見出し画像

日本:ゼノ・ゼブロフスキー修道士の日、ポーランド大使館にて

Japan: Brother Zeno Żebrowski Day at the Polish embassy in Tokyo

1950年、ポーランドの宣教師フランシスコ会修道士ゼノ・ゼブロフスキーによって東京に設立されたホームレス支援団体『蟻の街』の理事会は、4月24日に2つの記念日を迎えた。ゼノ・ゼブロフスキーは1930年のこの日、来日し、50年後のこの日に永遠に旅立った。


『ゼノ・ゼブロフスキーの日』が、東京のポーランド大使館のT・ロメール会議室(the T. Romer)で開催された。そこで彼の活動を紹介する展覧会が開かれ、ポーランド人宣教師の甥で、ボストン出身のフランシスコ会士でもあるイェジー・ゼブロフスキー師(Fr. Jerzy Zebrowski OFM Conv.)が彼の思い出を語り、『ポーランドからの風の使者ゼノ』と題されたミニミュージカルが上演された。都内のカトリック学校の合唱団が小さなコンサートを開き、2曲が聴かれた。ショパンの曲がピアノ演奏された。大使館はまた、招待客のほとんどが日本人であったため、ポーランド料理の試食も用意した。

来賓を歓迎して、パヴェウ・ミレフスキ大使(Pawel Milewski)は、遠くボストンから駆けつけてくれたイェジー・ゼブロフスキーに感謝の意を表した。彼は、1920年にシベリアの地獄からポーランドの孤児を救出した日本人と、戦争で荒廃した日本でホームレスの子供たちを救出したポーランド人宣教師を導いたのは『人道主義(humanitarianism)』であると指摘した。

続いて、ゼノ修道士に捧げるゼノ展を、東京のポーランド研究所/文化会館(the Polish Institute)のユスティナ・ログスカ(Justyna Roguska)副館長と、1998年に出版された『風の使者ゼノ』の著者である作家の石飛仁氏が紹介した。石飛は、日本の天皇が1947年に長崎近郊の大村にある孤児院を訪問されたこと、その孤児院もポーランドのフランシスコ会によって設立されたものであったことなどを指摘した。その時、「日本とポーランドの関係にまったく新しい1ページが開かれた」のだという。

叔父についてイェジー・ゼブロフスキーは、「クルピエ地方スロウェ(Surowe , Kurpie)の家族の記憶よると、最初、将来の宣教師は実業家になり、自分の才能をポーランド復興に捧げようと考えていた。しかし、彼は自分のなかに宣教師としての天職を見いだし、その才能を日本でホームレスの子供たちを救うことで発揮することができた」と語った。1971年、まだ少年だった彼は、ローマで行われたマクシミリアノ・コルベの列福式でゼノに会い、「人生で大切なことは何か」と尋ねた。ゼノは「善良な人間になることだ」と答えた。

その有名な修道士の甥は、「その言葉は私の心にずっと残っている」と打ち明けた。「東京へ出発する前、ボストンを出発する飛行機の時刻を間違えそうになった。出発は実際には真夜中過ぎなのだが、出発時刻の小さな文字a.m(午前)を見逃していた。その時、友人から電話があり、荷造りする時間が15分あることがわかって、間に合ったが、これも今日、皆さんと一緒にここにいることを望んだ叔父の心遣いの表れだと思う」と述べた。

特筆すべきは、日本の若者たちの参加である。劇団『自由の翼』はミニミュージカル『ポーランドからの風の使者ゼノ』を上演し、東京・高円寺にあるカトリック高円学院の女子生徒たちは数曲を歌った。また、そのうちの2人がフレデリック・ショパンの曲を2曲演奏した。聖マタイによる福音書5章13節から16節にある主イエスの言葉をもとにした『Be a light(光となれ)』を、このような大人数の前で日本語で歌うことができた喜びを、彼女たちはカイ(Kai)のインタビューで語ってくれた。

ゼノ・ゼブロフスキー(1898年生まれ)は、マクシミリアノ・コルベとともに日本へ宣教に赴き、1930年4月24日に長崎に到着した。到着後すぐに、『聖母の騎士』の日本語版印刷を開始。彼はまた、長崎に『日本のニエポカラノフ(Niepokalanow)』と呼ばれるカトリック修道院の設立にも関わった。この場所が選ばれたのは、ルルドの洞窟に適していたからでもある。第二次世界大戦が終わると、修道士は地元の子供たちのために孤児院を組織し、ホームレスのための施設を設立し始めた。


その活躍ぶりは、日本政府が彼に列車やバスの交通手段を無料で提供するほどであった。日本人は彼に孤児のおじさん(Uncle of Orphans)の称号を与えた。彼は孤児たちにこう言っていた「聖母に祈りを捧げれば、誰でも良い人になれる」。ゼノは、神の僕、北原聡子(さとこ)とともに活躍した。両者とも、特に爆撃で破壊された東京の孤児たちを支援する、廃品回収者の共同体『アリの街』の発展に大きく関わった。1969年、彼は天皇から勲四等瑞宝章を授与され、1979年にはアドルフ・リシュカ(Adolf Ryszka)と富樫一(とがしはじめ)によって富士山の麓に彼の記念碑が建てられた。1976年、ポーランド政府はゼノに功労金十字章(the Golden Cross of Merit)を授与した。1982年4月24日帰天。

Tokyo/Fr. jj

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?