見出し画像

無限と無の一致

* 世界・思考・言語

20世紀最大の哲学者のうちの1人に数えられるルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインの前期を代表する著作『論理哲学論考』は7つの主要テーゼによって階層化された526個の命題群で構成されています。この7つの主要テーゼのうち1と2は「世界」を扱い、3と4では「思考」を扱い、5と6では「言語」を扱います。そしてこの「世界」と「思考」と「言語」という3つの領野は緊密に結びついています。

すなわち「世界」と「言語」の2つの領野が「思考」という領野によって結びついており、この3つの領野はさらに「論理」や「像」や「意味」によってつながっています。つまり『論考』の全体は「世界」ー(論理)ー(像)ー「思考」ー(意味)ー「言語」という構成になっています。

そして「世界」「思考」「言語」について論じた後に到達する地点が有名な7番目の最終テーゼ「語りえないものについては、沈黙しなければならない」です。そしてこの最終テーゼに到達する直前の6.54では「はしごを登り切った後には、登りきったものは、はしごを投げ捨てなければならない」というこれまた有名なテーゼが現れます。つまり「世界」「思考」「言語」をめぐる諸命題を解明する『論考』は最終的に「投げ捨てられる=自らを消し去る」本として書かれています。

* 独我論と実在論

このような『論考』の中で重要な位置を占めるのがウィトゲンシュタインの「独我論」です。「独我論」とは一般的に言えば「ほんとうの意味で存在するのは私だけであり、それ以外はすべて私のこころに浮かぶ表象に過ぎない」という説です。そこから他人や外部世界などほんとうに存在しないのだとか、確実に知ることができるのは私のこころのみであるというような考えも出てきます。しかしウィトゲンシュタインが考える独我論の中心テーゼは一般的意味での独我論と異なり「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」というものです。

こうしたウィトゲンシュタインの独我論は『論考』では5.6から5.64までの12個の命題群の中で論じられており、その箇所は5.6「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」というテーゼに対する階層化された注釈群となっています。この5.6というテーゼには『論考』の全体像の縮図が現れています。つまり独我論の問題という形で「世界」と「言語」の「限界」の「意味(思考)」が明らかにされるということです。

そしてこの『論考』における「独我論」は「いわゆる独我論」を乗り越えようとする独我論です。ここでいう「いわゆる独我論」によれば「私」は他人たちや他のものと相並ぶような存在ではなく「世界」の方こそ「私」の心に浮かぶ表象にすぎず「世界」は「私」という座標内に位置付けられることになります。

この「いわゆる独我論」と対比されるのが「素朴な実在論」です。ここでいう「素朴な実在論」によれば「私」もまた他者や様々な事物と相並んでこの「世界」の内に存在しているにすぎず「私」は「世界」という座標内のある一点として位置付けられることになります。

このように「いわゆる独我論」と「素朴な実在論」は一見、真逆の立場のように見えます。しかしウィトゲンシュタインは『論考』においてこの二つの立場を徹底化・純粋化することで両者の統合を図ることになります。

* 世界の限界の在り処

まず「いわゆる独我論」では「世界」の外に「私」に相当する人物が残っています。けれども「徹底された独我論」ではいわゆる独我論の「私」を「世界」全体の「限界」へと変換・昇華してしまいます。次に「素朴な実在論」では「世界」のうちに「私」に相当する人物が残っています。けれども「純粋な実在論」では世界内の「私」は心的な要素の複合体へと解消・解体されることになります。

その結果「徹底された独我論」と「純粋な実在論」は⑴「世界」の内にあるのは表象ないし要素の組み合わせからなる諸事実であり⑵「世界」の内にも「世界」の外にも「私」という特別な主体は存在しないという2点でぴたりと付合することになります。

そして「徹底された独我論」のいう「世界の限界」が「何であるか」は「思考」によって「語りえない」ものです。なぜなら「思考」は「世界」うちにある特定の「像(抽象的モデル)」であると同時に世界を写像する作用そのものであるという二重性を持っていますが、後者の意味での「思考=世界の限界」は決して「写像できない=語りえない」からです。

しかしながら「世界の限界」が「どこにあるか」は「言語」によって「示す」ことはできます。なぜなら「言語」は世界を写像する「思考」に規定された「有意味な領域」と「思考」に規定されない「無意味な領域」に峻別されますが、この「有意味な領域」と「無意味な領域」の境界こそがまさに「言語の限界」であると同時に「思考の限界」であり「世界の限界」にほかならないからです。

* 写像から言語ゲームへ

このように『論考』におけるウィトゲンシュタインにとっての「言語」とは世界を写像するための媒体という位置付けにありました。しかしながら『論考』以降のウィトゲンシュタインの言語観は大きな転換を見せることになります。

すなわち、それは⑴言語と言語外の事実との対応という発想から、それにさえ先立つような、あるいはその結びつき自体を創り出すような言語の内なる「文法(言語使用のルール)」という発想へと転換し⑵通常の「文法」から逸脱していく諸事例を「通常とは異なる表現様式」の問題として追跡し、その諸事例の類比的な移行を辿る「言語ゲーム」いうアプローチです。

ウィトゲンシュタインは後期の主著『哲学探究』ではこのような「言語ゲーム」の実践が行われます。同時にここで「私」の在り方をめぐる問題もまた「言語ゲーム」の中に投げ入れられることになります。その重要な一局面が『探究』の243節から始まる「私的言語論」の箇所です。ここでウィトゲンシュタインは我々が用いる普通の言葉から逸脱するような「私的言語」へと到達する「言語ゲーム」を想定します。

この点『探究』の243節では「私的言語」とはさしあたり「その言語の話し手だけが知りうる直接的で私的な感覚を指し示し、他人には理解できない言語(X)」と想定されることになります。しかしこのXの想定に対しては常に次のようなディレンマつきまといます。

まず一つの選択肢としてこのXの規定がどういうことなのかを明確に理解できるとすれば、それは通常の言語内で十分に理解可能な事態であるということになります。もう一つの選択肢としてこのXの規定がどういうことなのかを我々の言語内の文法では決して理解できないとすれば、Xとはそもそも何を想定しべきなのかがわからない無意味なものとなります。

つまり「私的言語」の想定は理解されてしまうことで通常の言語の圏域に回収されてしまい、逆に通常の言語の圏域に位置付けられないならばそもそも何かの想定として始まることができず、いずれにせよ「私的言語」の想定は達成し得ないということです。

ではディレンマに陥ってしまう以上、私的言語は不可能かというと、そうではなく、むしろ可能であるとか不可能であるとか断定できるようになっていないのが言語ゲームにおける私的言語論の特徴であるといえます。すなわち、ここでディレンマは言語ゲームの「類比的な移行(家族的類似性)」を辿る中で反復され、受け渡され続けることになります。

* 無限と無の一致

例えば「痛み」を表現する通常の言語ゲームから逸脱して「痛み」の外的な表出がまったくない言語ゲームがあるとします。その逸脱的な言語ゲームは一方では我々の普通の「痛み」の言語ゲームの拡大・変形として理解されることで私的言語には到達できず、他方でその逸脱的な言語ゲームは我々の言語ゲームをまったく外れてしまうことによって無意味になります。

そこで別の逸脱的な言語ゲームを別の逸脱へと変容させて再び私的言語への接近を試みて「痛み」とさえ規定できない特殊な感覚を「E」という記号に結びつける言語ゲーム(感覚日記)を想定してみます。しかしここでも一方で記号Eに意味を与えようとすると我々の感覚の言語ゲームの拡張・変形として理解されてしまい、私的言語には到達できず、他方で記号Eに私的言語を読み取ろうとすると意味を与えられないまま空回りしてしまいます。

そこでさらに別の逸脱へと変容させて私的言語への接近を試みて「痛み」という規定だけではなく、さらには「感覚」という規定さえも外した言語ゲームを想定しても、やはりディレンマは繰り返されることになります。

このようにディレンマは最終到達点ではなく「言語ゲーム」における「類比的な移行(家族的類似性)」を促す動因であると同時にその移行を貫く形態であるともいえます。このように『探究』における私的言語論は「私的なもの」をめぐる「言語ゲーム」が重なりつつズレていく様子を描写します。しかしそのどこにも「私的言語」それ自体は登場せず「類比的な移行」と「ディレンマの反復」の中で姿を消す仕組みになっています。

このようにウィトゲンシュタインはその生涯を通じて独特のやり方で「私」の消去を試みる哲学を展開しました。そしてこのような「私」の消去は「三角形」や「四角形」の角を無限に増やすと「円」になるように、無限と無という両極の一致によって遂行されることになります。こうした意味でウィトゲンシュタインの哲学とは「私」とは無限であるからこそ無に等しいという逆説の論証であったともいえるでしょう。







いいなと思ったら応援しよう!