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笑顔

 PCのデータ整理をしていたら、昔、某SNSにあげていた日記が見つかったので、少しの訂正を加えて再録します。
 もうすぐ春の盛りというこの季節になると、時々日記の彼女のことを思い出します。

 先週、先々週と、Y子という女の子が職場にきていた。高校2年の女の子で、市内にある養護学校から職場実習という名目でやってきたのだ。障害は知的ということだったが、そう重くはないということらしかった。

 私の所属するチームと、私のパートナー(同じ印刷会社で勤務しています)の所属するチームで面倒をみることになり、メインのサポートをパートナーが担当することになった。去年もパートナーは実習にきた生徒をみたことがあり、慣れている人が、ということで選ばれたのだろう。最初に先生とあいさつに来たときは、うつむくばかりで挨拶ができなかった。緊張しているのだろう、とその時は思っていた。

 初めて会ったその日、Y子とパートナーは製本から依頼された封筒の折りの作業をすることになった。一時間ほどしたころだろうか、突然作業をしていた部屋から、大きな声がした。驚いて部屋に行ってみると、Y子は机につっぷして顔をしかめていて、そのそばでパートナーが途方にくれた顔でたっていた。話を聞くと、Y子が作業に飽きてきて、「もういやだ。やりたくない」と言い出した。パートナーが「でもこれが仕事だから」とあくまで優しい口調でたしなめたという。その瞬間、Y子は突然豹変し、「うるさい!」と叫び、作業を放置してしまったという。

 その後、他の人が彼女の説得にあたったが、もう聞く耳を持たない。パートナーに対しては「そばに来るな!」とまで言ったという。これはただごとではない、ひとりでは無理だ、という判断から、職場から他にプラスして五人ほどの女性社員を彼女のサポートにあてることが決まり、一日目はあっという間に過ぎた。

 それが、はじまりだった。

 Y子は、ひたすらにわがままで傲慢だった。「うるせえ!」「いやだ!」などの暴言を吐き散らす。「ばかじゃないの」「そんなの知らねえ」会話中に人の話にそんな言葉でかえし、肩を本気で叩く。「今日何日だっけ」とふと誰かがたずねると「○日だよ、そんなのも知らねえの」と、無駄に憎らしくなるような応答をする。挨拶、敬語は当然できず、帰るときは「あばよ」「じゃあね」だ。そうやって人を不愉快にさせる割にはひとりではいられないらしく、ひとりになると途端に作業を投げ出し、机に伏せる。で、誰かがやってくるとまた起き出し、大声で会話をし、きゃっきゃと笑い、歌まで歌いだす。

 初日以来、パートナーはすっかりまいってしまった。あれから完全にY子の中でパートナーは忌むべき存在になったようだった。挨拶など当然せず、作業中にそばにいけば「出てって!」と言われ、帰りの見送りの中にパートナーがいると(最低三人はいつも見送ることになっていた)、「ストーカーだ」と言い捨てたという。

 そんな話をきいているうちに、私も彼女に対するいらだちがつのっていた。ある朝、私はY子と顔を合わせた。「ちゃんとみんなに挨拶してる?」ときくと、している、という。だがそのすぐあと、パートナーが挨拶したのにもかかわらず無視したことがわかった。私はY子をつかまえ「この人に挨拶してなかったよね」と大きな声で言った。「したもん」Y子はさらに言う。「ウソはだめ。ちゃんと挨拶して」私が声を荒げて言った。しかしY子はなおも「した!」とヒステリックに言うと、その場を走り去った。その背中を見ながら私はうなだれた。

 もう担当をおろしてもらえば。私はパートナーにそう言った。しかし「このままおわったんじゃ、くやしい」と、パートナーは首を振らなかった。もともと意固地なところはあるが、それを通していたのではもたないといっても、だめだった。とにかくやれるだけやってみる、とパートナーは続けてY子のサポートを続けた。大丈夫かな。私は不安な思いにかられた。

 そんな日々の続いた一週目の金曜日。朝、Y子と顔を合わすと「おはよう」と小さな声であいさつをしてきた。今日は機嫌でもいいのか、と思いつつ、私もあいさつを返した。

 しばらくすると、Y子とパートナーがパソコンの前で何やらもりあがっている。私が近づくと、メモ帳に何かY子が打ち込んでいるようだった。なぜかパートナーは彼女に背中を向けている。「書くまで見ちゃいけないって」パートナーが言うので、こっそり私がのぞきみた。そして驚いた。「○さん(パートナーの名前)はやさしいです」と打ち込んであったのだ。

 見ていることに気づいたY子は「だめ!」といって、その文字をデリートで消してしまった。「なんで、消さなくてもいいのに」と私がその文字を復帰させ、パートナーを振り返らせた。文字を見たパートナーははじめ驚き、続けてとても嬉しそうにY子に笑いかけた。Y子はひたすら照れてパートナーの肩を叩いていた。

「そういえば、今日はちゃんと挨拶できてたね」朝のことを思い出し、私が言うと、Y子は笑った。肩をすぼませ、恥ずかしそうに笑うその笑顔は、本当にかわいらしく、愛らしく、胸がほころんだ。はにかんだ笑顔、というのはこういうのを言うんだろうなと思った。

 彼女はパートナー以外にサポートをしてくれている人にも、「~さんはきれいです」「~さんはおもしろいです」「~さんはしっかり者です」と、彼女の印象を打ち込んでいった。プリントアウトして見せたいと思ったが、照れくさがるY子は打ち込むたびにデリートしていった。みんな喜ぶのに。パートナーはちょっと残念そうだった。

 それからも彼女は相変わらずだった。わがまま、傲慢、言葉使いはだめ。工場長がじきじきに見るようになったり、最後の二日は仕事が忙しいこともあり、サポートするチームが変わったりもした。私もやはり苛立ちをかきたてられることはあったが、その度にあのときの笑顔が頭に浮かび、その苛立ちはへなへなとしぼんでいった。正直、反則だよなあ、などと思いながら。

 先週の金曜日。彼女は去っていった。最後に挨拶をうながされても、うつむくばかりで結局できなかった。でもその顔には、やはりあの笑顔が浮かんでいた。

 ……この日記から、決して短くない時間がたちました。

 私はこの間、それなりに年齢を重ねました。
 腎臓も壊しました。入院も十本の指がそろそろ足りなくなるくらいにしました。
 貧血からか、いつも疲労感がつきまとい、職場を休む日も増えました。
 パートナーは元気ですが、最近腰や腕が痛い、とよく湿布を貼って寝ています。

 Y子ちゃん、今、どうしているでしょうか。
 挨拶や言葉使いはしっかりできるようになったでしょうか。いいひとが見つかったりしたかな。もしかしてもう結婚して、可愛いお子さんが生まれているかも。それともひとりでばりばり仕事に励んでいるでしょうか。
 いろいろ想像がふくらみますが、願うことはひとつです。
 どうか、元気でいてください。
 そして、いつの日か、どこかで、また会いましょう。

いただいたサポートは今後の創作、生活の糧として、大事に大切に使わせていただきます。よろしくお願いできれば、本当に幸いです。