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彼女の一息 #ひかむろ賞愛の漣

「こないだ、友達とバス旅行してきたんだよ。はい、これおみやげ」

 先日、彼女はふらりと、すぐ近所に住む長男夫婦の家に寄った。渡したのは仙台銘菓の萩の月だった。息子たちはコーヒーのお供に食べながら、彼女のみやげ話を聞いていた。

 こんなふうに用事がなくても、彼女はよく長男夫婦の住まいに散歩がてら遊びにきて、一息つきに行く。コーヒーや紅茶を飲みながら、他愛ない話をする。最近は買いたてのスマートフォンの使い方を長男の妻に聞いてばかりいる。「ああ、こうするのかあ、わがらねねえ」と、自分に苦笑いしながら。

 彼女は戦後の混乱がようやく落ち着いた頃、生を受けた。

 彼女の父親は理容店を営んでいて、家も土地も大きく、地元ではちょっとした名士扱いされていた。そんなこともあってかある時、知人の借金の保証人になった。だがその知人はほどなく姿を消した。父親は借金をすべて肩代わりした。土地も家も家財道具もなにもかも売り払ったが、それでも残金があった。

 当時彼女は理容専門学校を卒業して、父の店で理容師として働き出したばかりだった。しかし実家の店がなくなるとしかたなく、他の理容店で働きはじめた。だがせっかくの給料は、もらったそばから取り立ての連中に奪われた。あれは情けなかった、と一度だけ、後に産まれる長男にぽつりと語ったことがある。月末お金を取られるのがわかっているから、ほとんど遊びにも行けず、服もなかなか買えなかった。すべてをなくした後、父は隣県の旅館で住み込みの仕事をはじめていた。ちなみに彼女の母親の詳細は一切わからない。ほとんど誰にも語らないからだ。長男にも教えていない。名前すら。

 数年後、彼女はひとりの男性と出会い結婚した。男性はすべての事情を知った上で結婚を申し込んだ。彼女は受け入れ、夫の両親と共に暮らしはじめた。古い借家で、実家の大きな屋敷に比べたら小屋みたいなものだった。結婚を機に理容師の仕事はやめてしまい、専業主婦となった。このあたりの事情も彼女はまわりに語っていない。借金の取り立ては結婚後まもなく来なくなり、父だけが返済を続けていた。

 二年後、彼女は双子の男子に恵まれた。

 彼女としては借金取り立てもなくなり、結婚、出産もし、ようやくささやかな幸せを手にしたと思った。だがそんな時は本当につかの間だった。

 双子の長男の脊髄に原因不明の腫瘍がみつかったのである。

 家のこと、次男のことを家族に託し、入院した長男に24時間付き添う生活がはじまった。

 長男の身の回りの世話をし、回診や検査の説明を聞き、検査やリハビリに寄り添った。夜はベッド脇の床に病棟から与えられた薄い掛け布団と毛布を敷き、着のみ着のままで寝た。一息つく間も、その気にもなれなかった。

 長男はとにかくひどい弱虫の泣き虫だった。病院で検査を受けるたびに泣きわめいた。点滴棒のがらがらいう音が廊下でしただけで、看護師が検温にきただけで、医師がちょっと顔を見に来ただけで怯え、やはり泣いた。赤ん坊の時の方がおとなしかったくらいに。日がたつにつれ慣れたのか、採血やレントゲンくらいでは泣かなくなったが、点滴や注射はだめだった。薬がからだに入るのがとにかく怖かったらしい。

 やがて手術が決まった。腫瘍をできた箇所の脊髄ごと除去する手術だった。この手術をしないと命の保証はないと医師から宣告され、目の前が暗転した。思わず隣にいた夫の腕をつかんでいた。

 よくわからないが「しゅじゅつ」が恐ろしいものというのは、幼い長男にも理解できたらしい。「手術」という単語が出ても長男は泣くようになった。彼女は医師や看護師が説明で手術、と言おうとするたび、失礼もかえりみず医師や看護師の口をばっと手でふさいだ。それでも「しゅ」の響きを聞き取った長男は泣き叫んだ。

 あまりに泣くので「なんで泣くんだず!」と、ある時強い形相で叫んでしまった。長男の顔が固まった。泣くことさえできないというように。空気が凍る、という感覚をその時はじめて味わった。

 術後、長男の下半身は完全な不随となった。下半身が死んだのだ。正解には生死が絡み合った状態になった。

 術後のある夜、彼女はベッドにあがって長男に添い寝し、彼をじっと見つめた。そうしていると、自然にほろり、と瞳から涙が流れた。長男は不思議そうに母親を見つめた。窓からもれるネオンの灯りに照らされた母親の涙をみて、大人も泣くのだ、と長男がその時知ったことを彼女は知らない。

 歩けなくなった後も長男の検査時の慟哭はやまなかった。CT室で泣きながら吐き、吐瀉物を看護師の顔にかけたこともあった。ソーセージみたいに太い注射器を使った投薬治療を受けている時は副作用で吐き気がひどく、食事をほとんど食べなかった。この治療時以外でも、長男は毎回の食事を半分程度しか腹に入れなかった。いくら言い聞かせてもだめだった。入院中、食欲というものが欠如していたとしか思えなかった。結果、彼女の日々の糧は長男の残した冷めた病院食となった。

 二年の入院を経て、長男は退院した。車いすの操作もだいぶうまくなっていた。ようやく父が借金を完済したのは、ほぼど

 しかし、彼女はまだまだ一息がつけなかった。

 長男が養護学校に通うようになってからは、毎日朝と夕方、通学バスの停車場所である保健所まで車を走らせ、送迎をするようになった。もちろんその間、買い物や洗濯、掃除、食事の支度といった家事をすませつつだ。次男の学校行事にももちろん参加しなければならない。誰よりも早く起き、誰よりも働いた。目まぐるしく、慌ただしい日々だった。気の休まる間がなかった。そんなことに長男は気づくはずもなく、ズボンやパンツ、シーツに失禁した。排泄の感覚がないのだから、と、言い聞かせつつ洗濯した。

 長男の養護学校での小、中学生活がおわっても、彼女にまだ安息はおとずれなかった。

 長男は念願だった普通高校を受験し、合格した。それはよかったが、学校側から長男が登校している間の付き添いを命じられたのだ。なにかあった時、責任をとりたくなかったのだろう。

 朝、寝ぼけた彼を車で学校まで連れていった。授業中は道具室で待機した。大きな三角定規やコンパス、世界地図、地球儀、あらゆる資料や参考書の入った棚が乱雑に置かれた落ち着かない部屋で過ごした。今まで手に取るひまもなく、興味もなかった本を読み、編み物をしたりして時間をつぶした。体育館や特別教室への移動がある時はすぐ長男を迎えに行った。大変なのは階段だった。まず長男をおぶって階下に据えてある椅子に座らせると逆戻りし、今度は車いすをかついで運んでくる。そうして体育館などに連れていくとまた道具室に戻る。授業がおわるとまたおなじく彼をおぶり、車いすをかつぐ。下校時間になると共に車で帰宅。すぐ夕食の準備がはじまる。

 そんな生活が三年続いた。長男は紆余曲折の末、地元の社会福祉法人が運営する印刷事業部に就職した。その数年後、おなじ職場の女性と結婚した。結婚式で、彼女は息子のお礼の言葉に泣いた。それよりもさらに泣いていたのはなぜか夫の方だったけれど。次男も三年後結婚し、まもなく孫ふたりにも恵まれた。

 ようやく子育てが一気ついた、と、思った矢先、また長男に災いがふりかかった。腎臓に病が見つかったのだ。狭くなった腎血管にステントを挿入する治療を急遽受け、人工透析はなんとかまぬがれた。しかし長男の体調不良はその後も長く続いた。急な入院のたびに手伝いや見舞いに行かねばならなかった。それは今も続いている。長男は常に疲労感や体調不良に悩まされている。

 いつのまにか彼女は、70歳を迎えようとしていた。

 若い頃は実父のことで、結婚し長男を産んでからは彼のことで、彼女は苦しみ、悲しみ、怒り、過ごしてきた。めまぐるしい日々だった。一息つく時は、どのくらいあったろう。思い返すがあまり記憶から出てこない。

 でも最近、ようやく一息つけることが増えてきた。友人とのささやかな旅。次男にできた孫とのふれあい。長男夫婦とのささやかな茶飲み話。

 そんな彼女は、長男がある思いを抱いていることを知らない。

長男が彼女に「幸せだった?」と訊くつもりがないこと。本当は訊きたくてしかたない。だが彼はそれは母自身が決めることと思い直し、問いかけを封印した。母の姿を長い間見つめ続けて、そう誓ったのだ。

 そして。まだ先の話だが、もし彼女が生をまっとうした時、絶対に泣かない、と決めていること。

 幼き日、病院のなかで彼はさんざん泣きわめき、母を途方にくれさせ続けた。母に泣き顔を浴びるほど見せてしまった。もう自分の涙はたくさんだろう。さんざん親不孝をしてきたが、ここにきてまで涙を見せるのは最大の親不孝だ。だから舌を噛んででも泣かず、母を見送るつもりだ。

 そんな息子の思いを、彼女は知らない。

 萩の月を食べながら、彼女は「んだんだ、そういえば」と、先日ちょっと感動して泣いたことがあったのを思い出し、口を開いた。

「こないだの大相撲、徳勝龍優勝したっけべ? いやあ、インタビュー聴いてたら泣けてきたっけなあ。苦労したひとの泣き笑いは、やっぱいいもんだねえ」

 そんな彼女の話を、長男夫婦は笑いながら聞いていた。

                             了

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