世界が変わった瞬間 オッペンハイマー【映画感想文】
謝辞
前提知識があった方が理解できる項目が多いだろうことが予測されたので、私は視聴にあたり上記の記事を事前に読み参考にさせてもらった。オッペンハイマーの感想をいくつか読んだ中で登場人物の多さに触れていたものがあったが、私は上記の記事のおかげか特に気にならなかった。本当にネタバレなしで理解を助けてくれたのでとても感謝しています。ありがとうございました。
感想
オッペンハイマーを観た。インターステラーやインセプション、テネットを作ったクリストファー・ノーランの最新作であり、原爆の父と呼ばれるオッペンハイマーを主人公にした史実的映像作品である。もちろん映画化にあたり脚色されている箇所は多々あるだろうが、原爆を落とされた側である日本人の私から見る原爆を落とした側であるアメリカの原爆開発者たちの物語は私が生まれていない時代の話でありながら地続きであることを強く感じられ、作中で広島と長崎のワードがでると自分でも驚くほどに心にゾワゾワとするものが広がった。
過去の作品で時系列の分解や量子論を軸にした時間や空間の超越を描いたSFを実にエンターテイメントに表現してきたノーラン監督が、戦争当時での理論・実践物理学の極致でありながら負の歴史とも言える原爆開発を真っ向から映像化するという行為が感慨深く、この作品が今の評価を得るにはクリストファー・ノーラン以外になかっただろうと強く感じさせられた。歴史的に見ても重要な作品であることは疑いようが無く、普段は手放しに面白いと思えた映画であってもオススメであるくらいに留める私でさえ出来る限り多くの人に鑑賞して欲しいと言葉にしたくなるほどに貴重な作品であるということは多くの人にとっても違えない思いになるだろう。
米国公開は2023年7月21日であったが、日本での公開は2024年3月29日と半年以上の開きがあった、アカデミー作品賞の確定とともにようやく日本での封を切られた本作は日本公開に至るまでに紆余曲折あったようだがその過程は私の作品への感想とは離れたものになるので掘り下げない。
本作を観て私はたしかにこの作品以外にアカデミー作品賞はあり得ないと思った。良い作品であるという話ではなく、それぐらいの覚悟とクオリティを感じる作品である。いずれ作られるべきで、そして世に評価を受けるべきものが世に出た。それがノーラン監督の手によって疑いようもない完成度で作られた。与えざるをえないだろう。本作にアメリカ賛美の様相は無い。安易な謝罪も無いし、良い意味で配慮も無い。あくまで当時の情勢の中なぜ物理学者達がロスアラモスに集い原爆を開発したのか、そのリーダーであるオッペンハイマーはどんな人物で、どんな人間関係を持ち、どんな思いを抱えながら原爆を作り、原爆が落とされたあとでどんな扱いを受けたのか、その重責と葛藤と時代背景を描いていく。
この作品はオッペンハイマーを主題にした原爆を開発するに至る科学者達の話であり、軍人と戦争の話ではない。しかし戦争で使われたそのたった一つの装置がただ一つで殺傷した人数は他の追随を許さない。戦争を変えた。世界を変えた。核以前と核以後で確実に人類は変化した。実際の被爆国としても爆弾が落とされた際の直接的な死傷者数だけでなく後年に至るまで長い長い傷跡を残していることは日本に生まれた我々なら知らないでいることのほうが難しいだろう。私も学生時代に修学旅行で広島と長崎に訪れたものである。
科学者たちが戦争で使う大量殺戮兵器を開発する。多くの場合本意ではないだろう。彼らは科学者であって兵器開発者ではない。ただしその核爆弾を正しく作れるのは自分たちしかいない。現実問題ナチスやソ連より早く作らねば抑止力としても機能できない。しかし、しかしそれは未曾有の大量殺戮兵器である。自国のためとはいえ正しい行いなのか、もしかしたら世界を破滅させるその一手目を打とうとしてしまっているのではないか、自らの生命を脅かす相手を倒すために人類種、いや地球そのものを滅ぼしかねない物を作ろうとしているのではないか。その葛藤がありながらも、そもそも本当に作れるのか?理論は正しく実践されるのか?という抗えぬ好奇心。それが核爆弾の投下という歴史的事実を認識している自分と単純に映画の展開としての期待をしてしまっている自分に絶妙にマッチする。科学者達の苦労は報われ無事に実験は成功する。そしてこの成果物は日本に落とされるものである。単純にあまりにも大規模な爆発の映像にワクワクしてしまう気持ちとそれを眺めるオッペンハイマーと共にゾワゾワと感じる不安感。観ていて感情が混然とする。大昔ならば神の怒りとでも表現されそうな圧倒的な破壊の力。その存在の成否は問わずただ実験の成功に対して嬉しそうな声をあげ笑顔を見せる者と、そのあまりにも眩い光に死と破壊を視る者、そして実際にそれを落とされた国である日本の映画館で見ている我々観客達、あのシーン、あの状況に私は自分が抱いている感情が如何なるものだったのか答えを出すのは難しい。鑑賞前はこんな気持ちになるとは思わなかった。もちろんノーラン監督が描くものがステレオタイプであるわけはなく私などの想像は超えてくれるだろうと大いに期待して観に行ったわけだが、それとは別にあくまで歴史的事実を記した映画をアメリカ側からの視点で作られたものであるということを念頭に置いて映像作品を楽しむ気持ちは忘れずに観に行こうと考えていた。それでも、それでもあの実験に至るまでを含めて、壮絶な映像体験だった。
他にも共産党員だった元妻の自死に嘆くシーン、爆弾の投下先を決める会議シーンや、敗戦濃厚である日本に投下する意義を問うシーン、投下後に大統領に謁見し「大統領、私は自分の手が血塗られているように感じます」と発言し恨まれるのは開発者ではなく投下した私だと大統領が発言しオッペンハイマーが弱虫となじられるシーン、どれもが印象的だった。オッペンハイマーのその後の水爆に対する姿勢、ソ連のスパイ疑惑を疑われた審問会とそれにまつわる謀略、普通3時間といえば長尺の映画だが、削りようが無い。行為の是非は映画で断じていない。どれもが起こった出来事を映しているのみだ。そしてどれもが必要なシーンだった。
映画とは少し逸れる話をするが私はその時々で社会に求められる才能というものが存在すると考えている。当時原爆を作った彼らが現代に生まれた時、新しい大量殺戮兵器を作ることはないだろう。同じ才能を持つ人間であっても生まれた時代と環境により為すことは変わる。その時の社会が求めるものに合致した人間が岩から剣を引き抜いたかのように偶々選ばれてしまう。あるいは社会に選ばれなかったが故に何かを為すこともあるだろう。幸か不幸か善か悪かは時と場合と立場によって変わってしまう。
もちろん個々の意志というものは存在する。私たちは自分自身で自分の人生を選び取っている実感を持って生きることが出来るし、実際に行動することで変化が起きる。運命が全てを決めているとは思わない。ただ歴史として過去の行いを総括して見るとあたかも群体として機能したかのように見える時がある。その時見出され突出した誰かが後の世に名を残したのであって、事象それ自体は起こるべくして起こったように見えてしまう。誰が誰に、どこがどこに、それらは些細なボタンのかけ違いで変わったかもしれず何が起きたかは止められぬものであったようにさえ見える。
しかしだからこそ私たちは歴史に学ぶ。過去の行いを振り返り未来に繋げられる。人類は未だ滅びには至っていない。人類が自らを滅ぼす力を理解し創造してなお、こうして被爆国の視点だけでなく開発者たちの視点さえ一映画として享受できる世がある。私はそれが嬉しい。
以下は余談である。主語を大きくして話すのは傲慢に思えて全然好きではないのだが、本note中では今を生きる日本人の感想としての側面がどうしても出てしまうと思い、端々で用いさせてもらった。大目に見てもらいたい。傲慢ついでだが日本で公開されて日本人の感想が世の中に誕生してこそこの作品の真価が定まったと感じるので公開前にアカデミー賞が決まってしまったのは少々残念な気持ちがある。もちろん作品に非はない。公開前だろうが公開後だろうがアカデミー作品賞を受賞したことに不満は1ミリもない。ただ本作の最後で賞を与える意味について言及したように私はそれを考えざるをえなかった。
この記事が参加している募集
観たいものも読みたいものも尽きないのでサポートいただければとても助かります。