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今日とは昨日の自分が約束した明日である

この前、私はみんなが寝る夜の時間帯に眠るのが怖いと告白した。なぜかというと、「死」について考え始めてしまうからだということも話した。この一週間の間で、眠れない人はトラウマが原因だという説をどこかで聞いた。私は「死」にまつわることがトラウマだということになる。心当たりは探すまでもなくあった。私は、父が17歳の時に亡くなっている。前例のない特異な腫瘍による癌だった。病気が発覚して亡くなるまでは約2年あり、私が高校一年の秋から三年の六月の間だった。私は両親が病気になる想像をしたことは一度もなかった。だから、今でも母が車の中で父からかかってきた電話に対し、でもまだわからないんでしょ?、と答えているのを覚えているのだ。一瞬で、父は病気なのだ、とわかった。

私は父とまともに話したことはほとんどなかった。いつも一言か二言で会話は終わる。それは父が、他の家庭の父親のように優しく温厚でついつい娘には甘い、こんな性格ではなかったからである。もちろん父は私のことをよく考え、17年間育ててくれたと感じている。しかし「娘」との接し方がわからないような父に対し、余計私は素直に会話することが心理的に困難だった。父の病気が発覚して直後、私は居間で母とそのことについて話している父の背にしがみつき大泣きした。すると父は、いますぐ死ぬわけじゃないんだから大丈夫だ、と落ち着いて言ったのだった。その日の夜、私は両親に「父と母の子供でほんとうによかった」というメールを打った。あとにも先にも、私が父に対し素直な気持ちをぶつけることができたのはこの一度だけだ。その後の闘病生活は父にとってどんなに苦しく絶望的だったか、私は一日中想像せざるをえなかった。父の呼吸がおかしく、意識がなくなってしまい救急車を呼んだことがある。そのときの光景はずっとこびり付くように記憶されている。医大病院に運ばれ、集中治療室で息を吹き返し体の反射反応で本人の意思とは関係なく上体を起こそうとする姿もすべて、17歳の私に受け止めることはできなかった。私は父に優しい言葉や励ましの言葉を全然かけることができなかった。それは私が現実を受け止めることが出来なかったこと、父に似た性格をしていたこと、想像に疲れ果て徐々に心を殺していったからである。父と最後に話したのは、亡くなる2週間前だった。「咳がひどくて母が眠れなくてつらそうだからしばらくは実家で夜寝て」と私が父に言ったのである。そのときの父の表情を覚えている気がする。母が疲労で限界だった。私は父に生きてほしいと当たり前に強く願う反面、大きな負担がタフな母を押し潰していることに不安を感じていた。父が亡くなった時、終わったのだ、と安心した気持ちが混ざっていた。それは自分自身の心労、母の心身に対する配慮だった。私は父が火葬されるというとき、周りの葬儀への参列者たちを気にせず壁に拳を叩きつけ声を出して泣いた。永遠に肉体を失うということへの悲しみ、恐怖、これまでの自分への懺悔による涙だったのだと思う。

父が亡くなってから4年が過ぎた。父のことを考えない日は一日もない。葬儀のあと1週間学校を休んだ。登校すると、高校の教師に「少し落ち着いたか」といわれた。私の中にある父の死は年月によって少しも風化しない。こんなにありありと全く変わらない熱量で思いを綴ることができる。父の死後、私は強い虚無感に襲われ、例えば学校で同級生が楽しくしているのを見ても「くだらない」と勝手に心が言い、世の中で素晴らしいとされている名誉にも「くだらない」と思った。父の死に比べたら、世界のすべてのことはくだらないことにしか感じなかった。後遺症は今も変わらない。私は今も周りの同世代より熱がなく、虚無感に悩んでいる。

今年の夏はとにかく暑く、私は様々な体調不良で薬が必要になった。特に膀胱炎に2度もかかり、なかなか思うように治らなかった。他の病気である可能性があるため専門の病院で見てもらうようにいわれ、その日の夜は想像力がはたらき全く眠れなかった。私は健康であることの何ものにも変え難い幸せを思った。朝、すぐに他の病院へいき病気は見つからなかった。しかし、そのとき抱えたストレス、恐怖心は簡単にはなくならず些細な体の変化があると過度に不安がった。私にとって、病気は死を意味する。内蔵が無くなっても命をつなぎとめることができるの?、きっとできない、再発し手術を重ねるにつれ身体はボロボロになってゆくのだ、死ぬのは嫌、とループするのである。呼吸がしずらくなる。呼吸が苦しい状態のまま眠ったら、もう朝は来ないかもしれない。生存が危ぶまれるほどの暑い夏は終わった。しかし私は未だにパニック状態になるのである。不安、孤独、生きることは悲しく苦しいことであるのに、なぜこんなにも私は死に抵抗しているのだろう。まだ死にたくないと必死に忌避している。本を読み、死生観を変えようとする。毎日、少しでも歩く。21歳なんてまだまだ子供だ!と唱え、死から遠ざけようとする。地球の歴史で見たら、人間の一生なんて0.03秒くらいかもしれない。種の進化のためのひとつの世代となり、公共に死んでゆく。私は今、幸せになることを諦められず、これからの人生で一番若い日を生きている。

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