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夢が脳の整理であった時

ひと月ほど前から生活をガラリと変え、新しいことを始めた。
最近になってその新しいことの夢を見る機会があった。新しいことを始めたのは大体3週間前くらいだ。

夢を見ることは様々な理由や解明されてない理由が研究または言及されてきただろうが、一説としては脳の整理だと聞いたことがある。だとしたらようやく3週間前からの出来事を整理したことになる。随分と気の長い話だ。ようやく整理が始まったのかという印象を受ける。

自分の体のことは自分が一番よくわかっているようで、わからないことも多い。突然鬱で動けなくなることもあれば、ある日新たな喜びに目覚めることもある。意識下で起こっていることが全てではない。面白いような恐いような、不思議な感覚である。無意識下の働きが意識下にも多大に影響を与えていることを考えると、つくづく人間および生物というものは自立する巨大なシステムなのだと感じる。私たちには理性が備わっており、長年蓄積してきた歴史による肉体の変化や文化の形成、多様性を獲得してきた。これらは自然に得るべくして得たものなのだろうか、人間の進化する先は予測できないのだろうか。

陰謀論のようなものだが流行するもの、色や服、健康食品や創作のジャンルなどは一部の権力階級により順番や傾向が決められているという話がある。多くの人類が理解できるように、合わせられるように、または経済的に動向を掴みやすいように、徐々に世の中に浸透させているという話だ。概ね自由であるような気分で日々を生きている人々でも、社会と関わる中でその自由は誰かに管理されているかもしれない。

実際そうだったとしても関与できることではないので、どうでもいいといえばどうでもいい。真実である部分もあり、真実でない部分もあるだろう、世界は0と1ではなく間が無限にあるものだ。

最近、お坊さんやインドの高僧のような人々が世俗から距離を置くのは、修行という面もあるのだろうが、そうでもしないと社会と繋がる欲求から逃れられないからではないかと考えた。社会と繋がっている感覚というのは安心感や満足感が得られる。社会性動物としては正しい生理的反応だと思うが、「悟り」のような常人とは違う精神状態に至るためには世俗から離れざるをえないのだろう。その生理的反応を「弱さ」と呼ぶ人がいたのかもしれない。

結局のところは本人が何を求めるかでしかないのだが、自分自身が求めているものが本当に自分自身から発露したものなのか、それは生きていけばいくほどわからなくなる。時間はいやが応にも積み重なっていく。積み重ねた時間で得たものは「強さ」なのか「弱さ」なのか。願わくば他人に積み重ねられることなく、己の魂が真に求めるものを得ようとする自分でありたいものだ。


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