「ありふれた演劇について」49
先月はお休みをしてしまったので、久しぶりにこの演劇論を書いている。今は先日情報公開された『NEO表現まつりZ』の準備と、今後の公演のための諸々の調整に追われながら、プライベートでも大きな変化があったので、3人くらいのカゲヤマが同時にわらわら動いているような状況である。忙しくはあるのだけど、どこかこれまでにないような、新鮮な気持ちもする。健康第一でやっていきたいと思います。
そんな中、円盤に乗る派の『料理昇降機』の上演も来週(5月3日~4日)に迫っている。本当は先月上演する予定だったのだが、私含む関係者数名が新型コロナウイルスに感染してしまい、いったん中止として、5月に振り替え公演を行うことになったのだ。ちなみにこの公演は円盤に乗る場内の企画「NEO表現サテライト」の一環で開催される。これは先述の『NEO表現まつり』に向けていくつかの団体が(簡単に言ってしまえば)ワークインプログレスを行うというもので、比較的実験的な要素が強い。と言っても各作品は上演として独立しているものが多く、これだけ見ても十分満足できるようなものになっていると思う。
『料理昇降機』は円盤に乗る派のメンバー・日和下駄が座長となって制作されており、私はあくまで「ウォッチャー」という立場で、座組の一人として関わっている。今回の記事では、その「ウォッチャー」として『料理昇降機』をどう見ているかについて書きたいと思う。
そもそも今回の企画は、以前こちらの演劇論にも書いた、「俳優としての主体がまさに作品の主体になる」ことは可能かという問いに端を発している。その中で私は、「俳優論そのものが作品となっている」ような作品であれば、それが可能になるかもしれないという仮説を立てた。円盤に乗る派としては2023年の『NEO表現まつり』にて、俳優二人(日和下駄・畠山峻)の俳優論を展示という形で作品化したが、本年はいよいよ上演作品を作ってみることになった。まず円盤に乗る派メンバーだけで上演をやってみて、その後『NEO表現まつりZ』では外部のメンバーも招いて、集大成的な作品を作るという目論見だ。
上演作品を作るプロセスは、日和下駄の俳優論がベースになっている。私の見ているところ、そこには二つの柱がある。ひとつは、〈戯曲〉を〈良く〉読むことを目的とすること、もうひとつは、何かを全体で決める必要があるときは、合議にて決めるということだ。
〈戯曲〉を〈良く〉読むというのは、ある戯曲に書きこまれている、秀でていると感じられるもの=〈良さ〉を、繰り返し読み込むことによって自分にとっての経験と結びつけ、個別の〈良さ〉を自分の中に構築していく行為、と言うことができるだろう。特徴的なのは、そこでは他者はあくまでも自分が〈良く〉読むための補助的な役割にとどまり、決して他者にとって〈良く〉見えることを重視しないということだ。
今回の制作過程では、「面白い上演は目指さない」ということが繰り返し、合言葉のように言われていた。あくまで目的は、自分にあるいは自分たちにとって戯曲が〈良く〉読めることであり、他者(この場合は観客)にとって面白いものを作ることではない。作品としての面白さには統一的な価値基準=演出が必要だが、今回のプロセスではそうした基準は作り得ない。
具体的な例を挙げると、今回の上演において、俳優は台本を手に持って演技を行う。通常の上演であれば、それは観客にとって没入を妨げることになるし、俳優同士の身体的な関係性も見えにくくなってしまうため、避けられがちな選択となるだろう。しかしこのプロセスにおいてはそれは問題にならず、むしろテキストを傍らに置くことによって俳優はそれをより〈良く〉読めるようになるのだ、とメンバーは言う(しかし同時に、それも決して確定事項ではなく、もしかしたら本番になったら台本を外しているかもしれない、とも言っている)。
面白い上演は目指さず、〈良く〉読むことをひたすら目的としていても、やはり上演作品を作る過程においては、全体として何かの選択をしなければならなくなる。衣装や小道具はどうするのか、舞台空間をどう配置するのか、そもそも上演する戯曲は何にするのか。通常の制作であれば演出家やプロデューサーが行うそうした選択は、今回はすべて合議にて行われた。ピンターの『料理昇降機』を上演するという選択も、決して特定の誰かの「これを上演したい」という欲望に基づくものではない。戯曲選定会議では、各々が持ち寄った複数の戯曲を候補に議論を進めていたが、二つまで絞ったあとどうしても最終的な結論が出せず、結果的にコイントスで決定された。
そういう意味で今回の作品は、極個人的な「読み」と、合議が行われる他者との境界面、そしてあらゆる偶発性という三つの領域が統合されないまま同時に混在する、ある意味では異常な公演になっているように思う。
ここまでの説明を読んで、そのような作品は果たして作品として成り立っているのか、作品としての価値はあるのかと思われる方もいるかもしれない。まだ本番を迎えていないのであくまでこれは仮説にすぎないが、おそらくある、と私は思っている。
本番に近い形での通しを見た限りでは、この作品は「中途のもの」「未完成のもの」でありつつも、上演として成り立っている。言い換えれば、その未完成さ、非本質さそのものが、この作品の鑑賞における体験となっている。未完成さ、非本質さの体験を楽しむ作品、と言うこともできるかもしれない。
つまり、例えばカフカの『城』を読むということが「城」の不在を体感する体験であるように、この上演は、「『料理昇降機』という戯曲が本質を欠いたまま上演される」ことそのものを経験するような作品となっているのだ。しかし、やっている当人たちは決してスカしていたり、怠慢な態度をとったりしているわけではない。むしろ逆に、ひたすら真面目に、馬鹿馬鹿しいほどベタに、戯曲に挑もうとしている。そこには確かに、見ごたえも発生している。
未完成で、非本質的なものが、しかし非常な真面目さでもって目の前で展開しているという体験は、とても稀有なものだ。観客はここでは、解釈の呪縛からも自由になれる。目の前の作品からある「正解」の解釈にたどり着かなければいけないという呪縛は、時として観客に相応の負担を強いることになるだろう。非本質的なものを目前にすることによって、観客の思考はその呪縛を離れ、自由な思考が可能になるかもしれない。
勘のいい方はお気づきかもしれないが、この作品が果たしていることはまさに俳優の仕事そのものだ。俳優は基本的に、その作品の本質を背負うことはない。俳優はある時点ではある解釈に基づいた演技をしていたとしても、次の日違う解釈の演出が与えられれば、まったく異なる演技をすることになるだろう。しかしそれは決して不真面目な態度ではない。むしろ逆に、あまりにも真面目に非本質的なものに向かい合うことが、俳優の仕事と言えるかもしれない。
そしてその俳優の仕事を目前にした観客は、同時に通常の観劇とは異なる方法で作品の本質にも肉薄することになる。
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