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自己肯定感と安心感のJAM

自己肯定は愛。ラブマイセルフ。
ところが自己肯定感というのは皮肉なもので、自分と他人を比べたときにどう自分が映るか、で決定づけられている。まったく、悲しい。
自己肯定は自分の能力とルッキズム。これはいつも思う。
元々のポテンシャルが低かった人、ディスアドバンテージを持って生まれてしまった人達。自己を形成する過程でどこが自分の醜いところなのか、そんなことばかり指摘されて育つ。醜い箇所を指摘されて、それをどう捉えるか、成長出来るような方向で捉えられるかは本人次第なのはさておき。頑張ってもどうしようもないことというのは存在するのは仕方のないこと。しかし、その治しようのないこの醜さを社会は受け入れてくれないことだってある。むしろほとんど受け入れてくれない。仕方のないことではある。そうやって誰からも認められることもなく時間が過ぎていくと人は段々とおかしくなっていくらしい。そこに自己肯定感もなく、プライドもズタズタ。
気づいた時にはコンプレックスの塊になっていた。家族とも友人とも腹を割って話すことができなくなっていた私には恋人が一番身近で、親身になってくれる存在だったので僅かな希望を見出してみたものの、もう唯一自己を肯定してくれる恋人はいない。肯定してくれる人を探せど見つからず、今も自信のなさは膨れ上がっていく。大体は、煩わしく思われるだけで、そうやって積み重なっていく。しかし幼子のように相手に対して「~~くん嫌い」と一蹴できるわけでもない。そこの矛盾が表面下で自分の首を絞めるこの感覚。何年もずっとこうなので、さすがに慣れたが、やはり苦しいのは苦しい。苦しいから、自分以外に自分を肯定してくれる他人を求めてわざとSNSで自己開示をする。でも中々認めてくれる人なんていないわけで、多分フォロワーからは白い目で見られているのであろう。
正直自分の価値というものを見いだせずにいる。価値とかそんなこと考える暇があったら、飛び込んで努力をしなさいという綺麗事も理解できるが、今は聞くだけで自分の首を絞められる感覚がする。いつか限界が来るだろうな。
私の求める「自己肯定」というのは、実は自己肯定ではなく、「社会基準でより良いとされる姿を手に入れた事による安心感、高揚感」でしか無いのかもしれない、というのはこの記事を書いている今、この瞬間気づいたことだ。正しいのかは知らない。結局、自分を認めるために他人に褒められることをずっと待っているだけ。自分のことを好きになれなくても、受け入れていかねばならない。しかし受け入れたところで、そこからどうしたらいいか今は分からない。そもそも受け入れることさえ難しい。ダイエットとか整形とか、身につけるもので着飾るのは醜い部分に蓋をしているということなのかもしれない。まるっきり自分を肯定してくれる存在に近い音楽を聞いて、気を紛らわしつつ行こうかというところだ。はい終わり。
ではまた。

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