には何がある?誰がいる?
そしてまずは外に触れようとして身体をのばすと、だいたい「枠」にぶつかって痛い!となり、内側へと引き返す。またしばらくして、身体をのばしてはぶつかって戻る、そのパターンを繰り返す。そのうち心底嫌になって、泣きながら「枠」に頭突きして飛び出すこともあるけれど、その時にはすでに満身創痍。脳震盪から回復するまで、結構な時間がかかる。

「枠」から飛び出す手段はいろいろあるのだろうけど、正直に言おう。
私はなんでか「しんじゃえ」という自暴自棄な方向へ行きそうになることが、とても多い。でも、それはそうじゃないんだなぁ、とこれも初めて思った。
「枠」の外に興味を持ったときの私の一部は、確かに「もうこんなのいやだ、還りたい」という拗ねた気持ちがある。手足が邪魔だ、身体なんていらない、と初めて思ったのは、まだ年齢が一桁の頃だった。
覚えていないけど、「しんじゃえ」は「前回(か、もっと前)」にやったことがある気がする。
今回は「(前回かもっと前と)同じ地点からハードモード」で開始していて、これまでやったことがないことを、体験してみたいんじゃないかなぁと、うっすら、感じる。

思えば、そもそも5rythmsを知ったのは、「自分のやりたいこと、好きなことがわからない」という長年の悩みからだった。何でもいいけど、とりあえず好きでたまらなくて、それ以外目に入らなくて、「それさえやっていれば」良いこと…私は、どこかにある「枠」を見つけて、安全の中で安心してダラダラしていたかった。もう「しんじゃいたい」と思わなくてすむように。心臓を吐き出しそうなほど、それがほしかった。本当に。

でも残念ながら、本当に残念ながら、「今回」私がやってみたいことはそうじゃないみたいだ、と薄々気がついてきた、気がする。
やったことがあることや出来そうなことではなく、「未知のもの、知らないもの、やれるかどうかわからないこと」をやってみたくて、来ちゃったんじゃないのかなぁって。
それって、すーーーごいしんどい。そんなの、ぜんっっっぜん好みじゃない。
でもこの数年、泣いてぐずって、すっ転びながらやってきたことって、そっちだったなぁ、と思うので、たぶんそうなんだろう。
だからもう仕方がない。還りたいと思うけど、「今」還ってしまったら、また「次回」があって、「今と同じ地点からさらにハードモード」になるんだろうから。それはもうごめんだ。

もう少し、旅をして、いろんなところに行っていろんな生き物にあって、食べて寝て愛して愛されて、泣いて怒って笑って、生きてみようか。
身体が地球に、還るまで。

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