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ぼくがアジの切り身となった時のお話

幼い頃より、大きな総合病院から小さな町医者と、さまざまな場所でさまざまな医師からさまざまな診察、治療、検査、投薬を受けてきました。

生来の軟弱者なので、特に小さい頃は診察のためベッドに横にされて聴診器をあてられただけでもびくびくでした。まして一瞬ですむ注射やちょっとした点滴をされた時などは、この世の終わりとばかり泣き叫んで、付き添いの親や看護師さんたちを困らせたものです。今思うと面倒くさいがきだったろうな、と恥じるばかり。

といいつつ、大人(?)になった今も泣かないだけでたいして変わりなどありません。血液検査の結果に緊張し、造影剤使用のCT検査を受けるため透明のベッドに寝かされると全身が硬直し、心臓は太鼓のようになります。看護師さんによく「リラックスしてくださいね」と声をかけられますが、「ふぁい」なんて情けない返事をするのがやっとです。

そんななかで、この治療は絶対忘れられないだろう、というのがあります。

とにかく衝撃的で、昨日の夕飯は忘れても、この時のことはウン十年たった今でも鮮明に思い出せます。

ぼくがまだ歩けた頃ですから、三歳か四歳頃のことです。


三歳か四歳の、多分春先だったと思うのですが、ぼくは水ぼうそうに罹りました。

腕から胸、腹、脚と、とにかく全身に小さな水膨れみたいなのがたくさんできたんです。

母はそれを見て、すぐ医者だとばかりに、近所の皮膚科にぼくを連れていきました。ちなみに双子の弟も一緒でした。

診察室には当時で六十近い男性の先生がいました。長い白衣を着て、昭和三十年代の映像でよく見るような黒縁の眼鏡をし、頭に丸い鏡のついたバンド(今ネットで調べたら額帯鏡(かくたいきょう)っていうらしい)をつけていました。

そしてぼくのシャツをめくるとすぐ、「ああ、こりゃ水ぼうそうだな」とあっさりうなずき、服を全部脱いで診察ベッドに横になるよう言いました。

母の手を借りて服を脱ぎ、全身すっぽんぽんになったぼくはベッドに寝かされました。もうこの時点で心臓はばくばくです。

先生はなにやら治療道具をがちゃがちゃさせた後、ぼくに近づいてきました。ぼくは、え、と思いました。軟膏みたいな薬を塗る治療をするとばかり思っていたのに、その手にあるものはそういったものとはあきらかに違っていました。

そして、なんの前触れもなく、治療がはじまりました。

先生は右手に持っていた道具―ピンセットを胸のあたりに持ってくると、小さな水膨れをつまみ、

びっ!

と引っこ抜いたのです。

ぴぎゃああああ!

思わぬ激痛、そしてなによりピンセットで水ぼうそうを引っこ抜くという、想像すらしていなかった衝撃的な荒療治に、ぼくは全身で叫びました。

しかし、そんな絶叫に先生はおかまいなし。引っこ抜いた最初の水ぼうそうを左手に持っていたガーゼでこそげ取ると、容赦なく次に取りかかりました。

びっ!

ぴぎゃああああ!

びっ!

ぴぎゃあああああ!

びっ!

ぴぎゃああああああ!

(ちなみに私note史上、はじめて太字を使ってみました)

寿司職人にまな板の上で小骨を抜かれるアジの切り身のごとく、ぼくは先生からピンセットで水ぼうそうを引っこ抜かれ続けました。そのたびにぼくの悲鳴は診察室どころか、待合室まで響いたでしょう。まさに阿鼻叫喚です。でもやはり先生は涼しい顔でアジの小骨、いや、全身の水ぼうそうをくまなく引っこ抜き続けました。胸や腹がすむと裏返され、背中や腰、お尻にできた水ぼうそうも、巧みなんだかそうでないんだかわからないピンセットさばきで取っていきました。

そして、ひと通り終わったのか、先生の手が止まりました。ぼくはその頃にはもう涙と鼻水と涎でぐちょぐちょです。それでもなんとか終わったか、とひっくひっくしゃくりあげながらもほっとした、まさにその瞬間でした。

先生は、ぼくの当時は大変にかわいらしかった(?)おち〇ち〇をぺろっと持ち上げると、そこの裏に残って最後の水ぼうそうを仕上げ、とばかりに引っこ抜いたのです。

ぴぎゃあああああああああ!

(私note史上、はじめて太字アンド大文字を使ってみました)

ぼくはその日、最大級の絶叫を発しました。だってなんとか終わったと力が抜けた瞬間に、まさかまさかのところをやられたのですから。その衝撃たるやもうディズニーシーのタワー・オブ・テラーだって真っ青です(乗ったことないけど)。大人だって泣き叫びます。泣き叫ぶはずです。というか、泣き叫んでくれ。

ともあれすべての水ぼうそうを引っこ抜き、消毒をすると、すべての治療は終わりました。消毒液もけっこう滲みたはずですが、そんなのはどうでもよく、ぼくはベッドの上で涙も枯れ果て、魂を抜かれたみたいに放心状態でした。まだすっぽんぽんのままで……。


という、ぼくの水ぼうそうの治療のお話でした。

今はたぶんこんな荒っぽい治療はしないはずですが(もしそうでしたら、親子共々もうお気の毒としか……)、当時は今なら考えられない治療やら検査があったと思います。ぼくの以前の主治医だった先生が私家版で出した自伝にも「注射器は何度か使い回していた」とありました。皆さんも物を書く道具はパソコンやスマホがほとんどで、原稿用紙に手書き、なんて方はごくごく少数でしょうしね。医学に限らず、文明の進化は日進月歩だとつくづく実感するわけであります(なんの話だ)。

おまけ。

治療が終わって、先生が引っこ抜いた水ぼうそうのたまったガーゼを捨てようとした時です。診察室の隅で母と待っていた弟に、先生はガーゼを差し出す仕草をしました。そして言いました。治療中とおなじ顔つきで。

「食うか?」

それを聞いた弟。

「食う」

とてもいい弟を持って、ぼくはすごく幸せだなあ、と思いました。(裕らく師匠風に)

おしまい


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