みんな違ってみんな辛い、たぶん
「あれ、なんか普通と違うかも?」
そう初めて思ったのは、小学校に入学した頃だったろうか。当時の僕は昂ぶった感情を抑えることが苦手で、よく周りの友達と取っ組みあっては泣かされていた。
学年が上がると喧嘩こそ減ったものの、今度は先生と上手くいかなくなった。納得できない指導をする担任には酷い悪態をつき、教室からつまみ出されていた記憶がある。
しかも普段から活発なわけではなく、むしろ図書室に入り浸っているタイプだったので、そんな一面の表出に自分自身も驚いていた。
中学に進むと少しは落ち着いたが、高校ではカリキュラムと自分のしたい受験勉強の折り合いがつけられず不登校になった。
要するに、不安定で、天邪鬼で、意地っ張りな子供だったと思う。
そして、それぞれシチュエーションこそ違えど、頭の中には全く同じ"モヤモヤ"が生まれていた。言語化するのはとても難しいけれど、ネガティブな感情の黒い闇がみるみるうちに理性を塗りつぶしていくような感覚。何より、そういう悪い状態を自覚しても自制できない自分がずっと嫌いで、その脆さ故に自信もなかった。
ただ、その一方で、少しポジティブな"人と違う"ところも感じていた。例えば、小さい頃からなんとなく勉強ができたり、熱中するものがあると時間を忘れて没頭したり。
しかし、それらの凸凹の性質を一括りにして捉えられるようになったのは大学に入ってからだった。興味本位で心理学や教育学の授業を受けてみたり、就活で自己分析をしたりするうちに、少しずつだけど自分を俯瞰できるようになった気がする。
去年のある日、人気グループ「BiSH」のメンバーであり、自分のゼミの先輩でもあるモモコさんのあるツイートに心を打たれた。
これを読んで初めて、「凸凹も悪くないかも」と思った。逆に言うと、そう思えるまでに22年もかかってしまった。
とはいえ、他人を悲しませたり、迷惑をかけたりすることが正当化されるわけではない。
ある近しい友人に胸の内を話すと、こう言われたのが印象に残っている。
「そうだったんだね。でも、そんなの周りと付き合う上で関係ないよ。人を傷付けることの免罪符にも、言い訳にもならないから。」
文面にすると厳しく見えるが、彼女は決して責めていたわけではない。でも、僕には深く深く刺さり、この言葉はこれから生きていく上での道標になった。
最近、巷では「発達障害」や「ADHD」といった言葉がよく取り上げられている。確かに、当事者がその生き辛さと向き合う上では有効な入り口かもしれない。けれど極論、それらの言葉は人為的なラベルでしかない。
そりゃ人間には成功作もなければ失敗作もないわけで、そこにあるのは多分グラデーションのような違いだけ。
きっと人それぞれいろんな凸凹はあって、価値があって、生き辛さもある。誰しも特別だけど、特別じゃない。
だからこそ、自分の凹の部分に正しく対処して、最低限周りを傷つけないよう努力するのは一人一人の義務なんじゃないかなと思う。 自戒を込めて。
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