smash!

 「そっか、そういう人なんだ。……ごめん。そういうのって、やっぱりあたしだめ』
 「ゆき」からメールはそれだけだった。おれはため息もつかず、スマートフォンのクリアボタンを押し、メールを削除した。メールは一瞬できれいさっぱりなくなり、着信したことさえも嘘のようだ。すぐに「ゆき」のアドレスも消す。最近はこういうメールがきたら、すぐ消すようにしている。とっておいても無意味なものだ。
 「ゆき」はマッチングアプリで知り合った「自称」大学生の子だった。しばらくいい感じでやり取りしていたが、先日彼女の方から「会いたい」と言ってきた。その瞬間思った。ああ終わりか、と。それでもわずかな望みを託して返信した。「いいよ。でも、おれ、車いす、なんだけど」……それの返事が先ほど消したメールだった。
 この「ゆき」で何人目だろうか。わかってはいたが、出会い系なんてのはいい加減なもんだ。それまではうざいほど絵文字をべたべた貼りつけたメールをよこすくせに、本当のことを言った途端、省エネメールでラストである。
 毎度のことで慣れてはいる。でも胸くその悪さが変わることはない。おれはスマートフォンを車いすの背もたれポケットにねじ込むと、多目的トイレのドアを荒々しく開けた。スライド式のドアは音を立てて滑り、二回ほどバウンドしてようやく閉まる。
 廊下を抜けると、白い小さなボールがかわいた音をたて、弾みながら転がってきた。それを拾うと鈴木先生が右手にラケットを持ちながら、どたどたと走り寄ってきた。
「おお、直幸君。ずいぶんトイレ長かったな、具合でも悪いのか?」
 おれは首を振り、ボールを手渡した。長かったのはトイレでメール見てたからです、などと正直にこたえるはずは、もちろんない。
「そうか。よし、じゃあフォアの練習でもすっか」
 鈴木先生はそういうと、さっさとアリーナに戻っていった。青いジャージ姿の先生は、最近腹のでっぱりがだいぶ目立ってきたが、無駄なくらいの張り切りようは変わらない。
 おれはことさらゆっくりと車いすをこぎながら、体育館のアリーナのドアをくぐった。ボールの音が大きくなった。身体にさまざまな障害を抱えた人たちが、卓球の練習に打ち込んでいた。その輪の中に、車いすに乗った自分も入っていく。
 一年半前は、想像もできなかったことだ。

 おれが下半身不随となり、車いす生活になったのは高校を卒業してすぐだ。原因は交通事故。夜中に静まりかえった二車線の直線道路を、バイクで制限速度五十キロオーバーで走っていた。すると石でも踏んだのか、急に後のタイヤが右にぶれた。道路に叩きつけられ、バイクごとすべっていき、電柱に激突した。
 三日ほどの意識不明、二回の手術、下半身不随の宣告、苦痛の絶えない治療、辛いリハビリ、動かない脚への怒り……。あれから一年半たった。いろいろなことがあったが、全部夢の中のできごとだったのか、と思うほど嘘っぽく感じる時もある。
 高校を卒業し、念願だったバイクも手にいれ、仕事もばりばりこなし、友達とも遊んで、彼女も作って……。新しくむかえるだろう日々に自分なりに気合が入っていた、そんな矢先だった。それだけに、一年半たった今でも、まだこれからどうすべきなのかわからずにいる。
 退院して家に戻ってからも、何もする気など出なかった。外に出ればくそがき共の見世物になるだけだし、段差だらけの道は車いすにはきつく、すぐ疲れが出る。部屋にこもり、コンポでCDを大音量で聴きながら、乗れなくなったバイク雑誌を読む日々が続いた。
 退院してほどなく友達も見舞いにきて「今度遊びにいこうぜ。ちゃんと俺らが車いす押してやっからよ」なんて言ってくれて、少し期待もしていたのだが、結局それ以来彼らが来ることはなかった。連絡すらなかった。不思議と落ち込みはしなかった。
 そんなある日来客があった。入院時、リハビリ担当だった鈴木先生だった。鈴木先生は、「閉じこもってないでスポーツでもやってみないか」と言った。そこで誘われたのが地元の身障者卓球クラブだった。彼はこのクラブの裏方兼コーチをしているというのだ。
 最初、というか今でもだが、あまり乗り気ではなかった。身障者スポーツといわれ、まず想像したのがバスケットボールだ。車いすをぶつけ合いながら、ボールを追い、シュートを決める……。そういうのならかっこいいかも、と思い、とりあえず見学に行ってみた。
 理想とのずれはかなり大きかった。まずメンバーの年齢層がえらく高かった。おれの親と同じかそれ以上の年代の人が多かった。練習もよく公園で見かける高齢者のグラウンドゴルフのように、よく言えば和気あいあい、悪く言えば年寄のひまつぶしといった感じ。気合い。覇気。やりがい。どこかで求めていたそういう空気感はまるでないクラブだった。
 すみませんおれはちょっと、と、鈴木先生に断りを入れようとしたが「とりあえず一か月くらいやってみたら」などと調子よく言い重ねられているうち、気がついたらクラブ員になっていた。
 家にいるよりはましか、と意欲もないまま始めたが、鈴木先生によるとおれはかなり筋がいいらしい。実際始めてまだ二ヶ月しかたってないが、何年もやっているメンバーの人と試合をしても互角に張り合い、勝つほどだった。まわりからは「すごいね」「才能あるよ」とおだてられた。しかしおれに言わせれば、ずっと温泉卓球をやっていたおばさんに勝ったところで嬉しくもなんともない、というのが本音だった。世話になったし、せっかく誘ってくれた鈴木先生の手前続けていたが、いつやめようかと練習のたび考えていた。

 いくぞ。鈴木先生がボールを打った。ボールはネットをこえ、おれの右側で一度バウンドした。おれはボールがバウンドの頂点に達したところでラケットを当てた。ボールは同じく先生の右側にかえっていく。そしてまた打ち返す。そうしてラリーを鈴木先生と繰り返した。先生はおれが打つたびに「いいねえ」「その調子」と声を上げる。全く、何でこの人こんなにテンション高いんだろ。皮肉でなくいつも感心する。
 隣では膝に障害を負ったおじさんと、やたらでかい車いすに乗ったおじいちゃんが打ち合いをしていた。しかしおれたちに比べると明らかに球のスピードがない。ラリーも長く続かない。アウトになったり、空振りしたり。その度におじさんは「ありゃー」と頭をかき、車いすのおじいちゃんは「いやあ下手だなぁ」と笑う。もう少し真剣にやったら、と自分のやる気のなさを棚に上げておれは思う。
 出入口近くに転がったボールを拾おうと近づいたその時だった。アリーナの重い扉がゆっくりと開いて、一人の車いすの男の人が入ってきた。おれの目は吸いつけられるようにその人に向かった。初めて見る顔だった。
 その人は明らかに他のメンバーとは違う雰囲気を持っていた。紺のナイキのウエアに身体を包み、最新型らしきOXの車いすはブルーを基調にした色使いで、タイヤはターンのしやすい八の字になっている。
 彼はおれの姿を認めると、口にほがらかな笑みを浮かべて会釈した。おれも頭を下げたが、気づかないうちに眉をしかめていた。なんだこいつ、えらく格好つけてんな。ちなみにおれが着ているのは安物のジャージ。車いすは病院にあるような、どっかりと腰の座った重い「ママチャリ車いす」である。
「よう、桜井。久しぶりだな。しばらく来ないから雲隠れしたかと思ったぞ」
 額の汗を拭きつつ、鈴木先生はネットを揺らすような声で言った。他のメンバーも彼の姿に気づき、にこやかに挨拶する。桜井と言われたその人は照れくさそうに頭を下げた。
「お久しぶりです。すいません、なかなか来られなくて」
「仕事忙しいみたいだな」
「ええ、こき使われてますよ。もうマウス持ちたくないですね。彼ですか、直幸君って」
 二人の会話を聞くともなく聞いていたおれは突然自分に話題を振られ、目を丸くした。桜井はやわらかい笑みを崩さずに、
「聞いてたよ、いい新人が入ったって。もう秋元さんともいい勝負するんだってね」
 その言葉におれはため息をつきつつ鈴木先生を睨んだ。ピンポンおばさんに勝ってもすごくなんかねえだろよ。そんな思いを知ってか知らずか、鈴木先生は桜井の言葉にご満悦、といった様子でうなずいている。 
「鈴木さん、直幸君とやっていいですか?」
 ウエアを脱いだ桜井がストレッチをしながら言った。青や赤のラインがランダムに引かれた鮮やかなユニホームが似合っている。
「やってみてくれよ。直幸君、遠慮するこたないからな。どんどん打ってけよ」
 鈴木先生は気合を送るようにラケットをぶんぶん振りながら台から離れた。代わりに桜井が入る。よろしく、と軽く頭を下げる。おれは不機嫌な表情を隠せないまま頭を下げた。桜井は背筋を伸ばし、台に対してやや右斜めに構えた。
「さ、いいよ。思いっきりきな」
 再びにこりと笑みを浮かべて、桜井は言った。なんだよ、このさわやかスポーツマンって笑顔はよ。言葉を無視しておれは構えた。こうなったら「期待の新人」の力、見せてやろうじゃねえか。妙な気合が入った。
 左手にのせたボールをふわりと上げ、ラケットをボールの上をこするように当てる。上回転のかかった、相手コートでぐんと伸びるドライブ。おれの得意なサーブだ。
 ボールは桜井の右隅にとんでいった。いいコースだ。さあ、どうくる?
 桜井はラケットを軽やかに振った。ボールは倍のスピードを得てリターンされてきた。ボールはおれが手を出すまもなく、後へ飛び去っていってしまった。
 え? 何が起こったかわからない。呆然と後を振り向いた。ボールは床で激しくコマのように回っていた。
「うん、いいサーブだ」
 簡単にリターンしたにも関わらず、桜井は感心したように言った。今は笑っていない。眉を上げ、おれの力量をはかっているかのように見える。おれはわずかに身震いした。
 今度はこっちから、と、桜井はボールを左手に乗せた。さあ、と声を上げ、宙に浮かせる。ボールが割れるような音がした。放たれたサーブは、ネットの上ぎりぎりのところを飛び越えておれに襲ってきた。その速さと低さに目がついていかない。あわててラケットを下から上にすくいあげるように出し、かろうじて打ち返す。大きくアーチのかかったリターンが、桜井側の台で弾んだ。
 桜井は大きく右腕を振り上げ、そのボールにラケットを叩きつけた。破裂音がした。空気を切るような勢いでボールはバウンドし、おれの耳元をかすめた。しゅんと音がした。思わず声を上げ、顔をそむけてしまった。
 自分の心臓の音が聞こえた。水に浮くような軽いボールが弾丸のようだ。今までに経験したことのない強いスマッシュだった。目の前の桜井がいきなり大きく見えてくる。次は何がくるんだ。おれは粘りのある唾を飲み込んだ。
 その後は、もうぼろぼろだった。うねるように上下左右自在に曲がるサーブや、台を這う高速サーブに翻弄された。逆にこちらからのサーブはどんなに回転をかけようが速く打とうが、鮮やかに返された。少し高いボールがいけば、あのスマッシュがきた。ラリーになる展開に、一度も持ち込めなかった。
 今までの甘い卓球ではない。隙あらば容赦なく相手を叩きつぶす。常に神経を研ぎ、ラケットを武器と化しているプレイヤーの姿を、おれはこの時初めて見せつけられた。

 休憩時間になった。メンバーは休憩所で缶コーヒーなどを飲みながら談笑を始めた。鈴木先生も腰に手を当ててスポーツドリンクをうまそうに飲んでいる。会話の中心にいるのは桜井だった。練習中の鋭い目つきは再び優しいものに戻っており、他愛のない話に笑い声を上げている。
 おれはそんな桜井を、休憩所から離れた壁際で見つめていた。頭が混乱しているような、でも空っぽのような、わけのわからない苛立ちに包まれている。唾を吐き捨てたかった。
 頭を振り回してからスマートフォンを取り出した。親指をすばやく動かし、「ゆき」を見つけたのとは違うマッチングアプリをやけ気味に開いた。
「おつかれさん」
 気が付くといつの間にかそばに桜井がいた。これ、と缶コーヒーを手渡す。おれは「いや、いいっす。喉かわいてないんで」と無愛想に返した。桜井とは目を合わさず画面を睨み続ける。
「そっか。いやあ、久しぶりにやると疲れるね。年かな」
 拒まれた缶コーヒーを自分で飲むと、桜井は苦笑した。
「でも直幸君、本当うまいよ。まだ二ヶ月なんだろ。たいしたもんだ」
「いや、全然っすよ」
 半分いじけ気味に言ったのが自分でもわかる。何がうまいだよ、こてんぱんだったじゃんか。そんな空気を感じたのか、桜井はまた苦笑いを浮かべた。
「そりゃこっちは長いことやってきたからね。でもおれが二ヶ月の頃と比べれば、直幸君の方が全然すごいよ」
「んなこたないす」
「本当だって」
 その時桜井のスマートフォンが鳴った。メールのようだ。そこで何気なく言った桜井の言葉に、おれは目を見開いた。
「かみさんからか」
 かみさん? この人、結婚してんのか?  思わず声に出そうだった。つうか、あんた身障でしょ? 車いすだろ。なのに、結婚してんのか。
 笑みを浮かべメールを打つ桜井を、信じられないような思いで見つめた。自分の知っている身障者で結婚している人を見たのは、これが初めてだった。自分の持っているスマートフォンに目がいった。慌ててネットを切った。顔が真っ赤になるのが自分でわかった。
「ごめん、話の途中で。直幸君もさっきからメールしてるね。もしかして彼女とか」
「ちがうっすよ」
「またまた、いるんじゃないの? けっこうもてそうだからなあ」
 冷やかしのつもりか、桜井は軽い口調で言った。しかしそれがおれの中にある霧のように薄いが、可燃性の高い苛立ちに火をつけた。
「んなわけないだろ。大体、あそこも立たねえ身障の野郎に女なんてできるわけないでしょ。桜井さんこそいいすよね。仕事もあるし、卓球もうまいし、なんたって奥さんまでいるし。ちゃんと立つんでしょ? うらやましいすねえ、そうでなかったら結婚なんてできっこないですもんね」
 息継ぎさえせず、おれは言葉を投げ散らかした。桜井は呆然と、しかしどこか寂しげな顔でコーヒーの缶の飲み口に目を落としていた。おれは唇をかんだ。後悔がわきあがる。しかし流れ出た感情は余震を押さえられなかった。
「おれはだめっすよ。仕事なんて考えられないし、女だってできないし。卓球だってそうだ。あんたになんか、かないっこない」
 鈴木先生から練習再開の声が上がった。おれは泥を混ぜたような重い空気に耐えかね、桜井をその場に置いたまま真っ先にアリーナに戻っていった。桜井の視線を背中に感じたが、振り向きはしなかった。

 おれはその後、鈴木先生とラリーを繰り返したがやる気は完全になくなっていた。ラケットを持つ手に力が入らないまま、その日の練習は終わった。
「どうだった桜井は? このあたりの選手の中では一番強いから、やりがいがあったろ」
 散らばったボールを集めていたおれに、鈴木先生が声をかけてきた。そこでいつの間にか桜井がいなくなっていることにはじめて気づいた。
「桜井さんは?」
「明日も早いからって、休憩終わったら帰ったよ。また直幸君とやりたいって言ってた」
「それだけ、すか」
「そうだよ。ん、何かあったの」
「いえ、別に」
 妙な感じがしたのか、鈴木先生が何かを促すように自分を見ている。こういう時の鈴木先生は変に鋭い。おれはそれに負けた。胸のうちを正直に話した。
「すごいっすよ、もう。卓球はうまいし、ばりばり仕事もしてるし。それに、結婚までしてるし。なんか、むかつきますよ、はっきりいって。こんだけ違うなんて。おれと同じ車いすだってのに。くそったれでしょ、おれ。最悪すよね。正直に言ってくれていいすよ」
 最後はわざと挑発的な口調で言った。殴れるかもなと思った。しかし鈴木先生は殴らなかった。怒りもしなかった。
「今の直幸君からしたらそう見えるかもな。でも、こういう言い方は本当はいけないんだろうけど、君の方がずっと恵まれてんだよ」
「どこがですか。だって……」
「まあ、かりかりしないで。桜井な、ずっとあのままじゃいられないんだ。進行性なんだよ、あいつの病気。だんだん筋肉が弱ってきて、身体動かなくなってくるんだ。将来的には卓球どころか、日常生活も不便になる可能性がある」
 鈴木先生は抑揚のない声で語った。首にかけたタオルの両端を握りしめている。絡まりあった感情が、タオルに染み込みそうだった。
 何も言えずにいるおれに、鈴木先生は顔に無理に笑みを貼り付けて言った。
「君は本当に今からだよ。まだそうは思えないのかもしれないけどね。でもね、直幸君は卓球のセンス、本当にいいんだ、いつか桜井なんか簡単に打ち負かしちゃうだろうな」
「そんなの、無理っすよ」
「大丈夫。おれ、自分の目には自信あんだ。さて、さっさと片付けるか」
 鈴木先生はいつも通りに大口で笑いながら、肩を叩いた。骨の髄まで響きそうで思わず肩を押さえた。それを大げさととらえた彼は「全く、リアクション上手だな」とまた笑った。

 それからまもなく、おれは新しいウエアとユニホームを揃えた。桜井と対照的な、HEADの黒だ。鏡に映った姿を見て小さくうなずいた。悪くない。車いすも桜井のように軽く動きやすいものに、ラケットもいずれはもっと吟味するつもりでいた。
 本格的に卓球をやってみようと思っていた。
 そして決心していた。いつか桜井を試合でぶちのめす。それも彼の身体が動かなくなる前に。今の桜井に勝ちたいと心底思っていた。
 マッチングアプリを見るのもやめた。桜井に勝たなければ、先に進めそうにない自分だけを、まっすぐに見つめることにした。
 ユニホーム姿のままラケットを取り出した。ラバーのクリーニング剤をふきつけ、スポンジでていねいに拭っていく。汚れたラバーがつやを取り戻していった。武器は常に手入れをしておかないと。
 今夜も練習だ。久しぶりに桜井も来ると聞いた。こないだのことを怒っているだろうか。でもとにかく謝らないといけない。その後は鈴木先生に新しいサーブを習うつもりだ。


                              了




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