傷を負いながら、はたらき切ったひと

すっかり片付いてしまった隣のデスクを、今、じっと見つめている。

長年、職場で印刷業務に携わってこられたKさんが、今月末で退職される。だが今週より有給消化に入ったので、実質的な業務は先週で終了した。

Kさんは私とおなじ下半身まひのハンディを持った車いすユーザーである。二十九歳の時の、仕事現場での転落事故によるけがが原因だったらしい。病院での治療やリハビリを経てこの職場に入り、以来三十年以上、文字通り工場の第一線で働き続けた。

私が高校卒業後、この職場にやってきた時の上司兼指導係がKさんだった。研修時期、仕事の内容や手順などをいちからKさんに教わった。その時のことを思い返すと、「とにかく辛かった」という言葉しか出てこない。

けがをする以前は建設現場で働いていた、ということもあったのか、とにかく言葉使いが厳しかった。「そんなのもわからないのか」「それ、こないだ教えただろ」「もう忘れたのか」「だから違うって」隣からかけられる言葉に、高校を出たばかりでまだ学生気分の抜けていなかった私は、文字通り縮みあがった。当時の主力だった編集専用機のマウスを持つ手が、ある時ぷるぷる震えたのを覚えている。

早く仕事を覚えないと、ずっとこのままだ。編集機の説明書を家に持ち帰って読んだり、まわりの先輩方にこっそり聞いたりした。それでも覚えの悪い私はなかなか操作がおぼつかなかった。最悪の時期は夜になると、腹痛や下痢を起こすようにさえなった。

ようやく、よろつきながらも仕事をこなせるようになったのは、三ヶ月くらい後だったろうか。とりあえず研修時期を終えた時は、心底ほっとした。

それからまもなく、組織換えや配置転換などがお互いあり、三年後、再びKさんがリーダーのチームの一員として働くことになった。

久しぶりだったが、Kさんは相変わらずだった。私はそれほどでもなくなったが、チームの先輩や同僚がかなり仕事の出来上がりやミスに対して、厳しくあたられた。けんか寸前まで言い争うことも、暴言とさえ言える叱責もしばしばだった。Kさんと合わず、配置転換を求めたひとや、やめてしまったひともいた。チーム内は常にぴりぴりしていた気がする。

このひとがもしやめた時は、みんな喜ぶだろうな。叱られる後輩を見ながら、そんなことさえ思ったことがある。

だか五十を過ぎたあたりだろうか。体調を悪くして入院を何度か繰り返すようになってから、徐々に変わっていった。チーム内での接し方は変わらないが、気力が減退したというか、少しずつちからがすり減っていっているような気がした。もちろん加齢もあったろうが。

そして、六十を迎えた。定年だが職場の規定で六十五まで継続勤務ができるので、Kさんは引き続き仕事を続けた。ただ長年務めたリーダー職は、私の先輩に譲り、みずからはいちオペレーターとして働くことになった。

新しいリーダーには「このやり方じゃないだろ」と、変わらず意見を言うのでは。チームの同僚とそんな話をしたが、まったくそんなことはなかった。ただ黙々と、渡された仕事をこなすだけになった。一切、身を引いたのだ。驚くくらいに。

それからの五年は、体調も体力も落ち込みが激しかった。午前休憩や三時の休憩も、茶も飲まず机にうずくまり、少しでも、と休養を取った。すっかり薄くなった頭髪をみて、いろんな事情があるからだろうが、どうしてここまで働くのだろう、と思った。私も、というか私の方が体調不良の日々が多いから、なおさら。

去年秋、元同僚の方が急逝された。駆けつけた通夜の席で、Kさんはずっとハンカチで目元を拭っていた。あのKさんが泣いてる。肩を落とした後ろ姿に、年齢の重なり、生きてきたことへの疲労が感じられた。

徐々に薄らいではいたが、若い頃から私のなかにずっと淀んでいたKさんに対する威圧や嫌悪が、完全になくなった瞬間だった。

そして先週、実質的に退職となった。私はその日、相変わらずの具合の悪さで、最後の挨拶さえかわせなかった。送別会が計画されていたようだが、本人の希望でとりやめになったという。

Kさんは若き日、思わぬ傷をからだに負った。それでもはたらき続けた。こういう言い方はもしかするとあまりよくないかもしれないが、ハンディを持った身ではたらくことは並大抵のことではない。私の職場でも排泄や食事に時間のかかるひと、持病を抱え頻繁に通院を余儀なくされるひと、週三回の透析をしながら仕事をしているひともいる。私がいる間も、さまざまな方が体調や持病のため、やめていった。

そんななか、Kさんは三十年以上、はたらき切った。

今、Kさんには、どんな景色がみえているのだろう。

とにかくやりきった、そんな満足感に包まれているのだろうか。ままならないことの方が多かったいきかたに、虚無感を覚えているだろうか。ようやく休める、と安堵しているのか。それは誰にもわからない。ただ、傷を負ったからだで三十年、はたらき切った。その事実だけを残して、Kさんは去った。

私がその時を迎えた時、どんな景色がみえるのだろう。

その時まで、はたらき切れるだろうか。弱るばかりのこのからだだ、あまり自信はない。だが、はたらき切った後の景色をこの目でみてみたい、とは思う。だから、やれるだけは、やってみるつもりだ。

午後、からっぼになったKさんの机をよくみると、ずっと愛用していた定規が残されていた。誰かがこの席に来た時、使ってもらえるよう置いていったのか、それとも単に忘れたのか。

私はその定規を取り、打ち合わせなどで使うチームの共用机のペン立てに入れた。ふと誰かが手に取った時、「ああ、これって」と思い出したりするのも悪くはないだろう。





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