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「崇神天皇陵」 〜第10代天皇〜

「崇神天皇陵」 〜第10代天皇〜

 纏向遺跡の北、山の辺の道沿いに、第10代崇神天皇陵があります。

◆神武天皇と同じ初代

 崇神天皇は、第10代天皇とされていますが、日本書紀では、初代神武天皇と同じ「ハツクニシラススメラミコト」、すなわち「初めて国を治めた天皇」とされており、第2代から第9代の記述が少ないことから、崇神天皇=神武天皇、もしくは、崇神天皇こそ初代なのでは、という説があります。

 また、神武天皇から第8代孝霊天皇までの御陵が橿原近辺にあり(第9代開化天皇陵は奈良市内)、崇神天皇陵が、纒向遺跡の近くにできたのは、初期ヤマト政権が、このあたりを中心に発展したのではと考えられます。

◆疫病対応

 古事記によりますと、崇神天皇の御代に疫病が蔓延し、人々が死に絶えるのではないかと憂えていた時、夢枕に大物主神が現れ、「これは我が御心である。意富多々泥古をもって(三輪山に)我を祀らせれば、我が心も鎮まり、国も平安になるであろう」と言われました。

 天皇は神託に従って大物主神をお祀りされましたが、一向に効験はあらわれませんでした。そこで天皇はさらなる神示を得ようと必死に祈りました。すると、大物主神は、「我が子、大田田根子おおたたねこに私を祀らせるならば、たちどころに平穏になるだろう」と言われました。
 
 これをうけて、天皇が早速、大田田根子なる人物を探し、三輪山の大物主神を祀らせたところ、ようやく疫病が途絶えて国内は平穏となり、以後、大田田根子は大神おおみわの祭祀を司ることになり、三輪氏・大神氏の始祖となりました。
     

◆四道将軍

 また、崇神天皇のとき、ヤマト周辺の要衝地に、四道将軍が派遣され、大和朝廷の基盤を築いたとされています。

 大彦命(おおびこのみこと)は、北陸道に派遣された孝元天皇の第1皇子。

 武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)は、 東海道に派遣された大彦命の子。

 吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、西道に派遣された将軍で、孝霊天皇の皇子。桃太郎のモデルです。

 丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)は、丹波に派遣された将軍で、開化天皇の子。

 彼らの遠征は、大和朝廷の支配圏を拡大し、国家としての「倭(大倭)」を建設する過程で重要な役割を果たしました。

◆ヤマト政権と邪馬台国

 このように、崇神天皇の代に、疫病対策、四道将軍による領土拡大、桧原神社で記した天照大神の御巡幸等、以降の歴史に関わる重要な事項があり、日本の歴史のキーパーソンであることは確かですね。

 ちなみに、邪馬台国畿内論者の中には、卑弥呼の宮殿に出入りしていた男を崇神天皇に、崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命を台与(とよ)に見立てて、倭迹迹日百襲姫命の墓「箸墓」を魏志倭人伝に言う「卑弥呼の大いなる塚」とする説を説く人もいるそうです。

 いずれにせよ、三輪山の登拝を契機に、日本の古代史に導かれました。

「崇神天皇陵」


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