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どこにでもはいない平凡会社員が、どこまで変われるのかを見てほしい。

(※この文章は8600文字程度です。)
はじめまして。
26歳 会社員3年目の甲斐(カイ)と申します。

突然ですが、私はある1つの決断をしました。
このnoteでは、私のこれまでの人生と、
その決断に至った経緯を赤裸々に書き綴ります。

実は、私は社会人1年目に、
メンタルで3ヶ月休職しています。

自死を試み、
本当に後は踏み台を蹴るだけ…。
それくらい自分が嫌いになり、
自分を責め続けた時期がありました。

今は病気は寛解しましたが、
自分に対して悲観する癖がついてしまい、
” ゾンビサラリーマン状態 ” です。
要するに「死ねていないだけ」。


そんな経験をしていても、
”まだ諦めたくない。”
”可能性が1mmでも残っているなら、
  挑戦してみたい。”
と心の奥底では、考えてしまっています。

何度も何度も変わりたいと思いながら、
形から入って、形だけで終わってきました。

そんな私でも、
本当に変わることができるのかー。

縋りつくような期待30%。
やっぱりやめとこうという不安70%。

人生最後のチャンスと思って、
【GOAL-Bプロジェクト0期生】に応募する
決断をしました。


双極性障害&カラダ年齢45歳の私が、
本当に人生を変えられるのかというハードルに挑みます。

<人生のこれまで>

【小学生】自信満々。なのに…。

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(自語り口調でお届けします。笑)
5つ年上の姉と4つ年上の兄がいて、
3男末っ子として生まれた。
恥ずかしいくらい、
母親にべったりな甘えん坊だった。

足も早くて、徒競走は1位のゴールテープを
切ることがほとんど。
成績は、たいへん良くできましたの「◎」が
ズラッと並ぶような優等生だった。
(自分で言うな。)

小学2年生から、友達に誘われて野球を始め、
小学5年生の頃は全国大会にも出場した。

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そんな、明朗快活で、
順風満帆に見える幼少期だったが、
1つだけ、”父親の厳しさ” が異常だった。

甲斐家の男に生まれたからには、と
腕立て伏せ・腹筋・背筋、
1学年以上先の勉強は義務。
金属バットでケツバットされた翌日は、
学校の椅子に座るのも苦痛だった。
出された食事は、例え吐いても、
完食しなければならない。
そんな家庭に生まれ育った。

”甲斐家に生まれなければ…”
そう思って、家の屋根上に登ったことは、
今でも鮮明に覚えている。
その時に初めて、
自分の選択肢に自死が生まれた。
(母親の深い愛情を感じ、
 飛び降りることはなかった。)

【中学生】暗黒時代に見つけた希望

そんな闇を抱えていたとはいえ、
元々は明るい性格。
周囲から強烈な敵意を向けられることは
あまりなかった。

中学は、受験はせずに、
のほほんと公立中学へ入学。
地元ではそこそこ有名なヤンキー校だった。

小学校のときは普通に大人しかった人たちも、
学ランを着ると変わるのだろうか?
自転車で廊下を走る者がいたり、屋外の廊下に煙草の吸殻があるような学校だった。

だから中学では野球部に入らず、
地元の硬式野球チームに入った。

「郡山シニア」というと県でも有名で、
プロの西岡剛選手も輩出したチームだった。
そんな環境で私は、
同学年と3番手争いをしていた。

コーチや監督に見向きもされず、
その不甲斐なさから自信をなくしていた。
野球は向いてない、辞めたいー。
何度もそう思った。

しかし、
少年野球からの友達が続けているのを見て、
辞めるに辞めれず、ウジウジしていた。


そんな湿ったい雰囲気を
学校のマイルドヤンキーたちは見逃さなかったのだろう。

ある1人が授業中に、
セロハンテープでガチガチに巻いた新聞ボールを投げつけてきた。

私にもプライドはあったから、
「こんな奴、相手にするだけ時間の無駄」と、
突っぱねていた。

しかしそのいじめっ子に、
周囲も同調し始めていた。
集団無視・急な膝蹴りと
嫌がらせはエスカレートしていった。
そして、「悪いのは自分か?」と
自問自答する日々が始まり、
目線は下がり、学校をサボる日が増えた。

妻のAさんと出会ったのはそんな時期だった。
正直にいうと、顔が超タイプだった。
ひとめぼれをした。

でも、”自分は嫌がらせを受けるようなイケてない人間だ”と言い聞かせ、
遠くで眺めていることで十分だった。

何も行動に起こさず、
心は下を向き続けていた。
学年も変わり、
受験勉強も始まった中学3年生の夏。

突然、仲の良かったH君が暴走した。
修学旅行の最終日、
H君に呼ばれて校舎裏へ行くと、
なんとAさんも呼ばれていて、神妙な面持ちでそこに来たのだ。

急なことすぎて、
心臓も鳴らず、脳が処理落ちしていることを自覚しながら、私はAさんに想いの丈をぶつけた・・・。

もちろん、まともに会話をするのも始めてで、
「あんまり知らんし・・・」と、案の定フラれた。

人生が好転したのはその時からだった。

フラれた理由が”初対面だったから”と、
”至極あたりまえなこと”だったので、特別落ち込むこともなく、逆にチャンスと思って、腹筋を始めた。

今思えば単純すぎるが、
なんとフラれてから1ヶ月後、
Aさんが私に気があるという噂を聞きつけ、
もう一度告白し、OKをもらった。

そのとき、
「本気で思い続けて、何かアクションをすれば、叶うものなんだ」と知った。

【高校生】最低な自分と最高の仲間

Aさんにもらった成功体験は、
確実に自信となった。
高校受験は、
誰よりも早く塾に行き、
誰よりも遅く帰る生活をした。
YDK(やればできる)ブースト状態だ。
その結果、地元では文武両道で有名な公立高校へ進学できた。

高校でも野球は続けた。
過去には「奈良の御三家」と言われ、期待される部活に入り、可愛い彼女もいて、
正直、天狗になりまくっていた。

”努力こそ全てで、
 他の部活より、野球部が1番努力している。
 だから、自分たちが1番なんだ。"
そんなとんでもない勘違いを、
心の底に持っていた。

そんな自分に天罰が下ったのだろうか。
私の頑張る理由そのものだったAさんに、
高1の秋になる頃、突然別れを告げられた。

”なんで・・・。”
”これから何のために頑張ればいいのか。”

目の前が、そして、自分の未来が急に暗くなった。

「もう高校も中退して、どっか行ってやろう。」

私は自暴自棄になり、
高校で問題を起こそうとした。
授業中に音楽を聞き、漫画を読んだ。
(今思えば、超絶ダサい反抗だったと思う。)

教師に呼び出され、野球部に汚点を残した。
そして、その日は家に帰らなかった。

もちろん、心配した親から連絡があり、
「警察沙汰にしたくないから、
 取り敢えず帰っておいで」
と言われた。

何も考えたくなかったし、
考えていなかったから、
言われるままに家に帰った。

家に帰ってから、暗い部屋で、
「どうやって逃げようか。」
「どうやったら楽に逝けるかな。」
と考えていたら、いつの間にか寝てしまった。

「―おい。おいって!w」
自分の部屋にいるのに、いきなり、
少年野球からずっと一緒にやってきた友人 I 君の声に起こされた。

何が起きたかわからないまま起き上がり、
リビングに移動した。

すると、野球部の同学年27人全員が、
狭いリビングにギュウギュウ詰めでいた。
そして、全員から「辞めんなよ」とアツすぎるエールをくれた。

私は ”自分の不甲斐なさ” 、 ”申し訳無さ” と、
それ以上の ”本当にありがとう” という気持ちで、複雑だった。

感情が追いつかなかった。
母親も抑えきれないものがあって、泣いていた。

その日から、野球部も親も先生も、
私の頑張る理由になった。
本当に、野球部の最高の仲間たちに救われた。
(改めて、あの時はありがとう。)

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【大学受験】最も伸び、最も充実していた時間

高校3年間は野球に明け暮れた。そのせいか、3年生の春季模試で総合偏差値が27と、ビリギャルも真っ青になるとんでもないスコアを持っていた。

そのため、志望校を口にすると、
親にも担任教師にも
「現実を見なさい」と嘲笑された。

しかし、東進衛星予備校の塾長だった
K崎さんだけが違った。
「本気なんやな?本気なら、俺も本気で
 授業プログラムを組むし、本気で応援する」

K崎さんの190cmを超えるような体から、
熱風が出たかと錯覚するようなアツい言葉とエールをもらった。

「本気です。」
そう答えて、
高校受験期以上に勉強に打ち込んだ。
”没頭できること” が強みだった私は、
カロリーメイトとアクエリアスを机上に、
27時間連続で物理の問題集を解き続けたこともあった。

その結果、第一志望だった神戸大学には、
冬季直前模試で最高のB判定が出るほど、
偏差値は爆上がりした。

このありえないくらい伸びている期間は、
今でも私の人生で最も充実感のある毎日だったと思う。

それを支えてくれていたのは、
間違いなくK崎さんのエールだった。

無条件で、信じ切られると、人はこんなに力を発揮出来るのだと教えてもらった。

現実はそう甘くなく、
現役合格こそ叶わなかったが、
この1年の頑張りを見ていた親は、
「もう1年頑張ってみたら良い」と浪人することを許してくれた。

そして、浪人期間の1年経て、
会崎さんのようなアツい教育者になりたいと、
神戸大学 発達科学部へ入学した。

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【大学生】何もかも新しい世界。あれもこれもやりたい…!

大学は本当に楽しんだ。
とにかく時間を自由に使った。

「教育」について知れば知るほど、
「学校教育」以外にも興味が湧き、
様々な世界に飛び込んだ。

塾講師のアルバイトに始まり、
家庭教師の紹介事業に参画したり、
キャリア教育事業を手掛けるベンチャーのインターンにも参加した。
明らかにマルチとも思えるネットビジネスにも手を出した。

何をしても楽しかった。
「今の自分にしか出来ないことを味わい尽くしている」
そんな実感があった。

そうして、
キャリアを考える時期に差し掛かるときには、
「学校教育」だけでなく、
より多くの側面から人の人生を豊かにしたいと思うようになった。

同時に、
経営者の方と合う機会も多かったので、
「自分の力で稼げるようになりたい」と強く思うようになった。

とはいえ、
いきなり起業するほどの度胸はなかったので、
「起業」「経営」というワードを重要視して
就活することにした。

人のライフスタイルを創造する業界として、
不動産業界やインフラ業界を中心みていた。

そして社内起業チャレンジ制度の充実具合と、
挑戦をどこよりも強く掲げていたことから、
ここにチャンスがいっぱいあると感じ、
某インフラ企業の門を叩いた。

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【社会人1年目 (24歳)】失望、絶望。

私は受験期の経験や、野球部での経験から、
ある目的のために必死に没頭している状態が好きだった。

内定者時代は、自分の存在力を高めるために、
飲み会の幹事を率先して行い、
内定者研修でも積極的に発言した。
グループワークでは何度も1位を取った。

それが功を奏して、
1年目から「経営企画室」配属となった。
しかも、既存事業ではなく、
イノベーションに関われる所属だ。

ますますやる気が湧いて、
サラリーマンではなく、
ビジネスマンになるぞ!
と息巻いた。

そして、新入社員研修も終え、
5月に経営企画室へ本配属となった。
ただでさえ巨大な自社ビルの34階が私の仕事場となった。

しかし、そこから約半年後、
私はうつ病と診断を受け、3ヶ月の休職期間へ入ることとなる。

人生初の上司は女性で、
THE・マダムといえるような上品な方だった。
物凄く人当たりが良く、
丁寧に接してくださった。

だが、私は全く仕事が出来なかった。

仕事の目的も、意味もわからず、
何をすべきか、
何をしているのかもチンプンカンプン。

残業制限だけがハッキリしていて、
毎日、多くの仕事を残して帰る日々だった。

「ダメだ…。」と落ちこんでいると、
あっという間に2ヶ月が経ち、
夏になっていた。

干乾びたセミが道路脇で死んでいるのをみて、
「あぁ、このセミは俺だ。」と思った。
それくらい、自己嫌悪に陥っていた。

もちろん、新入社員ですぐに仕事が出来るとは思ってはいなかった。
それだけでこんなに落ち込んだわけではない。

挑戦から掛け離れた風土、
上長のために仕事をするサラリーマン文化、
そういったギャップを理解することにも苦しんだ。

何より、人材としての市場価値の低下を
毎秒毎秒感じていた。

”某商社に行った友人は、先輩とこんな経験をしているそうだ。”
”某証券会社に行った友人は、研修でこんなスキルを身に付けた。”
それに比べて、自分は…。

「ここにいては、あの干乾びたセミになる。」
そう思って、転職活動を始めた。

まずは自分が何をしたかったのか、
そこから考え直したが、そこである異変に気づいた。

「あれ?俺って何がしたかったんだっけ…?」
分からなくなっていた。

今でこそ、自信を失っていたからと言えるが、
”何かしたい”よりも、
”何をやっても無理”が勝っていた
のだ。

それゆえに、
実現したいことが思い出せなかった。
新しく考えようにも思いつかなかった。

さらに、無理やり転職を進めていくも、
「現職で成し遂げたことは?」
という問いに、涙を流してしまったこともある。

自分で分かっていたからだ。
この転職が”逃げの転職”であることを。

そして、
逃げようとしている不甲斐ない自分を。
それが自己嫌悪に拍車をかけた。

もちろん、
そんな状態で転職が成功するわけもなく、
心が下を向いたまま過ごしていた。

そして、ある朝の通勤途中、その日がきた。

巨大な自社ビルの前の道路で、
周囲に人がいるにも関わらず、
「こんな巨大ビルで働く資格が自分にはない」
と、膝から崩れ落ちた。


仕事場へは行けず、
そのまま会社から勧められた精神科へ行った。

「うつ状態です。双極性障害と適応障害…、
 軽度の強迫性障害もあるかもしれないね。」
医師がそう言っていたのは覚えているが、
それからの説明は全く頭に入ってこなかった。

”うつ病なんて甘え。心が弱い人がなるもの。”
そう思っていた分、
余計に受け入れられなかった。

一方で、体は正直だった。
目が覚めても、全く下半身に力が入らない。
朝食を食べても、味がしない。
歩くたびに″膝カックン″をされたようになる。
駅のホームで、ふと飛び込もうとしてしまう。

周りに迷惑しかかけられない。
だから、心の病を受け入れるしかなかった。

12月8日から会社を休んだ。
出来るだけ会社のことを考えないようにした。

朝起きて、三度の食事を取って、夜眠る。
それが出来なかった。
例えば食事でいえば、自然界の形が残っているものが食べられなかった。
味噌汁に入ったキノコが、自分より尊いものに思えたからだ。

「自分より何倍も、人の役に立っているキノコを、自分なんかが食べてはいけない。」
そんなことを本気で考えてしまっていた。

そして12月18日、自死を試みた。
その時の詳細は、日記にまとめていたのでご参照いただきたい。

2018年12月18日、自殺をしようとした。
コーナンでロープと自殺だと思われないようにダミー用の手袋、そして、カイロを買った。
素面だと怖いので、ファミマで赤ワインの小瓶を買った。

場所は慎重に選んだ。
山で死ぬと捜索が大変だし、
建物の価値を下げられないので新築した実家もNG。

幸い、生まれ育った旧家は空き家状態で残っていたし、
人通りも殆どない。
さらに冬は天然の冷蔵庫のように風通しが良く寒い家だったので
これなら死体も腐りにくいと思って、旧家を死に場所に決めた。

入社して半年ほど。
良い事と言えば、仕事ぶりに合わない貰いすぎな給料と、
それを使って休みの日に彼女とどこかへ行くことだった。
それで十分だったのかもしれない。

でも、会社にいると、
自分から夢を見る力が確実に失われていった。
希望を持ち続ける力が確実に失われていった。

5年後、10年後、20年後にどうなっているか、
決定はしていないのは承知している。
ハッキリしているのはそれが、
明るい未来ではないということだ。

ダイナミックな毎日を夢見ていた自分にとって、
会社員生活は "のれんにパンチする日々" に感じた。

上司や先輩は皆、良い人ばかりだった。しかし、
先輩たちも得体の知れないモヤモヤという "のれん"の前にいた。
中にはパンチする事をやめ、枯れた意識になっている人も少なくないように感じた。

何のために働いているのだろうか。
何のために生きているのだろうか。

そんな疑問に囚われながら、
消化しきれない仕事を毎日繰り返していると、
何事にも楽しさを感じられなくなった。
ゲームやマンガをみても、彼女と一緒にいる時間さえも、
無味無臭で色のない毎日になった。

生きる事に意味なんてないんじゃないか。
価値を生み出さない存在ならば、
いっそ出来る限り早く死んだ方が世のため人のためじゃないか。こんな気持ちだった。

だから、
ファミマで買った赤ワインを一気飲みして、
ほろ酔い状態で旧家の玄関で首にロープを巻いた。

後は踏み台を蹴るだけ。

でも、そこまでしていて、
自分は踏み台を「蹴るか」「蹴らないか」を選択しかねていた。
そしてとうとう蹴れなかった。

心配して探し回っていた母親に見つかるまで、
1人で歩き回った。
私は死ぬことすら出来なかった。勇気が出なかった。
(日記より)

今でも誰にも迷惑をかけずに、楽にサクッと逝けるなら、と考える日がある。
その度に、この時のことを思い出す。

死ぬのは怖くて、
自分にそんな度胸がないことを受け入れると、
「どうせ死ねないのなら…」と不思議な希望が湧いてきた。

どうせ死ねないのだから、真っ当に生きよう。

入社1年目の3ヶ月間という社会人生活で最も重要な時間の一部を、この経験に費やし、私は2019年4月に復職した。

【社会人2~3年目 26歳 現在】ただ単に生きる

完全に寛解したわけではないが、
医師から復職可の診断をもらい、
私はまず上司・先輩方、そして同じグループの方々に挨拶と謝罪をした。

逃げ出したい気持ちもあったが、
それよりも「真っ当に生きよう」とした自分を裏切りたくなかった。

皆に気を使われて、今は生きている。
会社だけじゃない。
事情を知っている人は、
友人でさえ、距離感を感じた。

でも、それが今の立ち位置であり、
スタート地点。

小学生のときに持った、「逃げるために死ぬ」
という選択肢は、もう持てない。

かつてのように、”人のために” と向上心を持てるようになりたい。
そう思って、1日1日、
目の前の業務だけを考えるようにした。

私自身が強くなったわけでもなく、
そして環境も、仕事内容も変わってはいない。
だから3歩進んでは、
2歩下がる日々なのも変わらない。
(時には4歩も5歩も、あるいはそれ以上
 退がっているかもしれない。)

向上心を持っては捨てて、
「自分は弱者側だ」と言い聞かせる。
希望を持っては捨てて、
「自分は根暗な人間だ」と言い聞かせる。

変わりたいけど、中々、変われない。
過去の弱かった自分と決別して、
新しい自分で本当のリスタートを切りたい。

そんなモヤモヤを毎日抱えている。

自分を変えるため、
また再びメンタル病になって、
周囲に迷惑をかけないために、
色んなことにチャレンジした。

朝ランニング、筋トレ、朝活…。
趣味として、レザークラフトやピアノなど…。
どれも形から入って、
そして形だけで終わってしまっている。

どうしても1人でやっていると、
「自分はもうそんな人種ではないだろう」
という声が聞こえてくるから、
諦めてしまっている。

そうした中で、あるYouTubeを見た。

「っしゃぁ!今日も、最っ高の1日にします!!」

その圧倒的なエネルギー量と、
キラキラしたイケてる姿に、
強烈な憧れと、嫉妬感を感じた。

「1%でもこの人みたいになれたら…。」
1度しかない人生をこのままウジウジと、
過去を引きずって生きて行きたくはない。
1年目で盛大にズッコケた平凡サラリーマン(26歳)。
身長175cm、体重84.5kg。
運動をサボり、ラーメンを貪った結果、
TANITAの体組成計だと、
体年齢は驚愕の45歳(実年齢+19歳)。

そんな私がどこまでやれるのかを知りたい。

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終わりに

実は、この休職期間に支え続けてくれて、
中学生の時からずっと人生の大切なことを教え続けてくれた、
Aさんと2020年7月29日に入籍をしました。

そしてコロナ禍もあって、
来春に結婚式をすることとなりました。

そのときに胸を張って、
変わった自分を披露したいと思っています。

「人生に躓いたことがない人はいない」
そんな言葉を、休職期間に嫌というほど聞かされました。

でも、躓いた後の立ち上がり方を教えてくれる人は、1人もいませんでした。
当たり前ですよね。
それは自分で見つけなければならないんですよね。

今回の【GOAL-Bプロジェクト0期生】は、
きっとその道標を見つけることが出来ると思っています。

長文になってしまいましたが、
ここまで読んでいただきありがとうございました。

それでは!

(この3年で1番いい顔をしているのがこの写真でした。笑)

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