小説「ひかりとコアラといちまいごはん」
「あれ、乗ってきていい?」
ほぼひと月ぶりに会ったひかりは公園に着くと、小声でどこか遠慮がちにささやいた。私は一瞬言葉につまった後、いいよ、とうなずく。ひかりは軽く手を添えていた私のアルミ製の松葉杖から離れた。細い両脚を重そうに運び、向かったのは、パンダの乗り物だった。まるっこく、垂れ目の頭の上に取っ手がついていて、乗るとおなかの下から伸びているばねが前後に動く乗り物。
ひかりはこのパンダの乗り物が以前からのお気に入りだ。隣にはおなじつくりのコアラやくまの乗り物もあるのだが、そちらにはなぜか乗りたがらない。必ずパンダなのだ。
やっぱり、そっちに乗るんだ。
私は自分でいいよ、と言っておきながら、胸に冷たい風が吹いたような思いでひかりの背を見送る。
「たまには、コアラにも乗ってみたら」
パンダにまたがった娘に声をかけた。「コアラもくまもたのしいよ」。ひかりは少し間を置いた後、やはり「パンダが、いい」とさっきより小さな声で返事をした。そうか、とうなずき、後悔の念。こどもには好きなようにさせるのが親のつとめなのに、せっかくひさしぶりに娘に会えたというのに私は。
松葉杖をベンチにたてかけ、座ると重いため息をついた。右側の義足ががっちり装着している腿のあたりが痛く、眉をしかめてスカートの上からさする。一度はずしたかったけど、そうするとこんな外でスカートをめくらないといけない。またため息が出た。
パンダに乗るひかりの後ろ姿に目をやる。来年から小学生の娘の背中は、日に日に大きくなるようでいて、急にしぼんでみえる時もある。今がそうだった。
なぜパンダがそんなにお気に入りなのか。その答えを実は知っている。あれはいつだったろう。普段は仕事から帰るなり、ソファで携帯ゲームにのめりこむ彼が、珍しくひかりを膝に乗せて共にテレビを観はじめた。番組は動物のおもしろ映像みたいなものだった。彼の気まぐれだったろうが、娘はいつも相手にしてくれない父とふれあえるのが嬉しかったのか、窓枠から飛び降りるのに失敗してひっくりかえってしまった猫の姿に、おおげさなくらいに喜んでいた。
そのうちパンダの子どもが、よろよろと木に登る映像が出てきた。彼はかわいいなあ、と頬を緩めた。するとひかりも食い入るようにみた後、画面を指差し、父を振りかえって、かわいいねえ、とまねするように声をあげた。おおげさというより、父の気を引こうと必死なのがすぐにわかった。狭い流しで洗い物をしていた私の膝が、ずきずきと痛んだ。
以来、パンダはひかりの大好きな動物になった。パジャマや靴下もパンダのイラストがあるのを欲しがったし、今自分のかたわらにあるひかりのリュックにもパンダの絵が描かれているし、私の松葉杖にも小さなパンダのシールが貼られている。いつかパンダかうんだ、と、真剣な顔つきで言われたこともある。その夜、娘をパンダ好きにした張本人は帰ってこなかった。
びよんびよん、とパンダと共に遊ぶ娘から視線をはずし、なにげなく公園を見渡す。園内をぐるりと囲むイチョウの黄金色の葉はすっかり落ち、はだかの枝が寒そうだった。まんなかの広場で、兄弟らしい男の子ふたりが、汚れたサッカーボールを蹴り合っている。次は男の子がいいな。そんなことを彼が言っていたことを思い出す。はだかになった枝みたいにうすら寒さを覚え、カーディガンの前をぎゅっと合わせた。
「ねえ、おかあさん」
ひかりの声に、はっと視線を戻した。ひかりがパンダからおりて、こちらにやや顔をうつむかせながら歩いてくる。私の隣に座ると、肘掛けに手をかけ、ジュース、とおねだりした。私はさっきコンビニで買ってきていた、一番安かったパックのオレンジジュースにストローを入れ、ひかりに渡した。
「ねえ、ひかり、ちゃんとご飯食べてる?」
会うたび、たずねたいことはたくさんある。でも、まずなにより聞きたいのは、やはりそのことだった。ひかりはなにも言わず、こくりとうなずいた。横顔をみつめる。確かにそう顔色は悪くない。彼は一応、食事の世話はしてくれているのか。それとも、私の知らない誰かが。開きかけた唇を閉じ、かみしめる。
ひかりは頬をすぼめて、こくこく音を立ててジュースを飲んだ。私も缶コーヒーに口をつける。苦い。やはり砂糖入りにすればよかった。最近、こんなことばかりだ。大事に使っていたドライヤーが壊れたり、気分を変えようとネットで調べた一味違うカレーとやらをルーをブレンドして作ってみたが、なんだかしっくりこなかったり。カレーは三日かけて食べた。義足の補修も業者に頼みたいのだが、お金のことが頭にあり、ためらわれてしまっている。
彼は嘘のへたな男だった。それは彼と暮らしはじめてからすぐにわかった。こどもができたの。そう告げた時に、彼はそうか、と笑い、結婚しよう、と申し出てきた。なんだか夢みたいな一瞬だった。
本当に、一瞬の夢。
それからは一転、もう雪崩みたいだった。深夜まで同僚と飲んだくれてくる。休日はパチンコ、小学生時代からの友達とのツーリング、自室にこもってのオンラインゲーム。そして、家事やひかりの夜泣きでひどく疲れているのにもかまわず、きまぐれに私のからだに覆いかぶさってくる夜。
それらはやがて、洗濯物から漂ってくるかすかな香水のにおい、あわてて玄関に飛び出て応じる携帯の着信やLINE、親子の寝室ではなく自室で寝るなどの、なまぐさい様相へと変わっていった。薄い壁の向こうから聞こえてくる、汚らしいような笑い。その隣の寝間で私は娘の寝るわきで、心臓が膝にできたような疼きに、必死に耐えていた。
離婚届は私から突きつけた。夫は理由をたずねることも、ためらうこともなく判を押した。収入等の関係で本当に、本当に悔しかったけどひかりの親権は取れなかった。彼のその頬はかすかに緩んでいた気がする。書類にサインする時にみえた髪の毛のくせが、ひかりのそれに似ている気がした。私は彼の頬を叩きたくなる右手を必死に押さえつけていた。
携帯のメールが鳴った。少し前に面接を受けた小さな機械部品工場からだった。「このたびは採用を見送らせて……」途中で読むのをやめ、メールを削除した。離婚以来、これで五回目。やはりこの松葉杖と、タイツに隠された義足がネックなのか。アパートの戸棚にある通帳の残高を思う。もう残りはあまりない。なんとかひかりの親権を取りたいのに、こんなありさまでは。
「おかあさん、おなかすいた」
ひかりの声に、自然とうつむいていた顔をあげた。携帯の時刻をみると、十一時半過ぎ。もうお昼なのだ。
そうだね、と言いつつ松葉杖を腋に入れて立ち上がった。いつものように、ひかりが杖に手を添えたのをみて歩き出す。ひかりとはどうしたって手をつないで歩けない。この小さな手とつなぎ合って歩けたら、どんなにいいだろう。娘と歩くたび、いつもそう思う。
連れだって公園を出て歩きながら、冷蔵庫の中身を思い出す。三個パックのハンバーグ。スーパーの値引きの煮物。納豆。牛乳。昨日炊いたご飯の残り。棚にはレトルトのカレー。今夜ひと晩、そんなものでこの子のおなかもこころも満たしてあげることができるだろうか。さっきのコンビニにひかりの好きなオムライスがあったが、財布には飲み物を買うくらいの小銭しかなく、強引に呼び寄せていた。隣に視線をやる。ひかりが足元に目を落とし、小石を蹴りながら歩いている。離婚してからも、ひかりは決して泣かなかった。そのかわり、そんな歩き方をよくするようになった。向こうでもそうなのだろうか。そんな想像をするだけで胸がきしむ。
気がつくと、駅前通りの商店街に来ていた。
右手の魚屋も、向こうの果物屋も洋品店も、みなシャッターが降りている。若いひとが次々にいなくなる典型的な地方都市の、典型的な商店街。もう少し行くと、かろうじてやっている肉屋がある。そこでいちばん安いコロッケとメンチカツを、今日の昼と夜のおかずにしようか。でも揚げ物ばかりでもな。そんなことを考えていたら、左手向こう側にシャッターの上がっている店があった。
首をひねった。あの自転車屋はとうに店を閉めたはずなのに。
「なんか、いいにおい」
ひかりが私を見上げた。確かに香ばしいにおいが、そこからただよってくる。あたたかく、優しく、どこかなつかしいにおい。
眉をしかめながらも、やや松葉杖の動きをはやめた。においと共に、なかからはざわめき。
入口わきにある看板に気づいた。女のひとのイラストが描かれている。肩までの髪の下には、にこやかな笑顔。手に持っているのは、ほかほかと湯気のたつ土鍋。そして着ているのは、これもなつかしい割烹着。そのイラストのわきにあったのは「よばれや」の文字。
よばれや?
松葉杖を握りなおして屈むと、付箋紙にいろいろ書かれている。「いちまいごはん」という大きな文字が、まず目についた。その下に「きょうのごはん、肉じゃがと具だくさんお味噌汁」「ごちそうさましたら、いちまいおかねいれてね」とある。
ここ、なに? 訳もわからずにいると、入口からひょいとひとりの女のひとがあらわれた。思わず目をみはる。肩までの髪と、割烹着と、そして明るく元気な笑顔。イラストの女のひとだとすぐにわかった。
「あら、いらっしゃい」
女のひとは、私たちをみると声を弾ませた。こんにちは、と先に応じたのはひかりの方だった。女のひとはしゃがみこむと、「よくきてくれたねえ、ありがと」と、ひかりの頭を軽くなでた。ひかりは心地よさそうに目をつぶり、唇を緩めて笑みを浮かべる。
さ、どうぞどうぞ、と、女のひとに誘われるまま、なかに入った。その間、女のひとの手が私の背中に添えられていた。無理矢理に押すわけでない。ただ、そっとふれているだけ。それなのに、なぜか強くてあったかい。
なかに入って、また目を見開いた。お客さん、といっていいのかまだわからないが、とにかくたくさんのひとで賑わっている。作業着のおじさんたち。タクシーの運転手。ご近所らしいおじいちゃんおばあちゃん。私とおなじ親子連れ。学生くらいの若い男のひと。なかには車いすのおばあさんもいた。介護らしき女性に、スプーンで食べさせてもらっている。
目についたのは、奥のテーブルにいた数人のこどもたちだった。みんな山盛りにしたご飯を食べながら、楽しげにはしゃいでいる。それにしてもなぜ。今日は平日なのだが。
「なかなか学校に行けない子たちも、ここにきてご飯食べてくの。その後はスマホとかでゲームして遊んでるわね、親御さんが来る夕方までね」
私の疑問を察したように、女のひとは言った。
「あ、ごめんなさい。自己紹介してなかったね。あたしね、アイっていうの。かたかなでアイ」
「私ははるみです。この子は」
「ひかり」
私が言う前に、ひかりは大きな声で名乗ってしまった。ひさしぶりに聞く娘の大声に思わずびっくりしてしまった。
「わあ、元気だね、ひかりちゃんか、いい名前だねえ。ひかりちゃんにはるみさん、よろしくね」
アイさんはなかをちょっと見渡してから言葉を継いだ。
「こないだからね、ここでいちまいごはんはじめたの」
「いちまいごはん、ですか」
看板にあったその言葉を思い出す。
「そう、献立はその日のおまかせ。今日みたいな肉じゃがとか、まあ、普通のおうちのおかずね。あそこに置いてあるから、好きなだけ食べ放題。お代は、いちまいね」
そう、そのいちまいというのも、なんなんだろう。アイさんはみた方がはやいね、と、私たちを店の真ん中あたりに案内した。
大きなテーブルでまず目についたのは、土鍋で炊いたご飯だった。しゃもじの差し込まれたご飯は今は珍しいおこげつき。隣には大鍋の肉じゃが。また隣の鍋には大根やにんじん、ねぎ、豆腐と、とにかく具だくさんの味噌汁。あたたかな湯気に思わずのどが鳴ってしまった。
そして、テーブルのすみにある長方形のお菓子の空き缶。そのなかにはお金がたくさん入れられている。小銭が多いが、千円や一万円もまざっている。セルフサービスの食堂なのか、と思ってもう一度テーブルをたしかめたが、値段らしきものは一切書かれていない。
「おいしそうだね、おかあさん」
ひかりが松葉杖を揺らした。確かにおいしそう。
「あの、ごちそうになっても」
「もちろんもちろん。おなかいっぱい召し上がれ」
アイさんは、お盆に空の茶碗とお椀、そして皿を乗せた。さっそく盛りつけようとしたので、「あ、自分でやれます」と言った。アイさんは、そう、じゃ、とお盆を渡しかけたが、ちょっと私の顔をみつめた後、うん、とかすかにうなずいた。
「そこに座ってて。今日はあたしがやってあげる」
「え、でも」
「なんか、疲れてるみたいだからさ。ゆっくりしてて。次はまかせるから」
ありがとうございます、と、お礼をしながら空いたテーブルについた。なぜかちょっと鼻の奥が痛んだ。
おまたせしました、と、あっという間にアイさんがご飯を運んできた。
「いただきます」
「いただきます」
ひかりと声が合わさってしまった。それを聞いたアイさんはにっこりと笑ってから、ごゆっくりどうぞ、と離れ、肉じゃがの鍋をつかみ奥に運んだ。まだ昼になったばかりなのに、もう補充だろうか。
お盆にあった箸を取り、まずご飯を一口、おそるおそる口に入れた。甘いお米の香り。続いておこげの香ばしさ。家にある、壊れかけてるけど買い直せない炊飯器のぼそぼそご飯とは大違いだ。続いて味噌汁。ふわりと香るにぼしの出汁。大根もにんじんもほくほくだ。肉じゃがも味がしみしみ。肉が普段食べている豚肉ではなく、牛肉だった。たしか牛肉は関西の方だった気がする。アイさんは関西の生まれなんだろうか。
隣をみると、ひかりがこども用のピンクのスプーンを動かして食べている。こんなに夢中で、楽しそうに食べている姿はひさしぶりにみた気がする。
「おいしいね、ひかり」
「おいしいね、おかあさん」
また声が重なった。私たちはくすっと笑った。ひかりの頬についたご飯粒を取って、えい、と口に入れてやると、ひかりはスプーンにじゃがいもをすくい、はい、と差し出した。私はありがと、とぱくりと食べた。
気がつくと、ご飯はふたりともあっという間になくなっていた。ごちそうさましよう、と、ひかりに言った。ここのご飯は食べたらちゃんとごちそうさましなきゃいけないと、なんとなくそんな気がした。
ふたりでごちそうさま、をした後、なかを改めて見渡した。相変わらずお客さんが入ってきて、器にご飯をよそっている。おじいちゃんおばあちゃんのグループは食べ終わってからも残って茶飲み話。奥にいるこどもたちも、まだ賑やかにゲームに夢中だ。
なんだか、いいなあ。
ふわりとからだのちからが抜けるのを感じた。
え、と気がつくと、私はテーブルに肘をついて舟をこいでいた。いつの間にうたた寝してしまったのだろう。壁の時計をみると、三十分くらいたっている。
あれ? と眉をしかめた。ひかりがいない。振り返ると奥のこどもたちのテーブルに座り、女の子ふたりとおしゃべりしていた。
「あ、起きた?」
アイさんが微笑みながらやってきて、私の隣に座った。お盆の上にはコーヒーのカップがふたつ乗っている。
「はい、どうぞ。サービス」
「え、でも」
ご飯やおかずのあるテーブルを振り返る。ご飯に値段はないが、確かコーヒーには四百円とあった。
「遠慮しないで。私もちょっと休憩」
アイさんはぐっと伸びをしてから、コーヒーに口をつけた。私もいただきます、とひと口。香りがからだに満ちていく。インスタントではなく、ちゃんと豆を挽いたものだと、味にくわしくない私にもすぐにわかった。
コーヒーを飲みながら、ふとひかりに目をやる。いきいきとした笑顔が浮かんでいる。人見知りのはずなのに、あんなに笑ってる。
「すぐ仲良くなってたよ。きっとはるみさんに似たんだね」
そんな、とかぶりを振ってから、アイさんに向き直った。
「あの、ちょっと気になってたんですけど」
「なに?」
「さっき、私をみて疲れてるみたいって言ってましたよね」
「ああ、ごめんなさい。あんなこと言って失礼よね。すみません」
頭を下げるアイさんに、いえそんなことはないんです、と両手を振ってから、ただ、と続けた。
「なんで、わかったのかなって、思って」
アイさんはうーん、とちょっと考えるそぶりをしてから応じた。
「はるみさん、ずっと足元みてたでしょ。松葉杖の先とか靴とか。前じゃなくてね。だから、なんとなくそうかなって」
足元。その言葉が、くっと私の胸をしめつけた。
五歳の頃、大腿骨にできた腫瘍が原因で、右脚を切断する手術を受けた。麻酔から覚めると、腿から下がなくなっていた。ほどなく母から渡された松葉杖。
これからはこれが、はるみの脚だからね。
それからは足元を、松葉杖を、靴のつま先ばかりをみて歩くようになった。顔はうつむき、視界に映るのは床や地面や廊下ばかり。前を向くのは、ひとやものにぶつかったりしないかを確かめる時だけ。今もそれは変わらない。
「幼稚園の頃」
テーブルに立てかけた松葉杖をみつめていたら、私の唇が震えるように動き出した。
「うん」
アイさんが、静かにうなずく。
「友達に言われたんです。なにこれ、変な棒って、指差されて」
「うん」
「小学四年の頃は、よくいたずらされました。男子に松葉杖取られて剣道みたいに遊ばれたり、いつの間にかなくなって壁に手をつきながら必死で左脚だけで歩いて探したら、掃除用具入れに汚れたモップといっしょに入れられてたり。雑巾もかけられてました。ずっと後までにおいが取れなかった」
「うん」
「中学生の時、みんなで机合わせてお昼食べてたら、机の下で義足、ごんごん蹴られました。それでこわれちゃって母に怒られて。でもわけは言えなくて」
「うん」
「高校二年に、はじめて好きなひとができました。告白しようか迷ってた時、そのひとが廊下で友達の前で私の歩く恰好を笑いながら真似してたんです。ほうきを二本ついて背中曲げて。まるでおばあちゃんみたいな感じで」
「うん」
「就職も、なかなかうまくいかなくて。やっと採用された工場でも、うまくまわりのひとたちと溶け込めなくて。朝礼とかに集まるのもどうしても遅くなって、上司に一応考えて行動してくれないと、そういうからだなんだろうから、って言われました」
「うん」
「そこで会ったひとと、結婚したんです。最初は優しかったんです、すごく。一緒に住もうって言われた時はうれしくて。でも、だんだん気持ちが離れていって。こないだ、離婚しました。本当に悔しかったけど、親権取れなかったんです。朝、ひかりが寝ているうちにアパートを出ました。その時、彼に言われました。おまえが普通だったらな、って」
「うん」
「でも、ずっと父や母にも言われてたんですよね。おまえは普通なんだからな、ほかのひとと全然変わりなんてないんだから、だから胸張って生きろって」
「うん」
「私もそのつもりでした。でも、普通でも、松葉杖隠されたり、義足蹴られたりしたんです。好きなひとに変に真似されたり、一度は愛したひとに普通だったらなんて言われたり。娘も取られて、次の仕事もなかなか見つからなくて。私は、普通のはずなのに」
「うん」
「普通って、なんなんですかね」
そのひと言をこぼした瞬間、すっと頬に冷たいものが流れた。コーヒーカップをすがるように両手で握り、飲んだ。アイさんの淹れてくれたコーヒーはあたたくて、優しくて、どこか切ない味がした。
気配がして顔をあげる。ひかりがいつの間にかそばに立っていた。頬がぬれている私の顔を心配げにみつめた後、くしゃくしゃのハンカチを出して、おぼつかない手つきで私の頬を拭った。
「おかあさん」
それだけを、ひかりはつぶやいた。私は抱き寄せ、今度はこらえようもなく泣いた。
「ねえ、ひかりちゃん」
アイさんの優しい声がした。
「なあに」
「おかあさんの背中、なでなでしてあげてくれる?」
「なでなで?」
「うん。おかあさんね、ちょっと疲れてるみたいなの。でもね、ひかりちゃんがなでなでしてくれたら、きっと元通り元気になるから。だから、お願い」
わかった、と、ひかりはしっかりと応じた。そして私の背中をアイさんの言う通りになではじめた。小さな手が、私の背中を何度もいつくしむ。それはまるであたたかい陽だまりのようでもあり、干したばかりの布団のにおいのようでもあり、それこそアイさんのご飯やコーヒーのようでもあった。
私は娘を抱きしめながら、娘に背中をなでられながら、いつまでも泣いていた。
「本当にご迷惑かけてしまって、すみません」
私は真っ赤な目をこすりながら、アイさんに深々とおじぎをした。
「いえいえ、とんでもない。ひかりちゃん、ご飯、おいしかった?」
アイさんがしゃがんでひかりに問うと、ひかりは大きく、うん、とうなずいた。
「じゃ、また来てね」
アイさんはひかりの髪をなでた。さっきはよくできました、とでもいうように。
そうだ、お代を払わなきゃ。そう思い、ご飯やおかずの乗っていたテーブルに近づく。でも、本当にいくらなんだろう。このお菓子の缶にお代を払うのはまちがいなさそうだけど。
「お代はね、いくらでもいいの。ただし、いちまいね」
「いちまい?」
「そう、いくらでもいいの。十円でも百円でも五百円でも。もちろん一万円でも大歓迎。とにかく、あなたの気持ちのお金を入れて。ただし、いちまいね。七百円とか、そういうのはなしよ」
それで、いちまいごはんなのか。ようやく納得した私は財布を取り出した。少し隠すように中をのぞく。当然のようにあまりお金は入っていない。でも。
私は小銭入れにいちまいだけ残っていた五百円玉を、そっと缶に入れた。かちり、と軽やかな音がした。
すると、それをじっとみていたひかりがリュックのポケットを開けた。なかから取り出したのは、お小遣いの残りの十円玉だった。それを私のように缶に入れると、なぜか二度、ぱんぱんと手を鳴らした。
「ちょっと、神社じゃないんだから」
私が頬を赤らめて言うと、アイさんが全開の笑顔で笑った。
「毎度ありがとうございました」
「あの」
「ん?」
「また、食べにきても」
「もちろん。いつだって待ってるからね」
私の言葉が終わる前に、アイさんは元気よく言った。
おじゃましました、と、店を出ようとすると、奥から「また遊ぼうねぇ」と、さっきひかりといた女の子たちが手を振った。ひかりも大きくうなずき、負けじとばかりに大きく手を振り返した。
「おかあさん、もう一回公園行っていい?」
よばれやを出て家路に着いていると、ひかりが言った。なんだか午前中よりずっと表情が明るい。
いいよ、とうなずき、私たちは公園へと脚を向けた。あれ、と思った。なんだか景色が今までより広くみえるような気がする。その理由はすぐにわかった。なんのことはない、私が前を向いて歩いているからだった。
公園に着くと、ひかりは松葉杖に添えていた手を離して駆け出した。またパンダに乗るんだろうな、好きだもんな。そんな風に思っていたら、彼女が一目散に向かったのは、パンダではなく、コアラの乗り物だった。ぱっとまたがると、びよんびよんとコアラと共に弾んだ。
「おかあさあん!」
ひかりが、さっきのアイさんみたいな笑顔で手を振った。
私も笑顔を浮かべながら、松葉杖を動かしながら、ゆっくり娘に近づいていった。まずはベンチに座ってひかりの遊ぶ姿を目に焼きつけよう。今夜は家にあるだけの材料で、できるだけあったかいご飯をひかりに作ってあげよう。ひかりが眠ったらパソコンを出し、求人サイトを開いて次の職を探そう。そんなことをつらつらと思いながら。
了
※この作品は、私の大切なおふたりであるタダノヒトミさんと、はるさんに捧げます。
いただいたサポートは今後の創作、生活の糧として、大事に大切に使わせていただきます。よろしくお願いできれば、本当に幸いです。