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彼女がスイスで尊厳死するまで(3)

マカオ

二人はビンタン島から戻って暫くするとマカオに出かけた。二人ともマカオは初めてだ。
仙台~成田便はANAが毎日2便だけ飛んでいて、成田空港から出国するなら新幹線で乗り継ぐよりもずっと楽チンなのだ。
二人は成田で乗り継いで香港までANAで飛び、そこから高速艇でマカオへ上陸するルートにした。
マカオ航空なら直行便があるけど、二人ともお世話してくれるANAが好きだった。彼女はいつも、飛行機の右側のドアから車椅子で搭乗させて貰っていたのだ。

しかし、この高速艇が真冬並みに寒くて二人とも凍えそうだった。東南アジアのあるあるの一つだ。
いまなら香港からマカオへは橋を渡ればいいのかもしれない?

「行く時にアップグレードされてビジネス席だったのよ♪」と帰国後の彼女が嬉しそうに話していた。

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とにかく二人ともじっとしているのが嫌だった。残された時間がもったいないと思い始めていたのだろう。

マカオは中国人だらけで辟易としたが、いまさら何処へでかけても観光地には中国人だらけだし、それよりも二人ともマカオのホテル街には感心していた。
この時はコタイ地区(新市街エリア)に泊まったのだけれど、全体が巨大なテーマパーク化していて、宿泊しているホテルの周辺で何でも揃うのだ。食事もショッピングもなんでもござれ状態。期待していたよりずっと楽しかった。

日本から近くて便利なマカオにはこのあと、周囲が呆れるくらい行く事になる。

夏キャンプ

ゴルフも登山も諦めた二人だけれど、キャンプや温泉にはよく出かけた。この年は西日本地方では冷夏だったものの、東北地方は前年を上回る酷暑となっていた。

夏真っ盛りなある日、彼は会社の倉庫に置いていたキャンプ道具をこっそり持ち出して、二人で近くの山へキャンプに出かけた。
誰もいない場所にこっそりテントを張って二人だけで過ごした。組立は彼が一人でやった。

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やがて完全な静寂と闇が訪れ、まるで世界に二人だけが存在するような感じがした。

「ずっとこのままがいい」と彼は言った。

「そうね」と彼女が答えた。

翌朝はいわかがみ平から栗駒山へ少し歩いた。登山はできないけど、二人は久しぶりに登山靴を履いた。
キャンプから戻るとまたマカオへ行ったwww

こうして2014年の夏が慌ただしく終わる頃、涼しくなったら彼女の実家へ病状の報告へ行こうという話になった。彼としては気の重い計画だったが行かなければならない。

病魔はゆっくりと彼女の身体から自由を奪っていく。

それは二人にも分かるようになっていた。
発症から少なくとも2年が経過している。
長くても差引き8年って計算は二人の頭にはあった。予後も考えれば動けるのは数年だろうって事も分かっていた。

彼女の実家は韓国の清州市という水のきれいなところだと聞かされていた。彼もいつか行きたいと思ってはいたけれど、こんな報告する為に行かなければならない事を悔やんだ。

彼女は杖を使うようになっていた。

清州市(韓国)

二人で彼女の実家へ行くのは初めてだった。彼はなにか文句を言われても黙ってやり過ごそうと決めていた。

彼は少しの韓国語は聞き取れたのだが、分からないふりをするつもりだった。彼女もそれがいいと言った。

仙台からはAsianaが仁川空港へ翼を広げていた。漢江を見下ろせる丘に建つホテルで待っていると彼女の甥が迎えに来てくれた。彼女の実家へはソウルからハイウェイで2時間ほどの距離にある。

彼女は5人兄弟姉妹の4番目だった。予想に反してみんな優しく歓迎してくれた。なかでも姉の息子たち(彼女の甥兄弟)は良く面倒を見てくれ、アチコチに連れて行ってくれて楽しい滞在になった。

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ただ、姉を通じて彼女の病気の事はそれとなく伝えてあったのだけど、誰もよく理解できていない様子だった。彼は当然だと思った。

目の前で喧々諤々と話し合いがされている時、細かな部分を聞き取れない彼は義兄の奥さんに頼んで通訳して貰った。義姉は日本語を独学で勉強していた。

親族会議の結果、ソウルの大学病院でも検査をして貰おうとなった。

もしかしたら日本にはない治療法が見つかるかも知れない。誰もがそう期待しているのが分かる。

彼もそうだった。もしかしたら…

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