抱きたい男の話
最近では少なくなったが、週刊誌やネットニュースで「抱かれたい男性芸能人ランキング」や「抱きたい女性の特徴」といった記事を目にすることがある。
その度に思うのだ、
なぜ、"抱きたい"男性芸能人ではないのか?
なぜ、"抱かれたい"女性ではないのか?と。
女の私は、男に"抱かれる"生き物だから、男を抱いちゃダメなんですか?ということを。
そもそも「抱く」ってなんだよということは片隅に置くとして、そういう行為は男性がリードして、女性がついていくのが理想的だという風潮があるからそれが言葉に反映された結果だろう。
性に関して能動的な存在が男性、受動的な存在が女性。その社会的風潮が、私たちが普段使っているこの言葉に端的に表されている。考えすぎなのかもしれないがこうやって決めつけられていることになんだかムカついてしまう。
アメリカに留学していた時、こんな風に性行為について男女で言葉が変わることは英語ではなかった気がする。もしかして私が知らんだけ…?と不安に思ったので、英語圏での生活が長い友達に聞いてみたところ、全員が性別によって分かれないとの回答だった。なので、やはり日本特有なのかなあと思う。(他の国にもあるかもだけど)
少々負けず嫌いな性格なので、女性である私が男性に"抱かれる"100%受け身な立場であるという響きに腹が立つ。抱く・抱かれると聞くと、いつも心の中で一人眉間にシワを寄せてしまうし、私が男性を抱こうが男性に抱かれようが、てかそもそも女性を抱いても抱かれたっていい!!と、一人ぺこぱをかましてしまう。とにかく性別で役割を決めつけることが許せないのだ。
こんな風に私たちが何気なく使っている言葉は、その国の文化や社会を多感に反映している。コミュニケーションを円滑に図っていく為に生まれたのが言葉なのだから当然だろう。言葉は社会を映し出す鏡だ。
最近では使われることも減ってきた言葉だが、女子力についてもそうだ。
料理が上手い、サラダを綺麗に取り分けられる、スキンケアに気を遣っている、それが女子が備えるべき力。そんな意味を持つこの言葉も、日本社会を大きく反映しているように思う。
家庭的で外見を磨き続ける存在が女性であるという社会的風潮。
男性に対して女子力が高いと言う時は、男性は家事育児をせず肌に気を遣わないのが普通だと言う前提があってだろう。ぺこぱに是非つっこんでいただきたい事象だ。
もし私が今、日本についてや日本語を全部忘れてもう一度"女子力"という言葉だけを聞いた時、この意味を想像することはきっとできない。サラダを取り分ける力ってなんなんだよ。
女子力を英語に直訳すると「Girl Power」になるが、これはインスタで検索すると2798万件がヒットするほど、よくSNSで目にする言葉だ。
この英語圏で言う"女子力"は、これまで社会でビハインドな存在であった女性が活躍する為の一種の標語的な意味を持っている。あたいら女子も輝いちゃうわよ!YES!Girl Power!的な力強いメッセージが込められている。インスタにもGirl Powerの可愛いステッカーやGIFがあったりして世の中にポップに浸透している印象だ。
女の子+力という言葉のパーツと設計は同じでありながらも、「女子力」は過去を生きる言葉であり、「Girl Power」は未来を生きる言葉である。
女子力という言葉の方がGirl Powerよりも結構年上なら、言葉の誕生当時の社会背景も違うので仕方がない違いかなあと思ったが、調べてみるとGirl Powerの方が年上らしく頭を抱えてしまった。
日本がダメで海外がすごいみたいになってしまうけれども、「女子力」と「Girl Power」を並べると、当たり前なのだが国によって男女やジェンダー、社会のあり方が違うことを感じる。同時に、日本がジェンダー平等後進国であることも。
抱く・抱かれる問題にしても、リードする女性、受け身な男性、同性での行為などいろんな形があってもいいのに、男たるものリード!女はそれについていくもんや!いう幻想を刷り込む危険性がある気がしている。だから、ひょっとして、私たちの世代で処分してもいい言葉なのでは?とも思う。
こんな風に無意識に発している言葉が多様性や誰かを自分らしく生きることから遠ざける社会にしてしまう恐れがあるのだ。
良い社会に進化するにあたって、今まで使ってきた言葉が負の遺産になる可能性はある。だから、社会を変えていく中で、私たちも使う言葉を繊細に気をつけていかなければいけない。社会を変えるなら、言葉も変えていく必要がある。言葉が変わる時が、社会が変わる時なのかもしれない。
サラダを取り分けて女子力が高いと言われる時代があったことを、未来の女子が驚く日が来ることを願って。
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