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小説「わたしのともだち」1(全6話)

「ああ、そうだ。こんな山だっけなあ」
 その施設の敷地に車を入れ、こんもりとしたその山が目に飛び込んできた時、由紀は思わず声を上げた。
 駐車場に車を停め、助手席の後ろ側に積み込んでいた車いすを降ろす途中も、その山を眺めた。木々のみずみずしい若葉色の中に、山桜の淡い薄紅色がところどころに彩りを添えている。ぴー、という鳥の鳴き声も響いている。
 由紀は運転席から車いすに乗り移ると、すうっと息を吸い込んだ。県を南北に貫く国道から東にはずれた山あいにその施設はあるので、空気が澄んでいる。由紀は二、三度深呼吸を繰り返した。あの時と変わらず、風に草木と花の匂いがした。
「でもほんとびっくりだよ。由紀ちゃんがここにいたことあったなんて」
 そばで千鶴が言った。
 ここに来るまでの車中、由紀は就職前、この施設にいたことを彼女に告げていた。
 千鶴は由紀が車から車いすに乗り移る間、運転席のドアを支え、由紀を見守っていた。千鶴はこういう時、決して過度な手伝いや介助を押しつけることはない。でももし由紀が本当に困った時はいつでも手を貸せるよう、すぐ近くで見ていてくれる。それが由紀には嬉しく、また千鶴らしいな、とも思う。
「ひさしぶりだから、懐かしいでしょ?」
「そうだねえ」
 由紀はうなずいてから、先ほどから仰ぎ見ていた山を指さした。
「あの山にね、わたし、登ったことあるんだよね」
「ほんとに?」
 千鶴は信じられないといった表情で山を見上げた。
「てっぺんに建物あるの、見える?」
「ああ、あの筒型のでしょ?」
「あれ、貯水池の管理施設なんだって」
「そうなの。はじめて聞いた」
「あそこまでの坂道って、車で行けるように道が舗装されてるの。で、いつも一緒にいたおない年の男の子が登ってみようって言い出してさ。その人も車いすに乗ってる人だったんだけど」
「で、どうだったの?」
「いやあ、もうすごい坂」
 運転席のドアを閉めながら、由紀は言った。
「車いすにおもりつけたみたいだったな。半分登ったとこでやめときゃよかったって思ったけど、ここまできて帰るのもしゃくでね。意地でてっぺんまで行ったんだ」
「すごいね。いい眺めだったでしょ」
「それが、高い木ばっかで景色なんて全然見えないの。まわりも木とあの建物とちっちゃい池しかなくて全然おもしろくないし。ふたりでげんなりして帰ったっけな。まあ下り坂は楽しかったけどね。車いすにエンジンつけたみたいにびゅんびゅん走ってきたよ」
「そう。でもよく登ったねえ」
 千鶴が改めて感心したように言うと、由紀は、ふふっと笑った。
「若気の至り。でもわたしがいた時より建物、はっきり見える気がする。木が伐採されたのかな。今だったらもっとまわりの景色、きれいに眺められるかもしれないね」
「そっか」
 千鶴はいつものやわらかい、でも少しだけさびしさも含まれた笑みを浮かべながら、若葉と山桜が入り乱れる山を見つめた。
 由紀はその山から、千鶴の後ろに建つ広大な建物に目を移した。
 県立のリハビリステーション。心身になんらかの障害を抱えた人が、ここでリハビリや職業訓練を受けたり、地元企業から受注した軽作業などをこなしながら、社会復帰を目指す施設である。基本的には寄宿制で、指導する職員の他に看護師も常駐している。
 由紀も養護学校高等部を卒業した後、一年間この施設でパソコンの基礎的操作や、体力増進のためのリハビリなどの訓練を受けた。その後、以前由紀とおなじような車いす利用者を受け入れたことがあり、トイレなどの施設が整っていた今の職場である印刷会社に就職した。
 千鶴とはそこで知り合った。
 おない年だが一年先輩だった彼女から一か月ほど、印刷の基本的な工程や職場の規則などを教わった。時に誉められ、時に本気で叱られながら。
 でもその研修が終わると、由紀と千鶴は職場で一番気が置けない同僚となった。由紀は編集部でDTPオペレーター、千鶴は営業部と部署も仕事内容も違ったが、休憩時間はよくふたりでコーヒーを飲みながら、職場の噂話や観ているドラマ、聴いている音楽の話で盛り上がった。千鶴が昼休みに外回りから戻ってこられた時は、会議室で弁当を開き合い、互いのおかずを交換して楽しんだ。千鶴が作ってくる玉子焼きはほんのり甘くて美味しく、由紀はいつもお裾分けしてもらっている。千鶴の方は由紀のかぼちゃの煮物が好きらしく「いただき」と言いながら箸を伸ばしてくるのが常だった。
「じゃ、行こうか」
「うん」
 千鶴に促され、駐車場から玄関へ向かっていると、千鶴が「ところで由紀ちゃんさ」と、車いすのタイヤをゆったりとこいでいる由紀の肩を指で突っついた。
「さっきさらっと流したけど、いつも一緒にいたおない年の男の子ってなに? はじめて聞いたよ。ていうか今日、はじめての話ばっかなんだけど」
「だって言ってなかったもん」
 由紀はやはりさらっと流すように答えた。
「いつも一緒にいたって……じゃ、付き合ってたってこと? ていうか、今も付き合ってるとか?」
「ご期待に沿えず、すみませんが」
 由紀は勢い込む千鶴を見上げ、苦笑した。
「付き合ってもなかったし、ここを出てからは一度も会ってないです。携帯番号もメアドもLINEも知らないんだよね。まあ、当時の悪友って感じ」
「そっか。でも、会ってみたかったな」
 ちょっと本気で残念がる千鶴に、由紀はまた苦笑を浮かべた。
 由紀は千鶴と共に玄関に入った。千鶴が靴から持参していた内履きらしいスニーカーに履き替えている間、由紀は脇に設けられたスロープを上がると、上がり口に敷いてあったマットの上でタイヤをスリップさせるようにして転がし、汚れを落とした。
「こんにちは」
 千鶴が左手にある受付の開いたままの窓に声をかけると、すぐ近くの席でノートパソコンに向かっていた職員の女性が立ち上がった。五十代と思しきその職員のネームプレートには「職業指導員 長谷川茂子」と書かれてあった。由紀がここにいた時はいなかった人だ。
「あら藤原さん。こんにちは。いつもご苦労様ね」
「ゆかりちゃん、いますか」
「皆と食堂でテレビ観てると思うけど……」
 長谷川さんの言葉が途切れた。千鶴の後ろにいた由紀が気になったようだ。
「佐山由紀さんです。おなじ職場の方です」
 千鶴が由紀を紹介した。由紀は「どうも、こんにちは」と小さく頭を下げた。
「ご苦労様です。珍しいねえ、藤原さんがお連れ様と一緒に来るなんて」
「今日はちょっとお付き合いで来てもらったんです」
「そうなの。ゆっくりしてってね」
 長谷川さんはふたりに向け、穏やかに笑った。千鶴は「お邪魔します」と一礼して歩き出した。由紀も長谷川さんにもう一度お辞儀してから後を追った。
 長い廊下を千鶴と由紀は進んだ。左手の壁に、水彩画や写真、俳句を綴った短冊など、さまざまな作品が並んでいる。ああ、そうだ、と由紀は思い出した。リハビリステーションにはいくつかのサークルがあり、この壁にはそのサークルに所属している人たちの作品が掲示してあったのだ。由紀がいた頃もあったが、その時より数が増えていた。
 眺めているうち、ひとつの似顔絵に目が止まった。幼児がクレヨンを握りしめて描いたような絵で、目は円の下半分を、口は上半分をそれぞれ消したような弧で描かれ、頬には真っ赤に塗られた円がふたつ。髪の毛はちびまる子ちゃんのお母さんのようにくるくるだが、アニメのように黒ではなく灰色だった。目の下にも太い線で皺が描かれていた。タイトルは『おかあさん』。
 そんな作品をひとつひとつ眺めながら車いすをこぐ由紀とは対照的に、千鶴は真っ直ぐ前を向いたまま歩き続けた。廊下を進む一歩ごとに、普段の、そしてさっきまでの明るさが薄らいでいくような感じがした。
 何度か角を曲がると、右手に広い部屋が見えてきた。食堂だ。ここも懐かしい。
 例の山登りをした男の子と夜中に忍び込み、一緒にカップヌードルを食べようと誘われたことがあった。でもお湯やお茶の沸いたポットが食堂に用意されるのは食事の時間だけと決まっているので、こんな時間にお湯があるわけない。
 どうするの、と由紀がたずねる前に、彼はカップヌードルのビニールの包装を破り、蓋を開けると、ためらいもなく蛇口の水を直接カップの中に流し入れた。
 由紀はびっくりした。そんなの美味しくないよ。すると彼は、二十分待ってろ、と自信ありげに答えた。
 長机に車いすを並べて、言われた通り二十分待った。その間、彼は腹減ったなと、水入りのカップヌードルを前に焦れた様子を見せた。由紀は車いすのポケットに入れていたチョコボールを差し出した。彼は、お、サンキュ、と言いながら受け取り、開け口から直接ざらざらと口の中に放り込み、さくさくと頬張った。
 そうしているうちに二十分がたった。待ちかねたように彼は蓋を勢いよく破り、割り箸を突っ込み、麺を引き出してすすった。美味え。そんな彼の様子を見てから、由紀も蓋を開けてみた。まだ半信半疑だったが、念入りに混ぜてから麺を少し食べてみた。思わず、あ、と声が出た。少し固かったが、意外と美味しかった。
 美味いだろ。
 うん。
 並んで座った奥の長机に視線を向けた時、忘れかけていた彼の笑顔が、由紀の脳裏に浮かんだ……。


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