読書感想文『乳と卵』川上 未映子著

■タイトル
乳と卵
■著者
川上 未映子
■備考
第138回芥川賞受賞作

『乳と卵』を読了。グルーブ感のある小説だった。

あちこちのレビューなどで本作は「文体」が良いと評されている。ふむふむなるほど確かに文体が良いよねと知ったかぶって同調してもいいが、恥を忍ばずに言うと僕はこれまで「文体」という概念についてきちんと考えてこなかった。なんとなくラップで言うライムのようなものだろうかと想像していたが、ここは念のためにきちんと調べてみることにする。

  1. 文章の様式。和文体、漢文体、あるいは書簡体など。

  2. 筆者の個性的特色が見られる、文章のスタイル。

各所で評価されている「文体」とは後者の2のことを指すのであろう。ライムとは似ても似つかない。改めて意味を知ったうえで考えたとき、その評し方に僕は少し物足りなさを感じる。本作の魅力は「個性的特色」ではない気がする。果たして本作は本当に「文体」が良いのだろうか。

読み進める中で僕が本作に感じていたのは、「人の思考の文章化」だ。人の思考は流動的だと日々感じる。違う言い回しをすると、僕たちの脳内ではいつも何かしらの連想ゲームの繰り広げ、繰り返されている。例えば今日どうしてもしなければいけないことがある。せっかくだから用事はできる限り集約したい。さっそく脳内で他に処理せねばならない事柄をあげつらい始める。まずは買い物、それから公共料金の支払いあとは…と思いを巡らすうちに、処理せねばならないことはどんどん増え、次第にどんどん面倒になってくる。ちょっとくらい現実逃避をしてもいいか、なんてことを思ってゲームを始める。気づけば熱中、過ぎたるは時間、時すでに遅しとすべてを諦めていつのまにか床についている。眠りを挟んだことで出発点であった今日中の用事のことそのものを忘れたりする。

ここまで怠惰とは言わないが、人には大なり小なりこのような行動がつきものだろう。連想ゲームと己の感情が混ざり合い、当初のことからかけ離れていく。そうかと思えば不意に当初のことに関連したものが思い出されて急に近づいたり、せっかく近づいたチャンスを逃して目についた全く関係ないものを追い始めたり、その限りはキリがない。本作は登場人物たちのそんな思考が続き続ける。再現性ともいうべき作者の描写力もあって、その思考に流れるように引っ張られるように読んだ。

文章とは、句点という区切りを用いて一貫した事柄を描かれ、完結している必要があると思っていた。特に小説、その内の純文学と呼ばれる高尚な位置づけのジャンルなどであれば殊更そうでなければいけないという先入観が僕にはあった。本作では多々、文章が一貫していないことがある。読点を用いて一見繋がっているようにも見えるが、前の句点に遡って読んでみたりすると、全然違うところにオチがついているじゃないかと思わずツッコミたくなるような文章が本作では度々登場する。しかしそれでも一向に読み進めることに違和感を覚えることがない。文章があっちこっちに飛んでいくのが、まるで日々の思考の巡りのようであり、飛び飛びに見えるが実は薄っすら連想で繋がっていて、登場人物たちにとっては一貫している。つまり本作はそれだけ共感できるような自然な思考の流れが文章化されているのである。

従って本作は作者の「個性的」な文章に惹きつけられるという作品ではない。本作が評されたるべきはそれだけ流動的で掴みにくい思考を忠実に再現できたその描写力である。

本作はそのような文章で構成されているため、テーマ性をもって描くことがとても難しいタイプの小説である。なぜならば自由にうねる思考をある一つのテーマに沿わせ続けて描くというのはその自由さに相反してしまいかねないからだ。人は生きていく中で、もちろん個々人でテーマのように大切にしているポリシーは存在しているだろうが、あらゆる行動と思考を常に同じテーマを纏わせ続けて生きてなどいない。そうしたくても不意に生じる衝動や妥協などで違う瞬間がどこかにあってしまうはずである。しかし本作にはそのような思考への束縛も、テーマ性の欠落も感じない。それどころすべての思考が一つのテーマ性へと集約されており、マリアージュされている。

女性とは何か。男性でノーマルな僕にはその葛藤については理解できない。理解できたつもりになっても、きっと本人たちには遠く及ばないようなものなのだろう。それでも本作にはその葛藤を、それを想像したことがないようなアホ男な僕にも感じさせるような力強いテーマがある。

なりたいと思っていなくても身体が女性になっていく娘、女性性の証であるおっぱいを豊胸しようとする母。卵は同じく受精しなかった証である生理を想起させる。卵を頭に打ち付け破壊し母娘が泣く風景は、女性性なんて概念を打ち砕くフリをして一時的な現実逃避をし、言葉を超えて共感し合っている瞬間なのだと僕は読んだ。きっと女性とは何かという問いに答えなんてない。いくら受精しなかった卵を破壊しても、女性から逃げられるわけではない。状況は何も変わっていない。それでもあの瞬間に母娘が共感しあったことが、彼女らの人生においてお互いの救いとなり、前に進むための礎となっていくのだろう。

本作は二泊三日という短期間に起きたあるテーマと、それに沿った思考が奇跡的に噛み合っている瞬間を上手に切り取り、配置した計算しつくされた小説である。以上。

この記事が参加している募集

#読書感想文

190,092件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?