見出し画像

小説「原罪」

※この記事は投げ銭制です。全文読めます。

 ああん、おっきい、おっきい。
 ネットに放られていた動画の行為をノートパソコンに映し出し、千夏は見つめていた。千夏とおなじ四十くらいの女の、わざとらしい嬌声が流れてくる。ソファの上で女は全裸になっていて、ズボンと下着だけを脱いだ若い男に跨られ、喘いでいる。
 おっきい、もっと。また女が喘いだ時、部屋のドアが開かれた。
「音、でかくないか」
 スライドドアの取っ手を握ったまま、直幸は音をよけるようにして顔を傾けていた。
「これぐらいしないと臨場感ないから。でもさすがにうるさいね。ごめん」
 ベッド上で千夏は謝り、動画を停止した。途端に部屋が静かになる。直幸が表情のないまま、身を乗せている車いすを部屋へこぎ入れてきた。
 千夏の部屋は八畳ほどの広さだ。真ん中に千夏が寝ている介護用ベッドがある。そのベッド上を病院にあるようなサイドテーブルがまたぎ、千夏愛用のノートパソコンや文庫本、メモ帳、ノート、ペン立て、ウェットティッシュなどが置かれている。千夏から見てベッドの左側には、やはり病室とおなじ床頭台や冷蔵庫。右側にはCD、本、雑誌がぎっしり詰め込まれた本棚がふたつ。千夏に必要なものすべてを、ベッドから手の届く範囲に配置している。それ以外のスペースにはたんすと、壁際にたたまれて置かれた車いすしかない。
 直幸がベッドに車いすを寄せながら、もっと見てていいんだぞ、とつぶやく。だが千夏は首を振り、パソコンの電源を落とす。彼にこういう動画をあまり見せたくない。
「もう、いいのか」
「私はいいけど、疲れてないの。ひと息ついてからでもいいよ」
「おれは大丈夫だ」
 直幸はウェットティッシュを抜き、手を拭いはじめた。千夏は彼を心配げに見やりつつ、起こしていたベッドをリモコンで倒して仰向けになった。直幸はサイドテーブルをずらすと、千夏の下半身にかけられていた毛布をめくった。そして千夏のスウェットのズボンをさげる。青白く、とうに筋肉の削げ落ちた、鶏がらのような細い両脚がむき出される。糸のほつれたショーツもおろされると、失禁防止用の紙おむつがあらわになった。続けて両脇のテープをそっとはがす。この間、千夏も直幸も無言だった。
 直幸が触れてきた。千夏は瞼を閉じ、下唇を噛みしめる。直幸の空いている手を握りしめる。かさついた感触がした。
 千夏は卑猥な動画は「臨場感」が出るほどの音量にするのに、自分の時は静寂に身を置く。息が漏れ、身じろぎするのもこらえる。どうしてもそうしてしまう自分がいる。もうそんな必要はないのに。
 それでもこらえきれず、喉の奥から吐息がわずかにこぼれた。直幸の手にすがりつく。握りしめるちからが年々弱くなっているのを、千夏は自覚している。
 やがて千夏のからだは一瞬だけ硬直し、直後に弛緩した。奥に沈みこまれていた指が静かに抜かれる。瞼を開けるとうつむき加減の直幸がいた。すべてが終わった時、彼はいつもそうしている。なにを見ているのだろう。なんとなく察しているがたずねたことはない。それはとても残酷なことだから。
「ありがとう」
 千夏が荒い息と共にささやいた。直幸はなにも答えずウェットティッシュを取り、彼女の清拭をはじめた。
 おむつ少し汚れてるから交換するか、と直幸が押し入れを開けた。荷物のなかに紙おむつのパッケージが混ざっていて、彼はそこから一枚抜き取った。いくぞ、の合図と同時に千夏は一瞬尻をあげる。そのすきに直幸から汚れた紙おむつを抜き取られる。また合図と共に尻をあげた千夏の尻の下に、新しい紙おむつが差し入れられる。テープが閉じられ、服も戻される。その後彼は清拭に使ったウェットティッシュと交換した紙おむつを床頭台にあったビニール袋に入れて口を結んだ。
「ベッドの下に置いといて。後で母に片づけてもらうから」
 千夏は再びベッドを起こし、体をひねって冷蔵庫を開けた。ペットボトルのほうじ茶を取り出すと、直幸がすぐキャップを開けてくれた。ありがとう、と受け取ったほうじ茶を両手で持ち、飲んだ。あなたも飲んだら。そう言うと彼はおなじほうじ茶を出した。
「元気だったの」
 お茶を飲みつつ千夏はたずねた。まだ少し呼吸が荒い。行為の後、直幸の近況を訊くのが彼女の常だ。
「まあまあ、かな」
「こないだ通院日だったよね。どうだったの」
「それもまあまあ、だ」
「まあまあ、って」
 千夏は右手を差し出した。直幸が面倒げにバッグから血液や尿の検査結果用紙を出すと、さっと取りあげる。
「尿蛋白、肝機能は異常なしか。あ、尿素窒素二四・九、クレアチニン一・一五って、こないだより悪いじゃない。貧血も進んでるし」
「だから点滴受けてきた」
「また。ちゃんと食べてるの」
「そりゃ食ってはいるよ」
「なに食べたの、昨夜」
「なんだっけ、豚の生姜焼きか」
「野菜は」
「食った。ブロッコリーのサラダみたいな」
「ちゃんと葉子さんが考えて作ってくれてるの食べてるのにこの数値なんだ……」
「心配するな。先生も変動の範囲内だって言ってたから」
 直幸は千夏の手から用紙を取り戻し、バッグに突っ込んだ。言葉とは裏腹に疲労感が隠せていない。最近の彼はいつもこんな感じだ。だからひと息ついてからでいいと言ったのに。でも結局は求めてしまうのだからおなじことだ。自己矛盾。そんな言葉を千夏は茶と共に飲みくだした。
 彼が腎臓を患い、十年がたつ。
 結石によって右腎がつぶれ、左腎も血管狭窄を起こしていた。ステントを挿入して血管を広げる処置を至急受け、人工透析になる事態は免れた。だがそれ以来、高血圧や倦怠感、胃痛、動悸、吐き気などさまざまな不調に日々見舞われるようになった。十年のうちに薬量も回数も増え、一日七回の服薬を課せられている。服薬以外にも血圧測定、脱水や貧血対策のための、経口補水液を含む一日二リットルの水分補給も欠かせない。常に胃に水分がある状態なので空腹感はないらしい。だから食事を腹に入れると嘔吐する時もあると以前聞いたことがある。
 ねえ。ほうじ茶を置き、千夏がつぶやいた。
「もし、もう無理だったら言って」
 直幸が彼女に向き直る。
「辛いでしょ。私に会うのも、触れるのも」
 月に二、三度、彼は千夏の元へ必ずやってくる。持病や不調を抱えたからだなのに。自分に会い、あんな行為をするのも苦痛なはずなのに。しかし直幸は小さく首を振った。
「おれはなんにも辛くなんかない。でも」
 彼の瞳が、千夏の視線に重なる。
「千夏の方こそ辛くなったらいつでも言ってくれ。その時はもう、二度と来ないから」
 今度は千夏が首を振った。直幸よりも強く。
 直幸がベッドのリモコンを手に取った。再び千夏はからだを仰向けにされた。毛布がはがされ、スウェットに手がかけられる。紙おむつのなかに、彼の手が静かに入ってくる。
「ごめんなさい」
「謝ることなんてない」
 瞼を閉じる直前、彼を見つめた。あの時から変わらない、からっぽの瞳がそこにあった。

 後部座席に積み込んでいた車いすをおろして乗り移り、反転させた。高層の駅ビルを仰ぐ。最寄駅西口に建つ地上二十四階のビル。ホームページには「県都○○市のランドマーク」と書かれてある。
 仕事場からアパートに帰ると、こうして駅ビルを見あげるのが直幸の習慣だ。てっぺんの赤い光がゆっくりと点滅している。
 あの光、好きなの。
 千夏がそう言ったのはいつだったか。夜、カーテンを開けてあの光を眺めるの。そうすると、なぜかわかんないけど今日も生きることができたって思えるから、とも。
 おなじ光を、見ている。
 二十年ほど前から急ピッチで整備が進められ、県民会館や多目的ホール、マンション、ビジネスホテル、そして駅ビルなどが建ち並んだ最寄駅西口から伸びる一本の細い路地を入ると、せわしない時間の進みから取り残されたような、古い住宅街が肩を寄せ合っている。顔をおろし、住まいであるアパートに視線を移す。そんな住宅街のなかにこのアパートもある。築四十年以上の二階建て。それぞれの階に四部屋ずつ。トタン屋根や鉄階段は濃い赤茶色に錆び、土壁にはひびも目立つ。屋根から伸びている雨どいは途中で割れ、雨が降ると滝のように漏れ出す。駅から近いことだけが取り柄のアパートだ。
 一階一番奥、四号室のドアを開ける。きぃ、という音と共に灯りがこぼれてきた。
「おかえりなさい」
 正面奥、台所のコンロそばにいた葉子が振り返った。ただいま。直幸は狭い三和土で車いすにブレーキをかけた。上半身を折り曲げて床に手をつき、それを支えにして少しずつ尻をシートからずらし、車いすから床におりる。そばに置いてある室内用車いすのフレームや肘掛けをつかみ、よじ登るようにして乗り移るとそのまま葉子のそばまで進め、錆の目立つステンレスの流しで手を洗う。古いアパートなので洗面所はない。流し右手にあるドアは風呂場だが、そこにも脱衣所はない。
「もうすぐできますから」
 葉子がコンロの火を止めた。彼より二歳年上。ゴムで荒く結った髪にはだいぶ白いものが増えた。ありがとうございますと応じながら、流しから見て玄関左手にある六畳間に入る。部屋の隅で車いすから再びおり、動かない下半身をひきずるようにして這い、小さなテーブルにつく。すでにサラダやかぼちゃの煮つけといった小鉢が並んでいた。
 家財道具はテーブル、テレビ、茶棚、カラーボックス、本棚くらい。寝間にしている隣の四畳半にも、たんすと鏡台しかない。
 元々直幸ひとりで住んでいたこの部屋には、彼にとって必要最低限の物しか置いていなかった。それを見た葉子は「これ以上ちらかしたくない」と、実家からわずか衣類や雑貨、鏡台くらいしか持ち込まなかった。それから三年。増えたのは多少の食器と衣類、冬場に風呂場前で使うハロゲンヒーターくらいだ。
 葉子とは直幸の仕事場である小さな印刷会社で知り合った。前夫と離婚してしばらく後、四年前にパートで入社してきた。ひとり娘の親権は取らなかったらしい。
 結婚を前提にお付き合いしてみないか。専務にそんな話を持ちかけられた。聞くと葉子は専務の遠縁にあたるのだという。直幸は職場で唯一の独身男性だった。君のようなひとだって家庭を持つべきだと思うよ。重役の頼みは断り切れず、曖昧にうなずいた。君のようなひと。胸の内でその言葉を反芻した。
 ほどなく葉子と何度か食事や飲みに出かけた。伏し目がちで低いトーンの声。自分から話題を振ることはほとんどなかった。彼もそうなのでお互いひたすら飲み食いするばかり。それでも時々、このお刺身おいしいですね、とぎこちなくも微笑む葉子に、直幸もそうですね、と笑みをいざなわれた。
 彼女の方から結婚を申し込まれた。直幸にそのつもりはなく、それを千夏に話すと「よかったじゃない。絶対一緒になるべきよ」と思いがけず強くすすめられた。「幸せになってね」しばらく悩んだ末、直幸は小さくうなずいた。「わかった。でもここには来るから」
 ほどなく葉子と共に暮らしはじめた。葉子は直幸のからだを心配し、私が働くから仕事はやめていいと申し出てきたが、彼はそれを拒んだ。むしろ逆に葉子に仕事をやめ、家にいてもらうことを望んだ。「からだにいい飯を作ってもらいたいんです」
 いただきます。テーブルに並んだ煮魚やかぼちゃを、お互い無言で食べる。テレビからは地域ニュースが流れていた。ある町で作業小屋のぼやがあった、というニュースだ。怖いですね。そうですね。ぼやのおかげで、ようやく会話らしきものがこぼれた。付き合っていた頃と変わらない。結婚してからもなぜかふたりからは敬語が抜けない。
 その町は千夏の故郷だった。もっとも三歳の頃から隣市にある療養センターに入所し、隣接する身障者養護学校保育部に通い出した千夏には、その町での記憶はほぼないという。確かに両親が迎えに来て週末を自宅で過ごす入所者がほとんどだったなか、千夏だけは誰も迎えに来ず、帰っていく友人たちをひとり見送っていた。直幸も彼女から週末ごとに、また月曜ね、と手を振られた。母親の運転する車中から手を振り返しながら、なぜ千夏には誰も来ないのだろうといつも不思議に思っていた。あの頃はまだ、千夏も自力で車いすをこいでいた。
 千夏の両親は彼女が高等部卒業後入った作業所をやめた後、市北部に家を構え、移り住んだ。だがその家に千夏はいない。わざわざ、と言いたくなるくらい近所の借家にひとりいる。食事や排泄、着替え、入浴などの世話は母親が決められた時間に来ておこなっている。直幸が両親と会うことはほぼない。たまに母親が茶を運びに来ても、千夏が目も合わせず追い返してしまう。そのたびセンターでの週末、ひとり友達を見送り続けた千夏の姿が思い出された。
 夕食と片づけが済むと、葉子はそれぞれの寝巻や下着、直幸が使う新しい紙おむつを用意する。流し前で互いに服を脱ぎ、共に風呂場に入る。狭い洗い場で縮みながら直幸が身を洗うと、葉子が彼を抱きあげ、湯船に入れる。ひとりの頃、彼はシャワーしか浴びていなかったので湯船を使い出したのは結婚後だ。直幸が湯に浸かる間、葉子は身や髪を洗う。湯気にあたりながら妻を見る。垂れた乳房、二重になった腹、まるまった背中。湯のなかを見る。筋肉の落ちはじめた両腕、老人のようなしみや黒ずみの目立つ胸、うすく脂肪のつきはじめた脇腹。互いに年相応であることが、尊いとも醜いとも感じる。
 自分はできないからだです。
 結婚の申し出の返事をする時、直幸は葉子に告げた。やや間があって彼女はわかりましたとうなずき、私ももうそういうことは求めてないので、と続けた。実際暮らしはじめてから肌をあわせたことはない。あるのは。思い出しかけ、彼は軽く首を振った。
 時々触れる千夏の胸を思い出す。葉子とおなじく垂れはじめてきたと気にしているが、直幸はなにも気にしていない。自分はただ、千夏の望むままにするだけだから。
 葉子の洗髪が済んだ。直幸は湯船から再び抱きあげられ、洗い場におろされる。今度は葉子が湯に浸かり、直幸が髪を洗う。葉子のものらしい陰毛がタイルにへばりついていた。
 三十分ほどで入浴は終わった。風呂場から出てバスタオルで水気を拭う。葉子が使い込んだ下着を身につける間、彼は千夏とおなじ紙おむつを、鶏がらのような両脚を広げてつける。五歳で脊髄にできた腫瘍除去の手術を受けて以来、下半身からは歩行、排泄をはじめとしたすべての動作や感覚が失われた。そのため失禁防止用の紙おむつは欠かせない。六畳間に戻り、葉子が髪をかわかしている間、彼はトイレに這っていき便器によじのぼった。腹をさぐって膀胱を押す。力なく垂れ下がった性器から尿が排泄された。
 それからテレビを眺めてひと息つき、直幸が就寝前の服薬を済ませると、寝る準備はすべてととのう。ふたりは寝間の布団に入り、灯りを落とした。葉子はほどなく寝息を立てはじめた。直幸はそれを確かめた後、身を起こし、カーテンにすきまを開けた。
 駅ビルの赤い光が、ひそやかに点滅していた。

 自分の叫び声で千夏は眠りを断ち切られた。
 全身にいやな汗が滲んでいる。ベッドを起こし、ウェットティッシュで顔と腕を拭き、パーカーもめくって胸元を拭った。ウェットティッシュを捨ててから腕のにおいをかいだ。歯糞も粘っこい涎もついていない。酒臭さも、煙草のやに臭さもない。顔に触れる。ただれた体液もついていない。大丈夫。
 サイドテーブルにあったペットボトルのぬるい水を飲み、身をねじってカーテンを少し開ける。田畑や雑木林、ぽつぽつと建つ家々の向こうに、駅ビルの赤い光が見える。そのすぐそばに直幸がいる。乱れていた呼吸が静まってきた。
 今だに、あの時の夢を見る。
 深夜の宿直室。かび臭い布団。毛羽立った畳。ちゃぶ台に置かれた一升瓶。
 そして、自分の上にのしかかる老いた男。

 養護学校高等部二年の頃ぐらいから、男子生徒の間であるものが出回っていた。卑猥な雑誌、漫画、ビデオといった類だ。向こうは隠しているつもりだったが女子生徒は皆知っていた。友人たちが気持ち悪いと見下すなか、千夏は彼らが声をひそめてその話をするのを聞いたり、体育館や廊下の隅でものを貸し借りするのを見かけるたび、なぜか動悸がはやまり、からだも熱をおびるのだった。
 ある日の放課後、忘れたノートを取りに、当時はまだ自走できた車いすをこぎ教室に入った。机からノートを取った後、木造りのロッカーが目に入った。男子たちがロッカーを通してそういったものを貸し借りすることがあるのも、彼女は知っていた。
 今、誰かのロッカーにあるんだろうか。
 千夏はまわりに人気のないことを確かめてから、そっとロッカーのひとつを開けてみた。扉には「佐山直幸」と名札が貼られていた。小学部からずっとクラスメイトだった男子だ。
 男子のロッカーなんて散らかっているもの。そんな予想と異なり、彼のロッカーには多少の参考書や予備のノートといったものくらいしか入っていなかった。ここにはなさそうだな。扉を閉めようとした時、一冊の参考書が不自然にふくらんでいるのに気づいた。
 それを抜き取り、開いた。あった。
 ページの間に、雑誌がはさまれていた。
 もう一度あたりを見まわしてから、車いすの膝の上で中身を開いた。想像もできなかった姿や恰好をした女と男が絡まり合っていた。いいおっぱいだねえ、もっといれて、などという言葉も写真にこびりついていた。動悸がはやまり、からだが熱くなるのを感じつつ、千夏は夢中でページをめくり続けた。
 雑誌の真ん中あたりを開いた時、教室のスライドドアが開く音がした。はっと顔をあげて振り返った。直幸だった。
 千夏は、あ、と口を開けると、そのまま動けなくなってしまった。もしかしたらこの雑誌を取りに来たのかもしれない。直幸は千夏を見つめていた。だがなんの言葉もなく、感情らしきものも顔には浮かんでいなかった。
 ごめんなさい。ようやくひと言が出て雑誌をロッカーに戻しかけた時だった。
 それ、見たいか。彼を振り返った。一瞬息が詰まった。瞳が、からっぽだった。それを見た時、彼はこういう行為ができないからだなんだ、と理由もわからないまま悟った。
 気づくと頬を冷たいものが流れ落ちていた。いくら拭っても止まらなかった。なぜ。どうして。動揺していると彼のからっぽの瞳が、千夏の瞳と涙に重なった。
 やるよ。直幸はそれだけ言い残し、教室を出て行った。しばらく呆然としてから千夏は頬を袖で拭い、ノートの間に雑誌を挟むと車いすの背もたれと背中の間に差し入れ、教室を去った。彼のからっぽの瞳が、胸の痛みを伴うところに強い残像となって残っていた。

 千夏は養護学校高等部を卒業した後、小規模作業所に入所した。そこでの仕事は、どこかの工場から下請けされた機械部品の簡単な製作や検品を行うことだった。
 夕方作業が終了し、隣接する寮で夕食と入浴を済ませると、後は十時の消灯までは自由時間だった。他の入所者が食堂でテレビを観たり、部屋に集まってゲームやおしゃべりに興じるなか、千夏はひとり部屋にこもった。そこで本を読んだりテレビを眺めたりして、寝るまでの時間を過ごすのが日課だった。
 灯りの落ちた夜、千夏は机の引き出し奥からあるものを取り出す時があった。
 それは古い猥褻な雑誌だった。色も煤け、ページもあちこち破れかけたりしていた。
 あの日、直幸から譲り受けたものだ。
 端から端まで覚えるほどに見た。それでもはじめて見た時の熱に変わらず包まれた。私は変なのだろうか。ページをめくるたび思う。直幸の瞳も思い出す。色も光もなかった、あのからっぽの瞳を。
 あの夏の夜もそうだった。眠れないままに枕元の小さなライトだけを点け、雑誌をベッドで見ていた。すると突然ドアに隙間があき、懐中電灯の光に顔を照らされた。しまった、と彼女は自分の迂闊を悔やんだ。十二時。この時間は宿直が見回りに来る時間だったのだ。慌てて雑誌を布団に隠し、瞼を閉じた。だが不審に思ったらしい宿直はなかに入ってきた。その日の宿直は腹の出た六十過ぎの男で、なにかと小うるさく皆から嫌われていた。
 なにしてたんだ。男は近づいてきた。遠慮もなく布団を剥がし、千夏が両腕に抱えていた雑誌を照らした。
 おまえ、こんなの好きなのか。
 男は粘っこくつぶやいた。寝たふりをしていた千夏は強引に抱えあげられ、車いすにどさりと落とされると部屋から出された。
 連れ込まれたのは宿直室だった。ちゃぶ台に置かれた一升瓶と湯呑みがまず目に入った。宿直中は禁酒のはずなのに。やたら毛羽立った畳、敷かれた布団からは入口からでもわかるほどかび臭さがただよっていた。
 千夏は男に再び抱えられ、畳の上に転がされた。声、出すなよ。男に命じられ、千夏は下唇をきつく噛みしめた。
 そこからの記憶は少し途切れている。次に気がつくと、自分の顔の横にブラジャーとショーツと紙おむつが転がっていた。両生類のように粘ったものが皮膚のすみずみをのたうちまわっていた。顔をひねると一升瓶と湯呑みがまた視界に入った。のしかかる男の頭上で、安普請の天井が揺れていた。うねる木目が流血に見えた。
 膨満した腹と腰を重く押しつけられているのに、自分の生霊が少しずつ、からだから浮遊していくのを感じた。血のうねる天井近くに浮かんでいると、そばに誰かがいた。
 直幸だった。車いすには乗らず、千夏とおなじ生霊となって浮かんでいた。あのからっぽの瞳が、かすかに潤んでこちらを見ていた。
 気持ちよかったろ。男は黄色い沁みのついたブリーフを履きながらにやついた。千夏は毛羽立った畳に裸で転がったまま腕をあげた。歯糞と涎がこびりついていた。酒と煙草のやにと唾液の臭いに鼻がつぶれた。顔にもなにかがついていた。白っぽくただれたどろどろだった。ああこれが雑誌で見たあれか、と妙に納得している自分がいた。
 直幸の姿は、もうどこにもなかった。

 その後も、男からはしばしば部屋に連れ込まれた。男は一年後宿直を辞めた。だが置き土産とばかりに話を広めたのか、後任の宿直や作業所の同僚、果ては指導員からも蝕まれ続けた。千夏は拒めなかった。拒むちからがもうこの時期、その身からは失われていた。
 おまえ、こんなの好きなのか。
 最初の男に言われた言葉が、呪詛のごとく千夏を磔にしていた。
 食い荒らされるのと比例して、からだと、こころも動かなくなっていった。仕事ができなくなり、作業所を退所した。それからは借家に移り、総合病院の神経内科や心療内科への通院を繰り返すだけの日々となった。

 直幸と思いがけず再会したのは、その病院でだった。心療内科の隣にある泌尿器科の待合室に、診察待ちをしている横顔がかすかに見えた瞬間、彼だと直感した。ほとんど無意識に彼の名を呼んだ。まわりの患者の目が一斉に集まったが気にならなかった。振り向いた彼も千夏だとすぐ気づいたようだ。車いすをゆっくりこぎ、そばに来た。訊くと二年前に腎臓を壊し、それ以来通院を続けているという。淡々と話す彼を見つめた。白髪が増えていた。頬が青白く、なにより瞳がからっぽだった。あの時から変わっていなかった。
 直幸の診察の番が来た。それじゃ、と彼が去りかけた時、待って、と千夏は呼び止めた。手帳のページを破って携帯番号とメールアドレスを書いて渡した。よかったら連絡して。直幸は手帳の切れ端を一瞬見つめてから胸ポケットにしまい、診察室に入っていった。
 彼から連絡が来たのは、それから半月後の週末だった。家に来ない、と迷いもなく誘っていた。あの時から変わらないからっぽの瞳が、どうしても胸底から離れてくれなかった。

 仕事場のスピーカーから「黙祷」と聞こえた瞬間、絶え間なく響いていたキーボードやマウスの音が一斉に途絶えた。直幸も作業の手を止めた。目を閉じ、軽く頭を垂れる。二千十一年三月十一日十四時四十六分。この翌年以来、この日この時間になると黙祷をするのが職場での恒例となった。
 黙祷中なのに、直幸の脳裏にはあの日の光景が浮かんできていた。
 その瞬間、直幸は千夏の部屋にいた。再会以来、通院帰りや週末などに彼女と会うようになっていた。その日も通院の帰りだった。
 世界が壊れる揺れが起きた。直幸はとっさに千夏のベッドに這いずりあがり、彼女に覆いかぶさった。サイドテーブルのマウスやコップが直幸の背中や腰に当たった。千夏は呼吸も忘れ、直幸の胸にしがみついていた。
 永遠とも思える最初の揺れがおさまった。大丈夫か。うん、直幸は。おれも大丈夫。声をかけ合いつつ車いすに乗り移っていると、千夏の両親が駆けつけてきた。血相を変えて案じる両親を、彼女は大丈夫だから行って、と追い返してしまった。
 ヒーターや冷蔵庫が止まっていた。停電のようだ。ただ部屋は本やサイドテーブルの物が崩れた程度で、特に大きな被害はなかった。
 直幸がその飛び出した本類を拾って戻していると、ある一冊の雑誌に身が凍りついた。
 はるか昔、直幸が譲ったあの雑誌だった。
 とうに色褪せ、折れ曲がり、破け、ごみ同然だった。ほとんどのページがテープで荒く貼り合わせてあった。自然と破れたのを補強したのではない。自分で一度破ったものを直したのだ、と彼は感づいた。
 捨てたかった。千夏がうつむきつつささやいた。何度も捨てようとしたの。でも、どうしてもできなくて。自分でも、わからないの。
 彼は千夏が長年、心療内科に通い続けていることを思い出した。なにが、あった。再会後、ずっと訊けずにいた問いがこぼれかけた。だが凍った喉と直後の余震に阻まれた。
 その夜、直幸は千夏のそばから離れなかった。彼女の両親が反射板ストーブを持ってきてくれたので寒くはないのに、千夏の手は震え続けていた。直幸はその手を握り返した。
 ろうそくだけが灯る深夜。千夏が顔をあげ、彼を見つめた。その後、視線が本棚の雑誌の方に向いた。そこだけ他の場所より暗がりが濃く重くただよっていた。
 ねえ。もう何度目かわからない余震が静まった後、千夏がささやいた。
 お願いが、あるの。
 直幸の右手が引かれ、彼女のスウェットのズボンのなかに差し込まれた。左手は薄い胸に当てられた。突然のことに彼は手を引きかけた。だが思いがけず強いちからで拒まれた。
 お願い。再び千夏のささやきが重なった。
 それから余震のなか、彼は望まれるままにした。わずかに千夏のからだが跳ねた時、その頬から涙が伝い流れた。雑誌を渡した時とおなじ、この世界でいちばん美しい涙だった。

 鎮魂の日から数日後。仕事場から帰ると葉子は玄関先にいた。薄手のコートを羽織っている。香水の臭いが濃くただよってきた。
「すみません。またちょっと友達に誘われたので出かけてきます。ご飯は用意したのであっためて食べてください。遅くなるから、先に寝てくださいね」
 葉子は車いすの脇を通り抜け、せわしなく部屋を出て行った。
 ここ半年ほど、葉子は友達に会うと言ってふらりと出かけるようになった。言葉通り帰宅は大抵深夜だ。帰ってくるとシャワーを浴び、鏡台についてドライヤーで髪を乾かし、化粧水を顔につけた後、布団に入る。その間、当然結構な物音がするが直幸は寝たふりを続ける。葉子にも夫を起こさないようにという配慮はない。彼が一度寝ると目が覚めないたちと思っているのか、それとも気づかぬふりをしているとわかった上でのことか。
 葉子が出かけた後、直幸はバッグを開け、小さな箱を取り出した。葉子の好きなマカロン。新聞紙に包んでごみ箱に捨てた。夕飯がラップがけされていたが手はつけなかった。
 窓を開け、駅ビルの赤い光を見る。そうしているとスマートフォンが鳴った。
 結婚記念日、おめでとう。
 千夏からのメールは、それだけだった。
 しばらく後、彼は今から行くと返信して部屋を飛び出し、車に乗り込んでいた。
「なにか、あったの」
 ベッドを起こし、心配そうな表情で待っていた千夏に直幸はなにも答えず、パソコンを勝手に起動し、先日の動画を再生した。ああん、おっきい。画面のなかで喘ぐ女を眺めた。臨場感あるな。笑いもせずつぶやいた。千夏の視線を頬に感じた。
「一度だけ、葉子を犯しかけた」
 画面から目を離さず、直幸は言った。
「職場の連中と飲んで遅くに帰ってきた。彼女はタオルケットもかけず寝てた。Tシャツ一枚でそれもはだけて、下着が丸見えになってた。真夏の蒸し暑い夜だったから」
 自分たちとおなじ年頃の女が若い男に馬乗りにされている。もっともっと。粘っこい喘ぎが切れない。千夏の視線が強くなる。
「シャツをめくってなにもつけてない胸を出してショーツもずらした。すぐ彼女は目を覚ました。やめてくださいと言われた。うんこでも見るみたいな目だった。当たり前だよな。こんなの犯罪だ。ごめん。おれが言うと、彼女は服を戻して、タオルケットをかぶってまた眠った。それでもおれは彼女の寝息を確かめてからタオルケットをめくった。尻を見ながら、紙おむつのなかに手を突っ込んだ。漏れたのは小便だった」
 書類を読むような自分の声を、直幸は遠くで聞いた。
 千夏がパソコンのコンセントを強引に引き抜き、動画を消した。マウスにあった直幸の手に自分のそれを重ねる。青白く透き通る彼女の手を見つめていたら、胸が押しつぶされそうな感覚にとらわれた。
 直幸はベッドから離れ、本棚に車いすを寄せた。あの雑誌を抜き取り、強く握りしめた。がさ、と音がした。火葬後の骨のかけらを砕くとこんな音がするのだろうか。
 振り返ると、千夏の瞳から涙がひと粒流れていた。岩の奥で眠っていた水晶のような、真冬の凍りついた海のような、涙と瞳。
「あの時、こいつを見ていた時、千夏、泣いてたよな。あの時の涙も瞳も本当にきれいだった。今だってそうだ。ずっと変わらない」
 千夏に腕を取られ、車いすごと引き寄せられた。雑誌が床にこぼれ落ちる。こんなちから、まだあったのか。千夏はリモコンで部屋の灯りを落とし、ベッドを倒した。
 きて。
 直幸はわずかなためらいの後、車いすからベッドに移った。千夏にさらに引き寄せられる。ベッドにあがるのはあの震災の日以来だ。シーツからほんのわずか排泄物のにおいを感じた。直幸はそれを胸のなかへ深く入れた。
 千夏が涙を滲ませ、直幸を見つめている。
「この瞳も、あの時からずっとおんなじ」
 頬が手の平に包まれる。
「あの時も、こんなからっぽの瞳だった。それからずっと変わらない。からっぽのまま。真っ暗なまま」
 千夏にゆっくりと頬を撫ぜられた。彼は瞼を閉じた。その瞼に彼女の唇が触れた。
「そのからっぽ、満たしてあげる」
 暗がりのなか、千夏のささやきを聞く。
「直幸も私を満たして。なんでもいいの。あなたの涙でも汗でもおしっこでもうんちでも。血でもいい。ずっと磔なら、あなたと……」
 磔。その言葉に彼の芯が揺さぶられた。右手が千夏の奥に導かれる。千夏の手もまた、彼の紙おむつのなかへ入っていく気配がした。瞼を開く。あの涙が千夏の瞳から溢れていた。
 直幸はそっと指を動かした。すぐに熱が伝わる。唇を重ねられながら、下半身に意識を集めた。なにをされているのか、今はわからない。でも千夏の手は動いてくれている。自分を満たそうと必死になってくれている。だから直幸も千夏に触れた。いつもより強く。
 磔、と千夏は言った。互いの血で満たし合えたら、おれもおなじ大木に磔になろう。磔のまま共に喘ぎ続け、いつか共に朽ち果てよう。
 絡まり合いながら、直幸はわずかに顔をあげた。千夏も呼吸を荒くしながら、彼の視線を追う。カーテンのすきまには、いつもふたりで見ているあの赤い光があった。
 千夏の頬に触れる。あの時と変わらない、この世でもっとも美しい涙が指先に滲んだ。
 直幸と千夏は瞼を閉じた。深い夜の暗闇が、この世界からふたりを消し去るかのように覆いかぶさっていた。

   了

ここから先は

0字

¥ 150

いただいたサポートは今後の創作、生活の糧として、大事に大切に使わせていただきます。よろしくお願いできれば、本当に幸いです。