ナンパ男と桃色

 バイト帰り、渋谷駅で声をかけてきた男は「岡部圭一」と名乗った。怪しい者ではありません、二十一歳の社会人です。僕もこれから用事があって急いでるんですけど、ものすごくタイプだったので声かけました。マスクで目元しかみえないせいか、第一印象はアイドルの名前に似ているな、だった。
 たまにナンパされることがある。夜の街でかけられる声は明らかに客引きか性的なものだから無視を決め込むのに、真昼間だと道を聞かれたのかと思って立ち止まってしまう。好きなひとにだけ好かれたいわたしにとって、気軽に声をかけられるような可愛さは不要なのだけれど、タイプと言われるとちょっぴり嬉しい、チョロいわたしもいる。たとえ三匹の白クマが組体操している柄のパーカーに黒のスキニージーンズ、プレゼント企画で当たった白のモカシン、伸びてきた髪をテキトーにハーフアップにまとめた、完全バイト仕様の格好だったとしても。
 一度足を止めてしまうとあしらい方がわからなくて、とりあえずラインを交換することにした。交換さえしてしまえばその場を離れられるし、面倒になればブロックするだけだ。なんとなく、ナンパした側とされた側の間では力関係が存在すると思う。好きになったほうの負け、ナンパされた側のわたしに主導権がある。以前ナンパしてきたひとには、別れてすぐにブロックをお見舞いした。そのひとが悪かったわけではないけれど、ただの気分だ。たぶん会わないだろうな、というだけの。
「QRコードみせてもらっていいですか」
 携帯の画面をみせると、男はすぐに読み込んで文字を打ち始めた。
「フルネーム送るんで、スタンプとか返してもらっていいですか」
「無料スタンプの一番上のでいいんで」
 スタンプの順序を入れ替え、気に入った有料のスタンプしか使わないわたしには、一番難しい要求だった。無料スタンプはそもそもダウンロードしていない。
「気に入ってるのにしときます」
 最もよく使うタスマニアデビルのスタンプを送った。周りに花びらが舞っている、多幸感に溢れたデザインのもの。可愛いな、と思ってスタンプを買ってくれたらいいと思ったけれど、もうこのスタンプは売られていないのだった。
「ありがとうございます、ではまた」
 男は足早に去っていった。わたしも逆方向に歩き出す。バイトで疲れたせいか荒んだ心のわたしには、タイプです、という言葉がやけに響いていた。お気に入りの洋服を着た美容院帰りのわたしだったらすぐブロックしただろうに、家に着いてもなお彼とは繋がったままだった。
 その日の夕方から始まった彼のラインは全く面白みがなかった。文面でのやり取りなら考える余地がいくらでもあるのに、盛り上がらない。「タイプだって言われてびっくりしました」と送れば、「雰囲気も含めてタイプだったんです」と返ってきて、「洋服とかけっこう色々なジャンル着ますけどね」と言えば、「そうなんですね」で終わってしまう。例えば「どんな服をよく着るんですか」と聞けば話はふくらむのに、相槌を打たれてしまったら返しようがない。わたしから積極的に話を広げることもなかったけれど、ライン交換した初日がこれってどうなんだ。わたしに興味があるとは思えなかった。ただ、ナンパに慣れていないだけかもしれない、とも思った。直接話すほうが得意で、ラインは苦手というパターン。文章を書くことでどうにか社会にしがみついているわたしにはよくわからない属性だけれど、これもなにかのご縁でいいほうに転がる可能性だってある。物は試しと言うじゃないか。そういえば、今年の頭にたてた目標はフットワークの軽いひとになる、だった。
 早速話題が尽きたのか、会いたいという話になった。提示されたのは二日後の十四時で、ちょうど何の予定もない日だった。このためだけに出掛けるのは面倒だったが、平日のお昼ごろなら危なくもないだろうと約束を取り付けた。会うのもただの気まぐれだ。今日はそういう気分ってだけ。あとは少しの好奇心。どうせ食事代くらいは奢ってもらえるだろうし、一度会ってから判断するのも悪くない。
 どこに行くときも、誰と会うときも、それの前日までに洋服を考える時間が好きだ。天気や気温を調べて上着を決めて、行き先に合わせてヒールの高さを決めて、色味をみながらスカートやシャツを決める。更に食事だけなら小さい鞄、映画をみるならパンフレットが入るような大きい鞄、洋服の色に合わせてピアスや指輪まで選ぶ。時間に余裕があればマニキュアの色味も決めて、寝る前に塗れるようベッドサイドに置いておく。長いときは小一時間かかるけれど、洋服がうまく決まらないと何も始まらないのだ。この工程を蹴飛ばしているのは、バイトのときだけ。
 ナンパ男相手にとびきり可愛い格好をみせるのはもったいない気がして、高校生のときから履いているくすんだピンクのスカートを手に取った。正直お気に入りではないけれど、そこがちょうどいい。色味はピンクと白系で決まり。上は白地に薄く柄の入ったシャツ、靴はビビットピンクのヒールが高いものにしよう。お茶するだけだから鞄はグレーの小さいもので、ネイルもピンク系でまとめておこうかな。わたしが身にまとうものだからいつだって可愛くありたいけれど、どうでもいいひとが相手だと服装もあっという間に決まるらしい。

 待ち合わせの定番スポットに現れた男は、開口一番「雰囲気違うね」と呟いた。当たり前でしょ、色々なジャンルを着るって言ったじゃない。あんなバイト仕様の格好が一張羅だと思われたら困るのだ。今日のも正確には一張羅ではないけれど、バイトのときに比べれば可愛いほう。もし貴方の好みがあれだとしたら、わたしとはかけ離れていると思うよ。男は最初に会ったときと同じような格好で、普通、を絵に描いたみたいだった。好きなアイドルのおかげでよく読む男性誌の劣化版。自分をアピールするのではなく、社会に溶け込むための最低限の洋服。それが悪いとは言わないけれど、わたしとは価値観が違う。
 近くの喫茶店に入り、コーヒーを頼んだ。甘いものしか飲めないとは思われたくなくて、ブラックのまま飲む。ブラックで飲むこともあるから美味しかったけれど、無理しているのは明らかだった。普段のわたしをみせたくない、と思った時点で、わたしはこの男と会うべきではなかったし、二度と会わないことも目にみえていた。別れた瞬間にブロックすることも。
「この間は急にごめんなさい。来てくれてありがとう」
 男はぽつぽつと話始めたけれど、それはラインとたいして変わらなかった。顔を合わせなくてもできる面白みのない会話。話下手で書き言葉も下手なら、ナンパには向いていないと思うのに、こうしてまんまと引っかかる女がいるからやっていけるのかもしれない。
「普段は何されてるんですか」
「大学生なんだ。僕は専門学校を出てて、今は社会人で」
「どんなこと勉強してるの」
「小説を書いてるんだ、すごいね」
「趣味は?」
「やっぱり本が好きなんだね」
 いつの間にか敬語の取れた男の一問一答に答えていく。こんなの、事前にラインでやっておけばいいのに。ひとつ年上だからって敬語を止めるところも、自分にできないことを簡単にすごいと言ってしまえることも、ほぼ初対面の相手をやっぱりと枠にはめるところも、全部が苛立つ原因だった。合コンの女じゃないんだし、知りもしないですごいって言わないでほしい。何がすごいのって聞かれたら答えられないくせに。それに文章を書くことはできても、本を読むのが苦手なひとだっている。本を読めない代わりにたくさんの映画をみていて、そのひとと一緒に普段のわたしなら選ばないような映画をみるのが好きだった。
 粗探しをしてはいちいち苛立つ、わたしの性格がねじ曲がっていることくらいわかるけれど、男が想定している世界はとても狭いのだろうと思った。わたしなんかよりずっとすごいひとがいて、優秀なひとがいて、アイデアに溢れるひとがいて、足掻いても届かないようなところに憧れがあるのがわたしの世界なのに、男にはそれがなかった。おだてていいところを並べたつもりかもしれないけれど、わたしはそうされるのが苦手だった。
「今日の服も可愛いね。ピンクが好きなんだ」
 あ、決定的にだめだ、と思った。
「爪もピンクだし」
 そんなの、今日のコーディネートがピンクなだけだ。水色のワンピースも、薄紫のスカートも、黄色のシャツも、真っ黒のニットも、わたしは好き好んで着るのに、それを知らないだけなのに。爪の色だって洋服に合わせて塗ったのだ。ピンクが特に好きなんじゃなくて、今日がピンクの日ってだけ。明日には違う色のわたしが待っているし、もしもう一度会うことがあればピンクは絶対着ないだろう。次に真っ青な格好で行ったら、今度は「青も好きなんだね」と言われるのだろうか。頭の中に、「想像力の欠如」という文字が浮かんだ。健康サプリのCMに出てきそうな、ぼろぼろの太字フォントで。

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