見出し画像

資本家階級の男と私〈5〉

てんかんみたいだねという声に意識が戻った瞬間、店内の白い蛍光灯の光を直に受けどきっとした。今週毎日演技の実技があるから頭が回らないのかもしれないと向けられた眼を捉えて答えると、彼は少し考えたような顔をしてから、最近入院してきた高三の男の子が演劇部で、演目が重すぎて精神を病んでしまったのだという。どんな話をやるのかと聞くと、顧問が書いた脚本で、レイプ犯が出てきたりとハードな心理的考察が求められるらしかった。男子は女子よりも二、三歳発達が遅いから難しいと思うよと彼は悩むように言った。間もなく、テーブルにカプレーゼとパスタがきて、その話題は終わった。薄くスライスされた玉ねぎとくし切りのトマトをフォークで刺す。私は彼と一緒のとき、豆腐やパフェなどデザートしか頼まないことも多い。その時ばかりは胃が膨らんで全然食べられなくなるのだ。金持ちの男と付き合っているのだから食べたいものを心配せずに食べたいという欲求もあったが、自分が選んだ人と一緒にいられる充足感に食欲さえも満たされるように思った。私は彼と向かい合って椅子に座り、夕食を食べる時間が好きだった。新着メッセージの通知で携帯の画面を確認し、すぐに私に視線を戻そうと努めるところやとりとめもない彼の口から出る世間話が心地よかった。彼の所有するもうひとつのマンションは、神奈川の利便性の良い駅の目の前にあって、いつも会う時は駅とマンションとを陸続きにする連絡通路しか歩くことはほとんどない。その短距離走ほどの範囲内に外食や買い物をする場所と、プライベート空間が備わっている。私はいつも、その短い距離を胸を高ぶらせ、前髪が揃っているかを何度もショーウィンドウで確認しながら彼の元に走った。会うと先ず、なにか食べようと彼が言い、私は頷いて彼の腕に身を寄せて歩き出す。行動はほとんどいつも決まっている。

 生の玉ねぎが意外にも口の中に辛みと生野菜特有の香りを残し、食べなければよかったと後悔した。部屋に戻って、互いを求めた。スクリーンでは、こちらにかまわず映画が進行している。そのスクリーンの光を背に受ける男をかき抱いた。するとその腕を邪魔だというように頭上で床に押し付けられ、男の目に痩せた胸と深いくびれを晒す。彼は自分を鼓舞するように、多少苦しそうに、私の身体を抱いた。私はマットの端を握り締め、手足にまで流れる愉悦の痺れをもっと感じようと努めていた。彼は射精してすぐ、私の性器を隅々まで丁寧に拭いてくれる。人形と同じくされるがまま薄明かりの中の彼の顔を見つめた。すると彼は私の視線に返答するように暑いと言って私の身体を後にし、自身の性器を拭き始めた。最初だけ見ていた映画は、クライマックスにさしかかっていた。好意を向ける相手をどうしても手に入れようと思い余ってホテルの部屋に押し入り、犯している男をみて、彼はぼんやりと、俺はわかんないなあ、そこまでしてしたいとか思わないよと言う。私は彼の欲望のしがらみをすり抜けて、どこか淡白で優しいところが好きだった。追いかけない、執着がなく、離れていくものならば手を離す。ぶつかることを極端に避けていた。憎しみが湧かないということは同時に愛も存在しない。私は自分の好いた相手と思いを遂げられるのなら、相手が自分に愛情を抱いているかを重要としていなかった。しかし一方では、猛烈な寂しさに襲われる。私のことを好きか、と出せる回数が決められているカードを差し出すように尋ねてみる。彼は一息置いた。その一瞬が知りたいことのすべてを物語っていると感じ、私は背を固くした。彼はその直後に、言わないからって嫌いってわけじゃないんだよ、と曖昧な言葉を使った。私はその類の言葉を並べられる度、雲を掴むような気持ちにさせられる。なぜはっきりと私を好きと言ってはくれないのか。それに対して彼は私は精神科の元患者であること、私が情熱的な気性であることを理由にする。しかし一人の男の欲望を実行に移した時点で、私が患者だという言い訳はできなくなるはずだが、患者であったという一線を引きたがる。その不誠実さを怒り、嫌なのはこんな自分だと泣いた。彼は収拾がつかなくなった私を見て、ただ緩急つけて何度も私の表情を伺いながら強く抱きしめてくる。目つりあげてこんなんになってたよ、と肩を交互に叩いて落ち着かせようと試みた。彼には私が何に対して全身で怒り震えているのかがわからないのだ。反復運動は自律神経を安定させるのに効果的だという説明などどうでもよく、胡散臭いとさえ思う。裕福な家に生まれ、有数の東大合格者数の進学校を出て、流れるように生きてこれた人。恨んだり疑ったりせずに生きてこられた。私は与えられなければ掴み取りに行かねばならない。彼の率直な言葉をどれほど欲していたことか。そうではない飲み込めない言葉を飲み込み、一緒にいられる努力をする。泣いてしまったことを謝り、自己嫌悪しながら嫌いになってないかと聞く。彼は、その気性は初めからわかってたよ、と穏やかに私をなだめようとする。私はこれが最後になるのではとびくびくしながら彼に付き添われ、改札前で終電近くの電車を待った。新宿駅南口でよく見かける、改札前でなかなか別れたがらないホストと若い女と自分たちを重ねていた。磁石のように張り付いていた身体を微塵ばかり残った理性で引き離し、改札をくぐった。私はまだ、飲み込めない言葉を飲み込もうと努力していた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?