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basement

 僕の住んでいるアパートの内廊下に変な臭いがし始めたのは、ちょうど一週間前ぐらいからのことだ。乳製品が腐った時にする鼻に刺さるような酸味の強い臭いである。このご時世でもまだ多くの住人は皆んなマスクをしていたから、最初はそれがどれくらいきついものなのかわからなかったのだと思う。だけど二日が経ち、三日が経ち、それは三階に住んでいる僕が部屋から出るとその瞬間に顔を顰めるような臭いになった。家から出る時のために内廊下を歩いている感じでは発信源は多分一階なんだろうけど、多分その階に住んでいる人たちはもう臭くて臭くてたまらないだろうと思う。管理会社は何やってるんだよと思うけど、このアパートは何度も管理が変わって、もう住民の殆どはどこのどういう会社が管理を任されているのかも大して意識していないのかもしれない。結局この問題はアパートの出入り口に『一階に刺激臭のするものを置かれている住民の方がおられます。他の住人の方から苦情が出ておりますので、撤去されるよう願います』とかいう他人任せな注意文が提示されただけだった。

 臭いの原因は多分、というか、そうであれば良いと思うのだけれど、住民の誰かが死んでいるんだろう。腐臭、死臭、どんな呼び方をしても良いのだけれど、たぶんいまこのアパートに住んでいる人は死体と一緒に暮らしているんじゃないだろうか。少し前まで人間だったものと一緒に暮らしている。そのかつて人間だったひとはこの長い期間狭い1Kのアパートに放置されて、ゆっくりと腐っていって、ついには部屋からその臭いが漏れ出すような状況になってしまったんだろう。

 僕はその死体がどんなひとだったのかを考える。高齢の方なのだろうか。それとも二十代とか三十代とか、まだ若いのだろうか。単身者向けのアパートだからきっと一緒に暮らすような家族はいないんだろう。両親や兄弟はいるんだろうか。一緒に遊ぶような友人はいたんだろうか。この狭い蜂の巣のようなアパートでひとりで死んでしまって腐臭がするまで誰にも顧みられないことにはどんな理由があったんだろう。

 それでもいつかこのアパートの下層を覆っている異臭は取り除かれるんだろう。その原因は僕が考えるような人間の死体で、全身を防護した特殊清掃の白い服を着たひとたちが現れて、彼がいた証みたいなものを綺麗さっぱり取り除いてオゾン消臭で全てを消し去ってしまうんだろう。僕はそうであることを祈る。彼の住んでいた部屋は元通りになるかもしれないし、そうでもないかもしれない。床下に染み込んだ体液が根本からこのアパートを腐らせて取り返しがつかなくなってしまうのかもしれない。そうして管理会社はやがて今いる住民たちに何らかの通達をするか、それとも住民たちの方からこのアパートを出ていくことを選ぶかもしれない。

 僕はここ数日の間、午前三時ごろに一階に降りる階段に座り込んで一時間ぐらい何度も深呼吸をしている。とてつもない悪臭が鼻腔を襲い、とても気分が悪くなってしまう。だけど、それでもやはり死んでいるということ自体が僕が勝手に思い込んでいるだけなのかもしれないけど、同じ場所に住んでいたのに、結局誰かも知らないまま死んでしまったひとのことを考えたかった。

 どんなひとだったんだろう。死ななきゃいけないようなひとだったんだろうか。それとも必死に生きていたいと思っていたんだろうか。秋葉原の近くに住んでいたぐらいなんだから、アニメや漫画が好きだったのかもしれない。どんな作品が好きだったんだろう。それとも単に職場の都合だったのかもしれない。思い込みでも構わなかった。僕は僕の周囲で死んでしまったひとのことを、僕なりに身勝手に覚えていたいと感じる。

 僕と一切関係なく死んでしまったひと。やがて僕も彼の死とは一切関係なく死んでしまうんだろう。それはぼくが故郷を捨てて、誰も自分を知っているひとがいない場所に居を移した理由となんだか良く似ているように感じた。僕がどんな若者だったか。どんな風に恋をして、どんな本を読んで、小さな頃にどんな夢を見て、どんな大人になりたかったか。──どんな大人になって、どんな風に自分というものを形成したかったか。僕の周りにいるひとたちには誰にも知らせたりしなかった。

 僕は夜のうち異臭を吸い込みながら何度も何度もそのことを考えて、そしていま暗い部屋の中でそのことで何度も安心している。ぼくはただそこにあるだけのものに少しずつ近づいている。誰しもの中で少しずつ僕のことが気にも留めないものに変わっていく。それは僕にとって何よりも幸せなことだった。

※0601追記
 朝アパートに何人も警察のひとが来て、口々に「ドアノブ」「ドアノブ」と話しているのが聞こえた。もうしばらくするとこのアパートを包んでいた臭いは消えてしまい、全部忘れられてしまうんだろう。

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