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二束のサンプル

 背中の真ん中まで届く髪を切るのに抵抗はなかった。長く伸ばしていたことにたいした意味はなかったし、短くした後でピンクに染まるわたしが楽しみだった。ボブカットにするのは高校生の春ぶりで、童顔によく似合うのはわかっていたけれど、明るい髪色は初めてで少し緊張する。それでもピンクが似合うという根拠のない自信だけは湧き出ていた。色の落ちた変な髪色をしたわたしは、まだ抜け殻にくるまったまま、無限の可能性を秘めている蛹だ。これから生まれ変わって羽ばたけば、誰よりも可愛いわたしになる。時間がかかるからと言われ午前中に予約をとったが、とっくに時計の針は頂点をすぎていた。
 ロングヘアがボブカットになり、それがピンクに染まるにはたくさんの工程がある。まずは長い髪を切って、それからブリーチをする。綺麗なピンクにするためには二回ブリーチが必要で、二回目のブリーチは一時間半そのままね、と言われた。回数を増やすと髪が痛むから、長時間放っておくらしい。暇つぶしのために席に持ってきた本は佳境を迎えていた。もうすぐ読み終わってしまいそうだから、預けた鞄の中に入っている別の本を持ってきてもらうことにする。二回ブリーチして金色になった髪を洗ったら、いよいよカラーリング。色落ちすることも考えて、ピンクと紫のあいのこみたいな色に染めるらしい。一週間もしたら理想のピンクになるに違いない。
 いつもお願いしている美容師のお兄さんは、長かったわたしの髪を二束とって「実験してもいい?」と聞いてきた。どれくらい色が抜けてどんな風に染まるか試しておきたいそうで、数時間後のために快く承諾した。小さな細いゴムでわたしの髪をくくったお兄さんは、シャキン、と心地よい音をたててそれを切り落とした。隣にあるキャスターのついたワゴンに、二束が載る。色も相まってかとても小さな馬の尻尾みたいで、ポニーテールとはまさにそうだな、と思った。この角度から髪の毛をみることは滅多にないから、物珍しそうな顔をしていたに違いない。シャキン、が重なるたびに頭が軽くなる感覚がわくわくを誘って暴れだしそうで、椅子にとどまっているのが大変なくらいだった。はやる気持ちをなんとか押さえつけ、おとなしくブリーチ剤が塗布されるのを眺めた。
 色が抜けるのを待つあいだ、アシスタントの女性がわたしの足元を掃除してくれた。そこには先ほど切ったばかりの髪の毛が散乱している。毛先だけ派手な色にしていたから、色素の抜け落ちた明るい茶色と明るいオレンジが混ざっていた。お風呂の排水溝に溜まった髪の毛は汚くみえるのに、美容院のつるつるした床に散らばるそれはひとつの芸術作品のようで、不思議に思う。どちらもついさっきまでわたしの一部だったのに、なにをもってして綺麗、汚いと決めているのだろう。美容院の床とお風呂を比べたら、お風呂の方が清潔な気さえするのに。
 本を取り換えてもらい、しばらく没頭していると、お兄さんがやってきた。
「こんな感じになるけど大丈夫?」
 手に持っているのは実験に使うと言っていたわたしの髪の毛だった。ピンクというより紫キャベツの色に染まったそれは、ドラッグストアに貼ってあるサンプルか、コスプレイヤーが使うウィッグみたいだった。街中ではみかけないような、現実味のない色味に少し驚きつつも、これになれるのだ、という喜びが勝って思わず口角が上がる。触らせてもらうと予想以上にさらさらしていて、わたしの髪の丈夫さが伝わってきた。さっきのが馬の尻尾なら、こっちはおとぎ話の中のユニコーンの尻尾だ。色が綺麗すぎて人工の毛のようだけれど、これはさっきまでわたしの一部で、お兄さんが鋭利なハサミで切り取ってくれたものだ。
「今は濃い色だけど、色落ちしたらピンクになるから」
「大丈夫です、お願いします」
 お兄さんは満足そうな顔をして、サンプルを手にバックヤードへと戻っていった。持ち去られた二束は役目を終え、そのまま捨てられてしまうのだろうか。もちろん身を切るほどの痛みはなかったけれど、ちょっぴり心が疼いた。数時間前までわたしだったのに、なんならわたしをわたしだと判断する大部分を占めていたのに、今はもうサンプルとしてしか扱われず、結局ごみ箱行き。一瞬でもわたしという存在から離れてしまえば、わたしではなくなるのか、その境界を確かめたいと思った。髪の毛も、切った爪も、剥がれたかさぶたも、ついさっきまでわたしの一部だったものを、あっという間に知らんぷりして外に追いやっている。そもそもわたしってなんなんだろう。わたしを定義しているものなんて案外曖昧で不確かなものなのかもしれない。

 ブリーチを終えた髪は見慣れない金色で、美容院の明かりを受けて発光しているようで頭がくらくらした。洗ったばかりだからいつも額を守っている前髪もなでつけられていて、知らないわたしがそこにいるみたいだ。明るい髪色のほうが似合うと思っていたけれど、金髪はあまりよくないかもしれない。その後のピンクが楽しみなのだから、とあまり鏡をみないようにしていたら、お兄さんには「眠いの?」と笑われてしまった。曖昧な返事をして、変わりゆくわたしの気配を全身に感じた。美容院に来てから変わっているのは髪型と髪色だけで、服装やわたし自身には何一つ違いはないはずなのに、こんなにも目まぐるしく世界は変わっていく。鏡は否応なしにわたしを映し出すから、再び本に視線を落とした。手元に広がる世界に心を溶け込ませて、意識をわたしの身体から手放す。短い旅から戻るころには、また新しいわたしが待っているのだろう。
 しばらく本の世界を揺蕩っていると、お兄さんが「髪洗いますねー」と声をかけてきた。すぐそばのテーブルに本を置き、シャワー台へと向かう。いよいよだ。カラー剤を洗ったらピンクのわたしが待っている。髪色はどんなふうになっているのだろう。そしてわたしはどうなっていくんだろう。さっきみせてもらったサンプルだけでは想像の範疇に収まらなくて、胸が高鳴った。あとすこし。

 気持ちよく洗髪を終え、席に戻ったわたしを出迎えたのは、みたこともないわたしだった。
「ピンクだ」
 思わず声が漏れる。どちらかといえばピンクというより紫に近い色だったけれど、とても綺麗に染まったわたしは過去最高に可愛かった。みたこともない姿なのに、まるで故郷に帰ったかのようなすっと腑に落ちる感覚。一番似合う髪型と髪色が、こんな簡単にみつかってしまうなんて知らなかった。これまでのわたしが嘘だったみたいに、ピンクのわたしは自分そのものだ。こうありたい、という理想を全てボウルに入れてかき混ぜて、それをわたしの表面に塗りたくったらきっとこうなるのだろう。
 まだ濡れていた髪をお兄さんが乾かしてくれている最中、わたしはずっとにやにやしていたと思う。人前なのに下がってくれない口角は少し恨めしかったけれど、この姿を目にして無表情でいるほうが難しい。いつもならドライヤーのときも本を読んでいるのに、このときばかりは何も手に付かなくて、まるでナルシシストのように鏡の中のわたしをみつめ続けた。
 これから向かうところがつまらない家でなければいいのに。世界一可愛いわたしのこと、好きなひとにたくさんみてもらいたい。好きじゃないひとにも、わたしこんなに可愛いんだぞってみせつけたい。全然知らないひとにも、すれ違いざまに振り返ってもらいたい。だって、美容院帰りのわたしは無敵なのだ。

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