なぜ感覚は敏感に機能するのか

【注意】---
これから書く内容は医学的な根拠に基づいたものではなく、ぼくの経験的に思ったことです。
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人は五感を持ち、その感度は人それぞれ強弱が異なる。

その中でも、どれかの感覚が異常に強く反応してしまう人がいるだろう。
聴覚過敏で生活に支障が出たり、あるいは慣れてしまって、平気になった人、平気なふりをしている人。平気になったり、平気なつもりでいる状態が、本当に好ましい状態なのかどうかはわからない。

ぼくが聴覚に違和感を覚えたのはいつ頃だろうか。はっきりしたことは覚えていないが、少なくとも大学では困っていた。少しでも騒がしい場所では、人の話を聞き取ることができなかったのだ。様々な情報を拾い上げ、本当に欲しい音に集中できない。大学時代、ぼくは音ゲーにハマっていた。ゲーセンには様々なゲーム筐体があり、その爆音が混ざり合い、音を判別するなど不可能なほどの雑音であふれている。ぼくにとって音ゲーとは、そこそこ優れた機能を果たしていた動体視力を生かして、飛んできたノートを叩くゲームだった。音ゲー筐体から流れる音楽が聞こえていたことはほとんどない。

人の話を聞き取れないのは致命的で、滞りのない情報伝達に齟齬が発生してしまう。何度も聞き返しても良い場合にはそうするが、大抵は申し訳なくなり、聞き取れないままその場を終え、後で困ってしまう。最悪だ。ぼくが対人関係を苦手としている理由も、実はここにもあるかもしれない。ちなみにゲーセンでは、同じゲームをする人同士で仲良くなったり、コミュニティが出来上がったりする場合があるようだが、ゲームの音さえも聞き取れないぼくがゲーセンで人と会話をするなど不可能で、同じ趣味を共有できる人は欲しかったが、結局は居心地が悪くなり、足が遠のいた。

他には触覚がかなり敏感で、触れられると過剰に反応することもあるし、常に体のどこかが痒かったりする。これは小さい頃から気づいていたものの、痒いというのは不潔な印象もあるため、なかなか問題として外に出すことができなかった。肌に合わないなどの理由から着られる服に限りが出始めた頃から、ようやく親などに伝えることができたが、解決はしていない。

今は自律神経の乱れなども加わり、目が光に弱かったりもする。長時間輝度の高い画面を見ていられないので、文章を打ったり、ゲームをするのも一苦労なことがある。

題名の「なぜ」に言及しよう。なぜ、こうも感覚が適度に機能してくれないのか。
ぼくは、実はその感覚が各々にとって適切に機能しているのではないかと思う。
感覚が異常な反応を示すのは、自分に危険が迫っている信号だと思う。

「これ以上その感覚を刺激して不快感をあなたに与え続けると、あなたの頭や心は疲れ切ってしまう」

各々が自分に取り込んでも良い情報量の限界を、感覚が伝えてくれているのではないだろうか。感覚過敏は、しばしば、何かしらのハンディキャップを持つ人や、自律神経が乱れている時などに強く表れる。これらの状況下に置かれている人は、人並み以上に疲れやすい体質の持ち主だと思う。それは、何か感覚的に強く不快感を得続けていたがゆえではないだろうか。だから、感覚が異常にはたらく時というのは、あなたが疲れてしまわないように、そこで今やっている作業などをやめるように、信号を出してくれているのだと、ぼくは思っている。

おそらく、その感覚の暴走により、日常生活が困難であったり、学業や仕事などの社会活動を継続することさえも不可能になってしまう人もいると思う。そして「なぜ自分はこんなに何をするにも疲れるのだろう」と悲観的になる人もいるだろう。

人間は、生き物は、長い時間をかけて進化している。
その進化の過程では「今の地球上でこの感度の五感を持つ人間はどのように適合できるだろうか」と、自然が試しているかもしれない。だから、生活が困難な感覚を持ってしまう人が現れるのもまた、地球から見れば仕方のない自然な出来事だろう。ぼくは、そのように諦めている。ぼくにとって、五感が信号を出すほどに同種である人間に近寄られることは、自分に危機が迫っている証だ。

進化の過程だと思えば諦めこそつくが、だからと言って苦しんでいて良いとは思わないし、苦しまなくて良い方法があって欲しい。

時々、都会の騒がしさに疲れた人が悟りを開いたかの如く山籠りし、密かに生きているなんてことがある。苦しまずに生きたい人は、不自然な文明社会の一部として生きるのではなく、自然な人間らしさの中で生きることも一つの手なのだろう。しかし、一度文明の利器の恩恵を受けてしまうと、なかなかそうもいかない。だから、疲れ切って自殺という道を選ぶ人もいる。それも、進化の過程で地球が人間を試しているという考えの下では、自然な出来事なのかもしれない。

危険信号から逃げ続けても安心して生きられる世界は、どうすれば作れるのだろうか?ぼくは今まで、そんなことを考えていた。

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