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煙のむこうがわ

 その夜は妻が友人と会うため出かけ、留守だった。さて夕飯はどうしようか。考えていると、以前から気になっていた焼き鳥屋が思い浮かんだ。ちょうどコンビニで買った飲兵衛を主人公にしたマンガ「酒のほそ道」を読んでいたせいか、ふらりと一杯、といった感じで酒を飲みたくなった。

 その店は木造平屋建てで、古い赤ちょうちんがぶら下がっていた。玄関をよく見ると引き戸が少し開いていた。なんか不用心だな、と思いつつ、藍色がだいぶ色褪せた暖簾をくぐった。

 店内は調理場と焼き台を取り囲むようなカウンターと、その脇に小さな座敷がひとつのこじんまりした店だった。壁を見るとジョッキを持った水着のお姉ちゃんのポスターと、ラップの煤けた誰だかわからない芸能人のサイン色紙。レジの真下には古新聞と古雑誌がごっそり積み重ねられ、座敷の隅にはなぜか炊飯器がおかれていた。

 客はなく、カウンターのはじっこに白髪のばあちゃんがちょこんとたたずんでいた。私の姿を見ると「ああ、わりっけな。いらっしゃいいらっしゃい」と言いつつ、ほらよっこいしょ、と感じで立ち上がった。どうもうたた寝をしていたようだ。

 カウンターに着き、黒っぽくいぶされた短冊の品書きを見る。ひと通りの焼き鳥ともつ煮、ポテトサラダ、モロキュー、焼きおにぎり、ビール、日本酒、サワーといったところ。ビールとねぎま、サガリ、箸休めとしてモロキューを頼む。ばあちゃんは「はいよお」と答えてから、ビール中瓶とグラス、それにお通しの小鉢をこん、と出した。厚揚げと糸こんの煮物。ビールを飲み、厚揚げをつまむ。やや濃い目の味にビールがすすんだ。

 ばあちゃんは寡黙な人で、全然口をきかなかった。皺だらけの額をしかめてさらに皺を深くしながら焼き鳥を焼いている。煙のむこうにかすむその顔になんとなく目がいく。天井近くの棚に置かれたテレビからプロ野球中継の歓声が流れている。

 ほどなく出された焼き鳥は少し炭の焦げがついていたが、タレが甘すぎず辛すぎずいい塩梅だった。その後すぐモロキューも出てきた。焼き鳥と、味噌をつけたキュウリをかじりながらビールを飲む。ひさしぶりに飲むキリンラガーが、じんわりとからだにしみわたる。

 いい気分で飲んでいるとビールがなくなった。さて次はなに頼もうかと思った時、調理場から音がしはじめた。見るとばあちゃんがフライパンで飯を炒めている。チャーハンなんて頼んでないけどな、と首をひねっていると、ばあちゃんはフライパンを持ったまま調理場から出てきた。おむむろに座敷においてあった炊飯器を開け、その中にできたてのチャーハンを放り込んでしまった。そしてそこにしゃもじを突っ込み、タッパへチャーハンを山盛りに詰め込んだ。

 固まってしまった。あんなことして炊飯器こわれないのか。というかあのチャーハン、どうするんだ。明日のばあちゃんの飯なのか。それにしてはかなり大量だ。いろんな疑問が頭をもたげた。でもばあちゃんはなにごともなかったように調理場へ戻り、洗い物をしはじめる。まあ、大丈夫なんだろう。それにしてもあのチャーハンうまそうだ。頼んだら食わせてくれるのだろうか。

 レバーを頼み、いい気分で追加のビールをぼうっと飲んでいると、突然ジリジリ音がした。レジ横の電話が鳴ったのだ。まだ現役なのが驚くダイヤル式の黒電話。
 あれ。そこで今さらながら気づく。
 ばあちゃんの姿がない。
 え? 店の中を見回した。よく見ると調理場奥のドアが開いている。いつの間にやら、そこからどこかへ行ってしまったようだ。客ひとり残してどこに行ったのか。というより不用心すぎないか。途方にくれた。電話はじゃんじゃん鳴っている。

 そこへふらりと、おじさんがひとり、店に入ってきた。おじさんはぐるりと店を見渡した。主のいないカウンター、鳴り続ける電話、ビールと焼き鳥を前におろおろしているジャージ姿の私。おじさんと目が合った。なぜかぶんぶん首と手を振った。「さっきからおばちゃんいないんですよ」「あ、ほうが。んだら、まだあどで来るは。われげどあんちゃん、いででけっか?」そう言い置き、おじさんは店を出ていった。

 ようやく電話が鳴りやんだ。しかし本当にどこに行ったのか。このままおれに帰られたら困るだろうに。さっきのおじさん、ここにいててくれって言ってたな。どういうことだ。というかおれ、どうしたらいいんだ……。
 警察に電話しようか。本気で思いかけた時、ばあちゃんはふらりと戻ってきた。「ビールなぐなたな、もう一本飲むが?」けろりとばあちゃんは言った。

 ビールともつ煮を平らげたところで、勘定にしてもらう。もう少し飲めるけど、またいなくなったら気が気じゃない。千六百円。千円札を二枚わたして返ってきたおつりの百円玉は、まるで十円かと思うくらいに汚れがすごかった。

 店を出るとさきほどのおじさんと出会った。「ああ、ばさま戻ってきたが?」どうもいつものことらしい。「どこに行ってたんですか」「ああ、孫のどごさ行ったんだべ。娘さん、夜カラオケ屋でバイトしったがら家さいねのよ。ながなが大変みだいでな」さっきタッパに詰められたチャーハンが思い出された。おじさんが店に消えていった。おお、とばあちゃんの声がした。

 ラガーの酔いを少し重く感じながら、月の光る夜道を帰った。



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