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へたくそ同士

※この記事は投げ銭制です。全文読めます。

固定記事にしている小説「川べりからふたりは」の第一話は、主人公の同級生である野口君の葬儀の場面からはじまっている。

この作品はもちろんフィクションだが、野口君には実際のモデルがいる。いや、いた、というべきか。野口君のモデルは、作品通りすでに亡くなっているのだから。

彼は、養護学校小学部からの同級生だった。ぽっちゃりとしたからだをやけに重そうな車いすに乗せ、ゆるゆるとタイヤをまわしていた。四角い眼鏡の奥の目をいつも細め、おっとりと笑っていた顔を今でも覚えている。その笑顔同様、性格もおっとりそのもの。まわりの話に「んだずねえ」と、相槌を打つのが常だった。

私が中学部を卒業し、普通高校に進学すると彼と連絡を取ることはなくなり、年賀状をかわすくらいになった。漢字は角ばっているのに、ひらがなはまるっこいのは、昔からずっと変わらなかった。

そんな彼から突然実家に連絡がきたのは、七、八年ほど前のことだった。私の小説が地元新聞で毎月開催している短編小説賞に佳作に選ばれ、掲載されたのを読んだらしい。「すごくよかったよ。感動したよ」と賛辞を送ってくれた。私もひさしぶりに聞いた彼のおっとり声に懐かしさを覚え「ありがとう」と礼を言った。そしてこの機会にと携帯番号とメールアドレスを交換し、後日会う約束を交わした。

当日、待ち合わせ場所である駅の改札に向かった。少し遅れてしまったので、もう来てるかもしれない。慌てて改札のあたりを見渡すと、車いすの後ろ姿があった。彼だ。そう思ったが、ちょっと首をひねった。その後ろ姿はまるまると太っていた。茶色のマフラーはお年寄りがするような柄だった。それになにより髪の毛がやたらうすかった。毛の生えそろっていない生まれたばかりの鳥みたいに。

本当に彼なのか。おそるおそる近づくと、そのひとが振り返った。そして「〇〇くん、どうも」と私の名を呼んだ。

彼だった。

向き合って、一瞬声を失った。後ろ姿から受けた印象以上に太っていた。まるで相撲取りみたいに。顔も学校時代の倍くらいにふくらみ、やっぱり元力士みたいだった。乗っている車いすも大きなものに変わっていた。マフラーの下に着たセーターも毛玉だらけ。色褪せたズボンには膝に食べこぼしみたいな滲みがついていた。

その後、駅内にあるスタバで昼飯を食うことにした。彼はスタバに来るのははじめてだと言い、きょろきょろとあたりを見渡した。メニューをじっくり見た後、ラテのでかいのと肉のたっぷりはさまったサンドイッチを注文した。私も腹は減っていたはずなのになぜか食欲が失せ、コーヒーだけを頼んだ。

彼はラテを飲みながら近況報告をした。なにを話されたか、内容はほとんど忘れた。最初はしっかり聞いていたのだが、ただひたすら一方的にしゃべり続けるのにだんだん疲れ、いつしか右から左に流してしまっていた。

会話が少し途切れた時彼は、ぼくもいろいろあってね、とつぶやきつつ、なんの前触れもなく左腕の袖をめくった。むき出しになった手首を見て、一瞬息がつまった。彼は押し黙った。私たちは沈黙におおわれた。

手首には、いくつもの傷痕が走っていたのだ。

その後、彼からひんぱんにメールがくるようになった。

ブログをはじめたから読んでくれ。最近はこのゲームが面白いからやってみて。私が狭い部屋だから本の置場に困ってる、というと、もしいらない本があったらぜひ送ってくれ、とまで言いはじめた。

その本の催促はその後もやたらしつこく、私もいい加減いらいらして、置き場所に困ってるだけでいらない本なんかないよ、と少しきつい言葉のメールを送ってしまった。すると彼から、ごめん、と謝罪が返ってきた。それからメールは一気に少なくなった。苦いものが口に残った。

なんか悪い気がして、読まずにいた彼のブログを開いてみた。あまりきれいに見えない紫陽花のトップ画像の下に、彼の文章が載っていた。日頃のなにげない生活のことがほとんど。だがそのなかに急に、障がい者はもっと立ち上がるべきだ、などという慣れない政治演説みたいなのが混ざっていた。コメント欄では某掲示板のごとく、反対意見を書いてきたひととやり合っていた。それを見た後ブログを閉じた、もう二度と開くことはなかった。

それから二年後くらいたった初冬、彼とは別の、養護学校時代の同級生から電話がきた。彼とはおなじ町に住んでいたこともあり、彼の一番の親友だった。

彼の親友は携帯越しに告げた。彼が事故で亡くなった、と。

翌日、私は彼の葬儀会場に向かった。そこで二十年ぶりくらいに彼の両親や彼の親友と会った。彼の親友は少し白髪が増えていたものの彼とは違ってそれほど見かけにも、乗っている車いすのサイズにも変わりはなかった。

葬儀会場には親族や彼がいた作業所の職員、同僚などが集まってきていた。そのすみっこに私と彼の親友は車いすを並べた。葬儀の準備が進むなか、彼の親友と少し話をした。彼は昇降用のリフトから転落したか挟まったかして、亡くなってしまったらしい。家族がみな出かけていて発見が遅れたのも不運だったようだ。

彼とはよく会ってたんだよね。私は訊いた。一番の親友だから遊びに行ったりしていたのかと、なにげなくたずねただけだった。すると意外な答えが返ってきた。いや、あまり会ってないよ。最近は電話とかもずっとしてなかったし。そっけないくらいに淡々とした返事だった。

それから葬儀がはじまった。読経と焼香が続くなか、すすり泣きの声があちこちから聞こえた。その後の弔辞では作業所の所長さんだという女性が彼が仕事熱心であり、花見やバーベキューでは率先して手伝いをするリーダー的存在だったと涙で声を詰まらせつつ語った。その後、友人代表として彼の親友が弔辞を読んだ。あらかじめ用意した紙を開き、学校時代のことなどを語った。さっきみたいに淡々と、泣くこともなく。

葬儀の間、私が泣くことも、結局なかった。

彼のことを思い返すことはなかったのだけど、最近になり、ふっと記憶の奥から浮かんできている。

スタバでの彼の一方的な会話。その後のひんぱんなメール。あつかましい本の催促。正直、当時は嫌気がさしていた。あんまりがつがつこられても、と。日々の仕事や生活のことで目いっぱいななか、作業所で気楽にやり、呑気にメールを繰り返す彼にいらだちもしていた。これは想像でしかないけど彼の親友のそっけなさも、そこに原因があったのかもしれない。

でも、記憶の底からもうひとつの光景が浮かび出す。彼の手首の傷痕のことを。

あれだけサンドイッチもろくに飲み込まずしゃべり続けた彼なのに、その傷痕の理由だけは話さなかった。話せなかったのか。だが彼は袖口をめくりあげた。客で混み合うスタバという、傷痕を見せるには最悪といえる場所で。

やはり聞いてほしかったのだ。そして、私も聞くべきだった。

へたくそだった、と思う。彼も私も。

「話したいこと」「聞いてほしいこと」「伝えたいこと」は、似ているようで全部違う。彼も私も、それがちっともわかっていなかった。うまいやり方もわからなかった。

私にいたっては、わかろうともしなかった。

彼がなぜあれだけ私とやり取りをしようとしたのか。距離をつめようとしたのか。ただおしゃべりしたかった、だけではなかったはずだ。だってあの傷痕を見せたのだから。あれだけ口を動かしていたのに、その傷を見せた時だけは静まりかえっていたのだから。

やはり言い直そう。へたくそなのは、私だ。

「話したいこと」「聞いてほしいこと」「伝えたいこと」の違いを、この年になってもわかっていないのは私の方なのだ。

ふと思い立って、さっきスマートフォンの電話帳を開いてみた。

画面を移動させていたら彼の携帯番号とメールアドレスが、まだ残っていた。見つめていると彼から、ごめん、と謝罪のメールがきたときの苦みがよみがえってきた。

削除しようか迷ったが、そのままにしておくことにした。もう住む世界は違うけど、へたくそ同士のかすかなつながりを、残しておきたいと思った。万一かかってきたら、思い切って出てやろうかとも思う。幽霊とか心霊とかあるのかわからないし、もし見たりしたら怖いが、彼だったらそんなこともない。

そして、そう遠くない将来、私も彼のところに行くだろう。その時はしっかり聞きたい。たぶん彼のところに行ってもへたくそな自分のままだろうけど、しっかり聞こう。

その傷、どうしたの、と。




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